趣味としての評論

趣味で評論・批評のマネゴトをします。題材はそのときの興味しだいです。

「ダリフラ」解読 ―父の世界から愛の世界へ―

 

 

*本記事にはテレビアニメダーリン・イン・ザ・フランキスネタバレ個人的考察が含まれます。ご注意ください。読んでいただける方については、当該作を視聴済みであることが期待されています。

 

このように父親に憧れるのは、人間は無力であり

その無力さのために生まれるものから保護される必要があるからなのである。 

 - ジグムント・フロイト*1

 

 

はじめに

 

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 「ダーリン・イン・ザ・フランキスは2018年1月-7月の間に放送された日本のテレビアニメーション作品です。製作はTRIGGERA-1 Picturesの二つのスタジオの共同で、監督は錦織敦史

 

【ものがたりのあらすじ】

 科学技術の発展の末に、人類は「マグマ燃料」と呼ばれる地下資源を発見し、それによって最高峰のテクノロジーの恩恵に浸っていた。しかし、マグマ燃料の使用とともに現れた「叫竜」という謎の巨大怪物によって文明への攻撃が始まる。

 人類を統治する組織・APEは叫竜に対抗するため、人型のロボット兵器「フランクス」を開発し、その搭乗者である二人の男女「パラサイト」の役割を、十代の少年少女たちに負わせた。

 パラサイトの一人である少年・「コード016」こと「ヒロ」が、赤い角をもつパラサイトの少女「コード002」(ゼロツー)に出会うところから、物語は始まる。

 

 舞台として〈SFロボットモノ〉のアイテムがずらり並べられた本作には、シンプルにSFストーリーを楽しみ、また青春群像劇として主人公たち13部隊のセンシティヴな心の動きを追いそれに共感するような心理を味わい、あるいはゼロツーという稀代のヒロインを愛でるなどと多種多様な楽しみ方が存在します。

 しかし、優れた物語が往々にしてそうであるように、この「ダリフラ」には明言されないかたちで示されるいくつかのテーマが存在します。そしてそれらのテーマは、決してアニメーションという虚構の世界に限定されるようなものではなく、現代世界の問題について言及したものになります。そうしたいくつかのテーマは「たとえ」の方法によってわたしたちの生きる意味を見つめ直す視点をわたしたちに差し向けるような作りになっています。

 「たとえ」の方法とはつまり、「比喩」のことです。現実の世界の物事について直接に説明や考えを言うのではなく、「物語」という手段によってそれに対するメッセージを送るのが、この比喩=「たとえ」の方法です。本作「ダリフラは、主人公である「コドモ」たちの視点から、彼らの成長を描くことで、そこに「今のわたしたちの生活や生き方」に対する「たとえ」がふんだんに、折り込まれています。

 本記事では、そのなかでも重要な部分のいくつかをピックアップして、解説していきます。この作業は、ある意味では「物語の意味」を引き出すことでもあります

 

 

与えられた価値

 

  物語のはじめあたりから半ばまで、もっとも強く描かれているのは、「パパ」(人類の統治機構・APEの幹部たち)の存在です。主人公たちは「コドモ」とよばれ、厳格な競争原理と情報統制のなかで「パラサイト」としての教育を受けています。「コドモたち=パラサイト」の存在価値は、「パパ」のために戦うことであり、彼らはまったく盲目的に、兵士として、戦闘ロボット「フランクス」に搭乗します。それが命を賭した戦いであることは彼らには問題ではありません。

 それについて言い表したセリフが第一話に登場します。

「君たちは選ばれた存在なのだ」そうパパは言った。

物心ついたときから、僕たちには番号がつけられ、

男女1組で動かすことができる

「フランクス」と呼ばれる兵器に乗って戦うことが

唯一の使命だと教えられた。

それに値しないコドモに存在価値などない

だからぼくは、ここを出て行くことに決めた。

-「ダーリン・イン・ザ・フランキス」第1話よりヒロのセリフ

  コドモたちは「パパ」に絶対の信頼を与えていて、彼らは「パパ」に認められることに全ての価値を見出しています。そしてそのロジックは、完全に「オトナたち」ひいてはその上にいる「パパ」による教育によって構築されています。コドモは、盲目的に戦うことだけ、「オトナたち」と「パパ」を叫竜から守ることだけに、心からの居場所を感じています。

 これは、ディストピア作品*2によくみられる構図です。〈支配者―被支配者(支配されるひと)〉の関係が、かなりの程度に、支配者よりに偏ったものになります。支配者は被支配者からの反逆を防ぐために、教育や情報を操作して、他の敵の存在を見せつけたり、一元的な価値だけを追求させようとします。

