趣味としての評論

趣味で評論・批評のマネゴトをします。題材はそのときの興味しだいです。

笑論 -笑いの分類についての粗雑な論考-

 

 

 

 初めに

 本文はもともと、バラエティ番組「水曜日のダウンタウン」の「クロちゃん企画」について思ったことを残しておこうとして書き始めたものでした。しかし途中で嫌気がさして辞めてしまったので、「これはもう、日の目をみることはないな」と思っていましたが、折角書いたので何とか形にして発表してみようと思い立ったゆえ、ここにまとめてみました。

 *先行研究や、類似するものには一切触れていないので稚拙な論考にはなりますが、その分原始的なロジックで読みやすいのではないかと考えております。

 

「ギャグ」と「コメディ」

 ここではまず、「笑い(ユーモア)」のテクニック分類として「ギャグ」「コメディ」の違いについて述べさせていただきます。「ギャグ」とは「笑わせること」が目的として作られたユーモアで、「コメディ」「笑われること」が目的に作られたユーモアです。「笑わせること」と「笑われること」の間には、表面的な違いはないものの、その意味には大きな違いがあります。

 

①「ギャグ」という「笑わせるユーモア」

 「ギャグ」と言われると何を想像されるでしょうか。「一発ギャグ」「オヤジギャグ」「ギャグ漫画」……などと、日本語には数々の「ギャグ」が存在するわけですが、「ギャグ」とはつまり、行為者(ギャグする側)」が「被行為者(観客)」を笑わせることを目的に行うユーモアのことです。「行為者」はわざと「面白いこと・愉快なこと」をして「笑い」を生み出します。

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  「笑わせる」ことが目的である以上、行為者は「自分の行為がなんらかのユーモアを備えている」と思って「行為(=ギャグ)」をします(そしてその企みが、被行為者の好み・感覚とズレていたとき、「スベり」ます)。この部分が、「コメディ」と大きくその特徴を異とする箇所になります。

 またギャグの特徴として以下のものが挙げられます(全ての「ギャグ」がこれらを含むわけではありません)。

 

 ➊「直截性」……「わざと笑わせる」ものなのでギャグはとても直截的なものが多いです。行為者と被行為者の目が合うこともしばしばあります。「ノリと勢い」で笑わせるものの場合この傾向が顕著と言えるでしょう。

 ❷「過激性」……「直截性」同様、意図的な笑いの誘発が目的のものなので、その場限りの「激しさ」がよくあります。裸芸(アキラ100%)や絶叫(サンシャイン池崎)などはこの「過激性」を重視した「ギャグ」です。

 ❸「単発性・短時間性」……➊、❷の特徴ゆえに、「ギャグ」は短い時間に、一瞬で弾けるようなものになります。ボケ→ツッコミの応答はその関連性を保つためにも、ごく短い時間で行われます。

 ※「笑わせるユーモア」には、ギャグの例外的存在として「機知・ウィット」があります。これは意図的に被行為者から笑いを引き出すことを目的とした行為ですが、ここにはしばしば、ギャグに含まれる「直截性・過激性」が存在していません。「機知・ウィット」の場合、「気の利いた事。感心させられること。直感ではなく論理的なおかしみ」が内在しています。またシュールな笑いもここに分類されるものではないか、と私は考えます。

 

 

②「コメディ」という「結果としてのユーモア」、そして虚構性

 「ギャグ」が笑わせることを目的としている一方、「コメディ」には、その恣意性(言い換えるなら「わざとらしさ」)はありません。少なくとも、「ないようにみせかけて」行為することがルールです。「コメディ」における行為者には、課せられた条件として、「被行為者(観客)に、自分の行為は自分にとって重要で、通常の行為であるのだ」というように見せかけねばならないのです。それはつまり、コメディ役者は「役者としては」自分の行為のユーモア性を認識しながらも、「役」としてはそれを、むしろ「そんなこと」に構ってられないような心境にあらねばならないという枷がある、ということになります。

 また「コメディ」には前提として、媒体そのもの(コメディ映画やドラマ)が「虚構」であることが求められます。我々は、「虚構」であることを前提にしなければ喜劇を鑑賞することはできません。なぜなら、「虚構」でないもの、つまり同次元に存在する事実を笑うことは、ただの嘲笑と化してしまうからです。「コメディ作品」と「鑑賞者」の間には絶対の壁があり、これを超える・もしくは破壊すると、「鑑賞者」は「目の前の滑稽」を笑う不謹慎者と成り果ててしまいます。逆に考えると、「コメディ」は「誰かの不幸を笑う」タブーを、限定的に取り払うための一つの手段という側面があるともいえます。

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 またコメディの特徴として以下のものが挙げられます(全てのコメディがこれらを含むわけではありませんが、「虚構性」は概ねのコメディに不可欠です)。

 

 ➊「可笑性[かしょうせい]……「可笑」とはつまり、「笑うことが可能である。笑っても許される」ということです。現実の出来事であれば、不憫で悔やまれるようなものでも、コメディでは、後述❷の「虚構性」を得ることで、「笑ってもいいもの」として扱われます。

 ❷「虚構性」……前述のように、コメディには前提として「虚構(つくりもの)」であることが求められます。しかしこれは基本的に、視線を向けられないものです。「虚構性」は前提でありながらも、被行為者はそれを思考から追い出しながらメディアを楽しみます。つまり、コメディ映画を観ながら、常に「でもこれは作り物だから」 と考えるわけではないということです。そのつくりものの世界に没頭できて、「虚構性」を忘れられる「コメディ」こそ、上等のものと呼べるでしょう。

 ❸「連続性・長時間性」……コメディはしばしば、物語を基盤に展開されることが多いユーモアです。ゆえにその中には、意味や展開の連続性が、そしてユーモア自体が比較的長時間のものとなります。

 

「ギャグ」と「コメディ」の関係

 「ギャグ」と「コメディ」の、二つの分類の関係は、実際には混ざり合っている状態にあります。完全純粋の「ギャグ」あるいは「コメディ」というものは存在しません。つまり、古今東西のあらゆる「笑い」には、「ギャグ」っぽさ(ギャグ的要素)と「コメディ」っぽさ(コメディ的要素)が同時に混じって生み出されているのです。

 

 

 ここから、「水曜日のダウンタウン」がコメディの虚構性を破壊しているさまを記述して、その笑いのシステムが自己崩壊的なものであると言いたかったのですが、水曜日のダウンタウンアーカイブを確認し直していく作業が非常に困難であったので断念せざるを得ないものとなりました。

 ざっくりいうと、「クロちゃんのこといじめすぎじゃない? というか、いじめの構造をそのままいじめっ子目線で笑いにしちゃうのってやばくない?」ということなのでいちいち小難しく描く必要もなかったのですが、途中まで書いたのでもったいないし、とりあえず形にしているだけの「かきちらし」です。ここまで読んでいただけたら光栄でございます。拙文を失礼。