趣味としての評論

趣味で評論・批評のマネゴトをします。題材はそのときの興味しだいです。

アニメ「青春ブタ野郎(略)」第三話まで観た感想考察。

 

*この文章にはテレビアニメ版「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」のネタバレと個人的な妄想があります。ご注意ください。

 

「青ブタ」みましたか?

 今季から放送が始まっているアニメ「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」。皆さん観てますか?

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 原作は鴨志田一原作の同名ライトノベルで、現代日本を舞台にしたややファンタジーのある青春物語といった感じの内容で、なかなか面白いです。私は今三話を観て、びっくりしてこれを書いています。三話までで一応、1エピソードが落ち着く、という感じなのですが、やってることがすごかったのでとにかく感想を書きたい

 

 

もはや伝統的な物語構造

 私はライトノベルとか文学のとかの系統史にまったく明るくないので、有識者が読めば、「おいおい」的なところあるとは思いますがご容赦ください。

 「青ブタ」は主人公の一見ダウナーな高校生・梓川くんが、彼の周囲の困ってる女の子たちを助けていくという、かなりおなじみの大筋のなか進んでいく物語なのですが、ちょっと面白いのは彼女たち(あるいはこれから先、男もいるのか?)は、「思春期症候群」という謎の現象に悩まされているということです。

 

 本作に登場する怪現象「思春期症候群」とは、思春期に差し掛かった子供が、何らかの都市伝説的不思議現象に遭遇するという噂で、物語では、それに「罹患」(あえて罹患といいます)したキャラクターたちが次々と現れていきます。

 

 この子たちには往々にして心の悩みのようなものがあり、それが「思春期症候群」の原因であったりするのですが、この物語構造は、ちょっと前にかなり流行っていたような(今でもでしょうか?)気がします。

 

 つまり、「何かしらの心のゆがみを持つ(あるいは歪ませられている)人の、その歪みが、世界において形を以て異常として現れる」という舞台設定がこの作品にはあります。

 

 こうしたものを目にしたとき、やはり私たちにぱっと思い浮かばせられるのは、西尾維新物語シリーズではないでしょうか。あれらの作品群もまた、(特に第一作『化物語』において顕著に)そういった基本ベースが読み取られます。

 

 実際の世界に対応させれば(これはかなりの邪な行為ですが)、心を傷めてしまったひとの、その人が生み出す神経症的な問題を言語的な解釈で「治療」するようなかたち、京極堂シリーズ」(京極夏彦でいうところの「憑き物落とし」的なお悩み解決の物語なわけです。

 

 

じゃあ何がすごいの「青ブタ」

 「青ブタ」の物語の大筋(三話時点での印象に過ぎませんが)をここに示したわけですが、「青ブタ」のすごいところはここではありません。このアニメの、特に第1-3話にかけて取り扱った問題がすごいんです。視聴済み、あるいは原作ファンの方であれば、お分かりかと思いますが、アニメ1-3話・「桜島麻衣」にまつわる物語は、「空気」との対決を描いています。

 

 

「戦って、そして勝つ」を描くこと

 「空気を読む」でおなじみの、あのいやらしい「空気」ですが、本作で最初に取り扱われるテーマはその空気に抗うことです。このことは、現代を生きるわたしたちとって大変難しいことであるというは、説明の必要もないでしょう。

 

 詳しくは省きますが、そういったあの「空気」によって存在を消されかかったヒロイン・桜島麻衣を救うために、主人公の梓川くんが一人で、空気と対決します。しかも勝ちます。

 

 まず前提として(設定として)梓川くんはややアウトロー気味で、友達のほとんどいない皮肉屋の少年です。ちょっとした勘違いから、学校はならず者の危険人物であるかのように扱われています。つまり彼は、社会から理不尽にも疎外された人物であるわけです。

 

 そういった彼が、「空気」に立ち向かうということは現実的には当然ながら、かなりハードであると言えます。実際彼はヒロインの登場までは、「空気」に対し、冷笑的な、降伏の態度を示しています。この辺りには、村上春樹の小説によく似た雰囲気があります。彼の書く小説、特に初期のものには、社会やシステムに対する諦念があります。村上の場合「やれやれ」と首をふること、あるいは些細で頑固な反抗をすることで、結果主人公は打ちのめされますが、なんとか納得いく帰結を求めていきます。(村上の小説に特異というよりは、ハードボイルドものの基本形態と言えるかもしれません)

 

 しかし、「青ブタ」の場合そうではありません。梓川くんは対決します。彼は「空気」をひっくり返すことに成功します。そしてその過程を描くところが、そこが「青ブタ」のすごいところです。梓川くんは、「空気」と対決するために、桜島麻衣への愛の告白を全校生徒の前でゲリラ的に行います。このシーンは、ひとによっては、微笑ましい青春の一ページかもしれませんし、もしくは、戯画化された失笑の演出でしかないと切り捨てるかもしれません。ただ、ここで誰もが思わざるを得ません。「自分にはこんなことはできない」。たとえどんな意味であっても、そこに「空気」の拘束がないと言い切れるひとが果たしているのでしょうか。

 

 ここでは、他の物語的手法を使うことなく(たとえば、「心理の解明」や「怪異の退治」)、「実際にのリアルな空気に向けての声」という対決方法をとっています。「青ブタ」のこのエピソードが大変優れているのは、この部分です。これは、「空気と戦うということは、まったく手加減なしに、自分という個人を以て〈自分以外〉と立ち向かうことである」という重要なものを示しています。

 

 梓川くんの行動は、一見、滑稽で、かつ恥ずかしい(彼自身そう独りごちます)ものです。そして「空気との対決」には、それらが宿命的に備わるものだと言っても過言ではないでしょう。他でもない自分が、恥ずかしかろうと、場違いであろうと、自分以外の全員が見ている場所で何かを言う。このことが、空気と本当に対決する強い態度であることを、この物語は指し示しています。

 

 

まとめ的何か

 ここまでの解釈が指し示すところいけば、「青ブタ」は今を生きる我々に対して、かなり致命的に睨みを利かせた、ソリッドかつタフな物語であると言えます。未だ第三話までしか放送されていないところ、物語の価値を定めるのは余りにも早すぎるところですが、既に第三話までにおいて、相当に力強い意味を引き出しているこの作品をチェックしないわけにはいかないでしょう。

 

見てないひと、見てね!