 「ダリフラ」では、この「パパ」への憧れと、敵である怪物「叫竜」の存在の見せつけによって、強烈な〈与えれらた価値〉の概念が主人公である「コドモ」たちに刷り込まれています。物語序盤において、コドモたちは、自分たちで見つけた価値ではなく、大人が支配する世界で通用しているだけの価値を与えられて、そのままれを受け入れて自分の存在価値としています

 そしてここで少し話を戻して、わたしたちは「たとえ」の方法のことを思い出す必要があります。「たとえ」の手法、すなわち比喩は、物語の中で起きていることを、現実世界に起きていることの鏡になっているのではないかと見直してみることで、発見することができます。

 ここでの「鏡」は、さきほど示された概念〈与えられた価値〉です。「自分で見つけた価値ではなく、大人が支配している世界で通用しているだけの価値を与えられて、そのままそれを受け入れること」は、今を生きるわたしたちの世界にも起きていることではないでしょうか。

 確かに社会において通用している価値は、直截的にわたしたちに素晴らしい目的や喜びを与えるものでもありますが、そういったものを至上の価値、これ以上ない最も素晴らしい価値と確定させて、それ以外をいくもの、それには合致しないものを「無価値・無意味」として切り捨てる風潮もやはり、現代社会に蔓延しているもののように思えます。

 権威ある学校にいくこと、有名な会社に就職することなど、それらも当然、「常識」的に価値あるものですが、それに失敗することに対して異常に恐れる人たちがいて、またそういった部分的な成功に到達できないものを見下したりする人たちが存在することは、今の社会に、〈与えられた価値〉の力が強まりすぎていることを示すものでしょう。

 「ダリフラ」では、コドモたちが「パパ」に押し付けられている〈与えられた価値〉に自分の存在価値をそのまま当てはめて、戦えないことや、役に立てないことによって直截に自分の価値を疑い始め、それに苦悩する姿を描いています。そしてこのアニメの世界で起きていることは、実際の世界でも起きていることだと言えます

 いまの社会において、〈与えられた価値〉をゲットすることができないで苦しむ人々は、〈与えられた価値〉しか知らず、それゆえに自分の存在の意味にさえも疑問をもつという、人間とってもっとも苦しい場所の一つに追いやられています。「ダリフラ」にはそういった今のわたしたちの姿を、「コドモ」たちの物語によって意図的に映し出している作品であるといえます。

 ただ、そう説明されれば、必ず次なる問いが現れることになります。そしてこの、〈与えられた価値〉の問題に言及するものは、その問いに答える責任があると言っても過言ではないでしょう。その問いとは、「どうすれば、わたしたちは〈与えられた価値〉を得られない苦しみから逃れられるのか?」というものです。もちろん「ダリフラ」もその答えをこのアニメなりに用意しています。それについては本記事でも、後述されることになります。

 

 

〈父〉の世界と革命の可能性

 さて、ここでわたしたちは、このダリフラというアニメの中で決定的な意味を持つ一つの言葉、キーワードに注目しなくてはなりません。それはもちろん「パパ」のこと、すなわち〈父〉という言葉のイメージと意味のことです。

 〈父〉とはなにか。そう問われると、実はなかなか簡単には答えることはできません。わたしたち人類の歴史の中において、〈父〉というものは、単なる生物学的な、有性生殖における精の提供、その雄側の存在という意味を、はるかに超えたものを見せつけてきます。

 わたしたち人類は〈父〉という言葉にどういう意味とイメージを与えてきたのでしょうか。それは「強力な力を持ち、私たちを愛して保護してくれる絶対的な存在」というものです。

 例示してみましょう。この地球上でもっとも大きな影響力を持った宗教のひとつとして、わたしたちはキリスト教を想像することができます。キリスト教では、唯一で絶対の存在であるところの神のことを、しばしば「父」と呼ぶことがあります。「なんでも知っていて、なんでもできて、絶対に正しくてわたしたちを守ってくれる神様」のことを、そういう絶対的な存在がいて、じぶんたちがそれの子供であると考えているような思想がキリスト教にはあります。

 いわゆる男尊女卑の感覚や、自分たちのリーダーは頼りがいのある強い男性であって欲しいと思う人々の意見というものは、基本的にこの〈父〉の観念が影響していると言えるかもしれません*3

 物語に話を戻しましょう。「ダリフラ」においても〈父〉は強力なその意味を発し続けています。前述のように、コドモたちは「パパ」に認められることを中心にして行動の規範(ルール)としています。「パパは褒めてくれるだろうか?」「パパの言うことに逆らってはいけない」。そうした言葉が「コドモ」たちから、たびたびに述べられることになります。

 「パパ」=〈父〉の強力な支配のもとに生きている彼らにとって、「パパ」=〈父〉の言葉は絶対であり、そしてパパ」が自分たちを愛してくれていることに、これ以上ない安心を得ることができるのです。逆に言えば、「パパ」=〈父〉に見捨てられること、その支配・愛の外側にはじき出されてしまうこと(〈与えられた価値〉に応えられないこと)に非常な恐怖を覚えることになります。

 こうした「パパ」=〈父〉を中心とした世界観から「ダリフラ」の物語はスタートします。その世界の状況を、〈父〉の世界と本記事では呼ぶことにします。〈父〉の世界において、〈父〉によって〈与えられた価値〉が絶対的な力を持っている。それが、「ダリフラ」の基本的な人間の立ち位置であると言うことができます。その構造を図説すると以下のようなものになります。

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 「ダリフラ」の世界には、社会的な階層として大きく三者のかたちでわけることができます。図の頂点に位置する「APE幹部」である①「パパ」たち。中間にあるのは主人公たちが②「オトナ」と呼び、いつかその地位につくことを期待し続けている人々。そして、「叫竜」――人類を攻撃するクリーチャーたちに対抗するための戦力として、「パパ」や「オトナ」たちに搾取されている③「コドモ」たち。この三者が、主に物語世界における定式化された役者たちであると言えます。

 これら三者には、それぞれ物語の意味のレべルにおける役割が存在します。図において、各階層の右側に書きだしたものがそれにあたります。「パパ」はさきほど説明したように、わたしたち人類において大きな意味を持つもの、①観念的・象徴的な意味としての〈父〉の役割を持ちます。「オトナ」には、「パパ」が創り出す構造と支配に甘んじて、②退廃的な享楽を貪る愚者・弱者としての役割が当てはめられます。「パパ」はじつのところほとんど実体・肉体を持たない仮想的なものであることが物語後半で示されます。また「オトナ」たちは不死の肉体と引き換えに生物学的去勢(つまり、生物として子孫を残す機能をなんらかの方法で駄目にして、子供が作れない生き物にしてしまうこと)の状況に陥っています。「パパ」と「オトナ」の二つの役割には、共通した大きな特徴があります。それは生殖の可能性がないことです。このことは象徴的に大きな意味をもたらします。

 叫竜に対抗しうる唯一の兵器「フランクス」を操縦する資格が、生殖機能を有することでした。つまり主人公たち、「コドモ」たちだけがダリフラ世界の中で生殖が可能であるわけです。

 「生殖」すなわち子供を産み出すことには大きな意味があります。自分たちの肉体を使って次世代を創り出すこと、それは自分とよく似たもの(あるいは全く似ていないもの)をもう一度この世界に生み出して、そしてそれにまた次なる世代を創り出させ、またさらに同じことが続くのを期待し祈るという、終りと始まりを無限に繰り返す人間の創造性の根源、その象徴です。

 生殖の象徴性については作中でも言及されています。

男女でこんなにからだつきがちがう。

やっぱりこのちがいには意味があるんだ。

〔中略〕

あのね、男の子と女の子は、からだを重ねることで

新しい命を生み出すことができるって書いてあって……。

それって、わたしたちにとって希望になると思うの。

 -ダーリン・イン・ザ・フランキス」第17話よりココロのセリフ

  創造性の本質とはすなわち「新たな変化」です。新しいもの、これまでになかったものが新しく現れたとき、わたしたちはそれを創造と呼びます。なぜ「コドモ」たちにだけ生殖の機能が残されていたのか。その答えをSF的設定の偶然だとするのは、あまりにも早計です。③創造から導かれる革命の資格。これこそが抑圧され搾取されていた「コドモ」たちに与えられた物語上の役割です。〈与えられた価値〉や〈父〉の世界から脱却するための革命、これを行うために、その資格があることを暗示するために、主人公たちには生殖能力が与えられたと考えることができます*4

 この革命の可能性については、「パパ」たちが、性の存在すなわち生殖の可能性を情報として伏せていたことからも示されます。「パパ」たちはさきほど図で示したような構造を保ち守るために、「コドモ」たちから性を奪っていました。男と女はフランクスを動かすためだけの人間のシステムに過ぎないとしました。そこに、新しい生命が創造される可能性をできる限り排除しました。ココロとミツルの関係が、男女の愛すなわち生殖可能性に到達するとその記憶を封じ込めるほどの徹底ぶりです*5

 「コドモ」たちに革命の可能性があったとしても、その実現は非常に困難なものです。一度作り上げられた高度な構造は、誰かがそれを不満に思ったり、虐げられているものがたくさんいたとしてもそうそう簡単に覆すことはできません。だからこそ、「ダリフラ」の物語、そのはじまりがあれほどまでに厳しい世界であったのだとも言えるでしょう。

 それでは、どうしてあの世界はあの最終回に至ることができたのか。どうして「パパ」たちによって作り出された構造、〈父〉の世界にああいった形の変革=革命が起き得たのか。その決定的な要素は創造と革命の可能性を持つ「コドモ」たちの中にありました。それが主人公たち13部隊であり、そしてその中でも異彩は放っていたヒロゼロツーです。

 

 

愛しあう「トリックスター」たち

 

 物語類型について語るとき、あるいは神話についてある種の定型を見出そうとするときにトリックスターという言葉がしばしば使われます。この「トリックスター」という言葉は、物語のなかの停滞や定まってしまった状況をかき乱したり、新しいものを引き込んだりするキャラクターのことを意味します。

  ダリフラ世界における「停滞・定まってしまった状況」とはもちろん前述の「パパ」中心の構造、〈父〉の世界のことです。そしてそれを打開することになる「トリックスター」が、主人公たちのなかでもとくに中心的に描かれることになるヒロとゼロツーであることは、物語を見ても明白であると言えます。

 それでは、そのトリックスターたちはどのようにして世界をかき乱したのか、〈父〉の世界を終わらせたのか。そしてなぜこの二人にそれが可能だったのか。次にこれらの問いについて議論を進めていきます。

 そもそもこの〈父〉の世界において、トリックスターでありうるということはすなわち革命の可能性を秘めている存在ということになります。先ほどの図から見れば「コドモ」たちは構造の中に取り込まれた被抑圧者・被搾取者であるわけですが、それゆえに革命の資格を持ち、また広義において彼らもトリックスターでありうるわけです。その可能性さえも圧し潰すのが構造であり〈父〉の世界だとも言えます。

 ここで主なるトリックスターとして示したのはヒロとゼロツーでした。彼らはそれぞれ他の「コドモ」たちとは明らかに異なる性質を持っています。特異であるのは、やはりヒロでしょう。彼は叫竜の姫のクローンであるゼロツーよりも、はるかに物語世界において異であり、トリックスターとして、革命可能性のもっとも大きなものを持った少年でした。

 ヒロの何が異質であるのか。彼の特別であるところとはいったい何なのか? 彼は「コドモ」たちのなかでも秀でた存在であるとして描かれていました。しかし、彼の特異性は「オトナ」たちが設定したような優秀さにあるわけではありません。それはどこまでも〈父〉の世界の優秀さであり、いわば都合のよさに回収されてしまう要素です。ヒロが特異でありまた異質であったのは、彼がどこまでも人間的な欲求に素直であったこと、〈父〉の世界の持つ抑圧への懐疑を強く持ち続けていた点、そして、それを同じ立場にある「コドモ」たちに伝播させることができた点です。

 ヒロは本来彼に与えられた名称である「コード016」から自分で名前を作り出して「ヒロ」としました。そして自分と同じようにして周囲のコドモたちに名前を与えていきます。戦闘兵器の中核パーツである「コドモ」たちに人間らしい名前を与えず、番号でそれらを認識させるのは、「パパ」及び「オトナ」たちの戦略です。そうしたものに子供らしい発想で、しかし一方では決定的な意味をもったかたちで反抗することができたのがヒロでした。 彼の名づけの戯れは、やがて「コドモ」たちに広がり彼以外のコドモたちも、互いに名付け合うようになっていきます*6

 ヒロは幼いころから、「コドモ」たちが「パパに見捨てられる」ことで養育施設から突然いなくなったり、あるいは赤い肌と角をもった少女(ゼロツー)が残虐な実験を受けていることなどの、物語世界の歪みを目にしていきました。普通のコドモたちがその歪みに触れながらも、ただ施設での暮らしを享受するしかないように、ヒロもまた、一人の弱いコドモとして歪みに疑いを持ちながらもただ生きていくしかありませんでした。

 めざといひとであれば、ここにもトリックスターが打ち壊すべき停滞が存在するのを見つけるでしょう。そう、ヒロは初めからトリックスターであったわけではありません。彼もまた停滞と閉塞の世界・〈父〉の世界に束縛されていました。ではヒロを救ったのは、トリックスターとして世界を変革させたのは誰なのか。その人物(なんとなくわかると思いますが)について言及する前に、わたしたちはもうひとつの停滞の世界について目を向けなければなりません。

 もうひとつの停滞、ヒロの停滞した世界と並行して語られるべき世界とは、もちろんゼロツーの停滞した世界です。彼女の場合、それは停滞と呼ぶのもおこがましいほどのすさまじい世界でした。叫竜の姫の細胞から生み出されたクローンである彼女はそもそも人間として扱われることのない場所で暮らしていました。監禁され、叫竜の性質を調査するための実験に日々身を焼かれています。彼女には、ほかの「コドモ」たちのようにともに暮らす仲間はいません。それどころか、彼女にはことばが与えられませんでした。もはや彼女には何かの意味を理解するだけの手段さえもなかったわけです。当然意味も分からないただ美しいだけのあの絵本にのみ猛烈に執着し、自分以外の存在に常に怯えて続ける生活のなかにいます。

 これらのことからもわかるよう、ゼロツーもまた、初めからトリックスターではありませんでした。彼女も停滞した世界の中で、激しい搾取を受ける弱い存在でしかなかったのです。彼女を救ったのは誰だったのか。彼女の停滞した世界を打ち壊したのは一体誰だったのか。

 この二人の幼いコドモたちはそれぞれが助けを必要としていました。彼らにもまたトリックスターが必要だったのです。そして彼らはトリックスターに出会うことになります。ヒロとゼロツーはお互いを見つけました。彼らは、それぞれ互いを自分を救いうるトリックスターとしてみなして世界を変革しえたのです。

 幼いヒロは、ゼロツーが施設の職員から大切な絵本を奪い返すようすを窓の外から見つけます。そのときの感情を彼は以下のように回想します。

僕にはなにも分からない。でも……

君は、君はあのとき、笑っていたから。

答えも問いも聞こえないこの世界で、僕には君が眩しく思えたんだ。

 -「ダーリン・イン・ザ・フランキス」第13話 ヒロのセリフ

 このヒロの感情をどのように読み解くのか。ここはかなり解釈の差異が現れるところであると思いますが、私はここを、停滞閉塞の〈父〉の世界において、自分と同じように世界に抵抗する存在を見つけた喜びであると読みました。幼いヒロにとってそれはこの上ない希望に見えたことでしょう。先行きがわからずとも、ただ彼女と共にここではないどこか遠くにいくこと。ヒロができたのはただそれだけでした。そしてたったそれだけのことが、ゼロツーにとってはとても大きな意味を持ちます。

 ゼロツーの人生のなかで、彼女に寄り添ったものはほとんど存在しませんでした。記憶のごく初期に、「母親のかわり」らしいものが現れますが、それさえも彼女に十分な愛、つまり彼女を肯定し受け入れる心の志向を与えることができなかったのです。そこで、ことばも持たない彼女に、それでもヒロは語りかけ、彼女に名前を与えます。

 そして「約束」。

うん。ここを出たらね。

僕もきみとずっといっしょにいたいもん。

そしたら僕は君の、ダーリンだ。

 - 「ダーリン・イン・ザ・フランキス」第13,15話より ヒロのセリフ

  本作の大きなテーマの一つである「愛」がここで示されます。ゼロツーはこの経験をもって、世界に追い求める価値があること――そしてそれは〈父〉に与えられたものではなく――自分が心から美しいと思えるもの、そうありたいと思えるものが存在することを知ります。

 ふたりはこうして、自分がこれまでに知っていた世界には、まったく別の可能性があることを知ります。それはある意味彼らにとって革命であり、世界を変革する一つの契機でもあるわけです。そしてその革命の鍵が「愛」であることが二人の過去のエピソード*7から示されます。この「愛」については後ほど、改めて述べ直すことになります。

  二人は「オトナ」たちによって記憶を消され、ヒロはゼロツーに関する記憶をほとんど失います。ゼロツーはわずかな記憶(「ダーリン」が自分をどこかに連れていってくれるという約束の記憶だけ)を残してヒロのことを忘れてしまいます。そして二人は、再び停滞と閉塞の世界=〈父〉の世界に陥ります。

 ヒロはフランクスに乗ることだけが「コドモ」である自分の役目だという〈父〉の世界の言葉を信じるようになります。そしてゼロツーの血を舐めたことを原因に、ゼロツー以外とのフランクスへの搭乗ができなくなった彼は、自分の不能に苦しむことになります。ゼロツーも同じように閉塞に陥ります。「ダーリン」と共に歩いていというその象徴的記憶だけを残した彼女は、その資格を得るために、「できるだけたくさんの叫竜を殺して人間になる」という幻想に執着し始めます。

 そして物語は二人が再び出会う場所(第1話)まで運ばれていきます。

 二人は初対面にも関わらずなぜか魅かれ合いました。ゼロツーは自分が人間になるための新しい「ダーリン」としてヒロを求め、その命を食いつぶそうとします。ヒロは不能である自分から脱却する――ただしそれは〈父〉の世界の〈与えられた価値〉でしかありません――ためのパートナーとしてゼロツーを追いかけます。

 やがて二人はフランクスを介して互いの深層意識を見つめあうことになります。自分たちの過去と、そのときに見つけた大切なものを思い出した彼らは、再び*8互いの閉塞を打ち破るトリックスターとしての役割を果たすことに成ります。

 二人は今度こそ二人の関係の始まりを、すなわち「愛」の関係を見つめ直します。そしてそのことが〈父〉の世界から抜けだすための鍵になると、ヒロは確信していました。それを示す言葉をここに引きましょう。

きっと行くところはあるよ。これから始めるんだ。

この世界はきっと俺たちが思うよりずっとずっと大きい。

あのときは敵わなかったけど、今度こそ、二人で外の世界を見よう。

ゼロツー。俺たちは二人で一人だ。

 -「ダーリン・イン・ザ・フランキス」第15話より ヒロのセリフ

  「外の世界」という言葉が、明らかに〈父〉の世界ではないどこかのことを指し示していることがわかります。これまでは一人だった彼らが、二人で、それも「愛」という特別な感情によって結びつくことで生み出されるものが、停滞・閉塞・抑圧の象徴である〈父〉の世界から脱却する決意だったわけです。

 そしてヒロとゼロツーがこのようにして愛を知ることで、その影響は13部隊の仲間たちにも伝播していくことになります。そのもっとも顕著な例がミツルとココロの二人であることは言うまでもありません。ヒロとゼロツーが「外の世界」を追い求めることが、そしてそれらに導かれる彼ら13部隊のメンバーたちが、物語世界における「トリックスター」の役割を担うことになります。定められていた世界の構造を転換させる者としてのはたらき、革命の可能性を秘めた彼らは、「愛」の概念に触れ、それを知り、葛藤を乗り越えていくことそのものが、〈父〉の世界をひっくり返すことに繋がっていきます。

 

 

〈父〉の世界との決別、そして「寄る辺なさ」

 

 さて、ここで物語世界の本筋からはなれたやや小難しい話を始めます。「ダリフラ」の物語を読み解くために、〈父〉の概念とそれが生み出す〈父〉の世界というものについて、そのほんとうの意味を理解しなおす必要があるからです。

 〈父〉の概念とわたしたち個々人のこころの関係について深い考察を行ったのは少し古い時代を生きていた知者でした。

 その知者を、わたしたちはフロイトという名で知っています。ジグムント・フロイト(Sigmund Freud,1856-1939)。おおよそ100年前の時代を生きていたオーストリアの心理学者・精神分析家です。ここでは、彼が驚くべきほどの手広さをもって構築した人間理論のうちから〈父〉の世界に関係するものを簡単に紹介します。

 フロイトが示した人間の心の、重要な概念のひとつに「寄る辺なさ」と呼ばれるものがあります。この「寄る辺なさ」は元の言葉ではドイツ語の"Hilflosigkeit"を示すもので「身を寄せる場所がないこと、その不安」というイメージのある言葉です。フロイトはこの「寄る辺なさ」は、全ての人間が持つものであって、そして全ての人間がこの不安から逃れようとしているのだと考えました。

 人間は母体より産み落とされたときから、決してひとりで生きていくことはできません。赤ん坊は母親の保護と母乳がなくては死んでしまいます。フロイトは、この乳幼児の時期から、すでに人間は「寄る辺なさ」の不安にさいなまれているのだと考えました。そして子供がようやく「お父さん」と「お母さん」という二人の大人が自分を守り保護してくれる存在であることに気付き始めるころには、子供は「寄る辺なさ」から自分を守ってくれる存在としての「お父さん」を象徴的*9に認識しています。

 子供はここから「お父さん」を〈父〉としてイメージしているわけです。では自分を守ってくれる「お父さん」=〈父〉がいるのだからわたしたち人間はもう「寄る辺なさ」を克服することができるのでしょうか。残念ながらそれはできません。わたしたちは大きくなり世界に触れ、社会というものがどのように構築されているのか、人々がどのように生きているのかを知る過程で、「お父さん」がいつまでも〈父〉として最高の自分の保護者ではありえないことを知ります。つまりは、人生のさまざまな困難*10から、自分をいつも保護してくれる父親はいないということです。

 幼いころに経験した「お父さんもお母さんも出かけてしまった家のなかで一人残される不安」=「自分をいつまでもしっかりと守ってくれる何かはどこにもいない不安」は人間に常に付きまとうことになります。「寄る辺なさ」として。

 フロイトは次のように述べています。

そしてこの寄る辺なさの感情は、幼児の生からずっとつづいているだけではなく、運命の強大な力にたいする不安のために、絶えず維持されてきたのである。

フロイト「文化への不満」所収『幻想の未来/文化への不満』142頁

  余談ですがフロイト無神論者で、宗教を激しく批判する態度をとっていました。彼はこの「寄る辺なさ」の概念、この無上の不安に耐えられない人類が幻想的に生み出した〈父〉こそがすなわち宗教であり神であるとし、それに対抗するためには「文化」をより発達させなければならない。というような論文(引用元がそれ)を発表しています。

 フロイトの思想*11のごく一部をここに紹介しました。要約すれば、「人間はいつだって不安で、その不安から逃れたいがために、何かとてつもなく強くて自分を守ってくれるものを必要としているのだ」ということになります。その「とてつもなく強く自分を守ってくれるもの」が〈父〉であるわけです*12

 しかし残念ながら、わたしたちの現実生活の中には〈父〉のように見えるものはたくさんありますが、ほんとうに〈父〉としてわたしたちの期待に応えてくれるものは存在しません。そしてそれは、「ダリフラ」においても同じです。この物語において、〈父〉を演じていたもの=「パパ」たちは、ほんとうに「コドモ」たちを保護してくれる存在などではありませんでした。それでもたくさんの「コドモ」たちが「パパ」を信じ続けたこと、信じ続けざるを得なかったのは、この「寄る辺なさ」の苦しみから逃れるためでもあったわけです。

 「パパ」たちが幻想であったこと、彼らがほんとうに自分たちを守ってくれる存在ではなかったことをしった「コドモ」たちは「パパ」のいない世界で生きていくことになります。つまり〈父〉のいない世界で生きていくわけです。ただしそれは、自分たちの自由を手に入れた最高の世界というわけではありません。「パパ」は、〈父〉は必要だったからいたのです。〈与えられた価値〉を信じる必要・意味を失ったときなにが起こるのか。先ほどの述べた通り「コドモ」たちはそれに向き合うことになります。〈父〉を失った人類は、「寄る辺なさ」の不安に直面することになります。「コドモ」たちは「パパ」に見捨てられたのではないか。と度々その不安をあらわにしていましたが、今度こそ彼らはほんものの「寄る辺なさ」と一緒に生きていくことになります。

  その不安は様々な形で現れます。

どうすればいいですか。ヒロ。

僕はどうしたら……。

 

わからないよ。そんなの。

どうしたらいいのか、何が正しいのかなんて、

どうやったらわかるんだよ。

 ダーリン・イン・ザ・フランキス」第22話より ミツルとヒロのセリフ

  ココロの妊娠について、それをどのように受け止めるべきか答えてくれるものはいません。

拒絶されたってワケ? わたしたち……。

この星からも……?

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第22話より イクノのセリフ

  コドモたちは自給自足の生活さえもままならなくなります。「パパ」だけでなく地球からも拒絶されたのだと、コドモたちは思わざるを得ません。そうしたコドモたちの「寄る辺なさ」の不安をはっきりと言葉にしたのはゴローです。

「みんなの気持ち」なんて、嘘だ。

俺なんだ。選んだはずのこの世界を怖がっているのは、俺だ。

ダーリンインザフランキス」第22話より ゴローのセリフ

  物語の主人公たちは、どのようにしてこの「寄る辺なさ」に立ち向かっていったのでしょうか。

 

 

未来への志向・〈愛の世界〉へ

 

あたしたちは一歩一歩、確かめるように、この生活に没頭していった。

みんな、それぞれの自分を見つけられるように。

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第24話より イチゴのセリフ 

  「寄る辺なさ」に押し潰されないよう生きていくためにこどもたちが見つけものは「未来」それそのものでした。未来の可能性、それへの期待に心を向けること、いまないものに、不安そのものに目を向けるのではなく、これから自分たちが手にしていくであろうものに期待することが「寄る辺なさ」に打ちひしがれないための生き方であるとしたわけです。

 「寄る辺なさ」はフロイトがそう言ったように常にわたしたちのそばにあります

 それから無理に逃れようとしたり、あるいは〈父〉の仮説的な保護のもとでそれを否定したりしていては、いつか戻ってくる不安に心をむしばまれることになります。そうではなく「寄る辺なさ」を受け入れ、それを知ったうえで次の時間に目を向けること、新しく生まれてくる何かに期待すること。それこそが彼らの生きる道になりました。

 そして〈父〉が与えてくれなくなった、あるいは初めから与えてくれなかったもの、「愛」を、こどもたちは自分たちで与えあいました。ヒロとゼロツーが教えてくれたように、一方的な〈父〉の愛を求める態度から、一人の愛すべき相手を自分から愛するという能動的な愛を与える態度を見つけます*13

 こうして彼らは、〈父〉の世界から立ち去り、その〈与えられた価値〉の限界から脱却することができました。彼らは自分による〈価値〉を見つけ、そして自分の愛を誰かに与える人生を始めることになります。未来を創り上げていくというその方向にむかって。

 

 

 

 

 

ひそかに語られるもの、隠された主題

 

 以上でアニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」の基本的な部分は総括されることになります。「パパ」たちによる〈父〉の世界と〈与えられた価値〉に苦しむ「コドモ」たちがどのようにして自分たちの道を見つけるのか、そしてその営みにはどのような苦しみが待ち構えているのか。このことを描ききることに「ダリフラ」は見事に成功しています。これがこの物語の表のテーマです。分かりやすく示された主題です。見た人なら言葉で理解することはできなくとも、物語として感覚的にそれを受け止めることができるものです。

 しかし、ダリフラを観たひとであれば、この物語には何かそれ以上のものが確かにあるはずである、という感想を抱かざるをえません。明らかに余剰の物語が存在するからです。〈父〉の世界から脱却するだけの物語であれば不必要であったはずの要素が、このアニメにはありました。

 ここからはその余剰的な部分、どうしても不慣れな読み手が「蛇足」あるいは「意味不明」として片づけてしまうところに込められた意味について解読していきます。これらはおそらく、作り手の側からも発信されることはないでしょう。それだけこれから展開されるものである裏のテーマ=隠された主題は、どこまでも挑戦的なものあり、あるいは危険でもあり、そして革命的でもあるからです。

 

 

〈不死/進歩〉に対抗すること

 

  当然、ここでわたしたちがまな板の上に乗せるのは、物語の終盤に突如として現れた「VIRM」の存在です。彼らがなにものであるかは、彼らがその言葉をもって十分に説明しています。

我々は宇宙のあらゆる知性体を同化し肉体という殻を棄てさせてきた。

お前たち人間も、進化の段階を迎えるときだ。

悠久にわたって続く凪のような快楽。それを与えよう。

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第22話より VIRMのセリフ

 VIRMは長らく人類の頂点につき、「パパ」としてその正体を偽りながら人類の行く末を操作していました。VIRMはその高度な知性をもって人類を科学的・政治的にリードし、やがて地球上に肉体の不死を完成させました。「マグマ燃料」をふんだんに使うことで独占的・特権的な快楽を手にした人類は生殖を捨て去ります。ここまでの物語はVIRMによる誘導によってなされたものでした。VIRMはごく意図的に、人類から「愛」と「生命」(有限なものとしての命)を奪っていきます。それが彼らの目的であり、彼らのなすべき使命であるからです。

 彼らの目的とは、彼らが言い表したように「進化」とその末にある「不死」の自我を成立させること。そして今度こそあの「寄る辺なさ」から解き放たれた快楽だけの世界に高度な精神たちをいざなうことです。

 そう、彼らは人類を滅ぼしたり、宇宙の王者になろうとしているわけではありません。彼らは「それがいいことだと知っている」からそうするだけです。悲しみや苦しみを知って生きていくことができるほどの高度な生物のために、次の進化のステージである不死(終わりがないこと。無限)とそれに耐えるための無限の快楽の世界を用意してあげていただけなのです。

 そしてその過程において、人類は「愛」と「生命」を棄てなくてはならないだけなのです。それが「不死」と「凪のような快楽」の条件だから。

 VIRMのいうこの「凪のような快楽」を論理的に否定できるものはいません。人間はずっとそれを求めているからです(同時に拒み続けてもいます)。わたしたちは、苦しいことからは逃げたいと考えます。それが肉体的なものでも精神的なものでも、とにかくそれらを永遠に耐える続けることはできません。そして死。わたしたちは自我の消失であると想定されるこの「死」をいつも恐れています。それが今の人生の終りそのものであり、また自分の存在。思考や感覚そのものが終了することであると想像しているからです。それが怖いから宗教を発明して死後の世界を成立させました。そして科学を発展させ、医学に異常なまでに執着することで死ぬまでの時間をなんとか引き延ばそうとしています。

 わたしたちはこれまでずっとそうしてきたように、おそらくこれからもそうし続けていきます。そして科学技術が最高点に、ほんとうの目的である最終地点にたどり着くことができたとしたら、それが「不死」の技術であると想像することは難しくないはずです。

 わたしたち人類が、今も科学技術の進歩に著しい力を注いでいることは言うまでもありません。やがてそれが滅ぶことなく続いたとして、不死の精神が人間に可能になったとき、わたしたちは苦しみが存在することを許せなくなるでしょう。

 不死に至ること、つまり精神が終わらなくなるということは、わたしたちに無限の時間を与えるということと同義になります。無限の時間がある。「終わる」ということがなくなる世界の中にある人間が、自分が苦痛に苦しむ可能性を決して許しません。なぜなら、もしも無限の時間の中で、苦しみが信じられないほど長大な時間のなかで反復されるかもしれないと考えたら、それは死ぬことよりもはるかに恐ろしいことになるからです。

 ここまで述べてきたことは次のものを示すための前準備となります。つまりそれは、VIRMが差し出してきたものは、今の人類が求めているものとなんら変わりないということ、少なくとも今の人類が求めているものの延長線上には、VIRMの誘惑が存在するということです。 

 ここでわたしたちは、本記事の冒頭で述べた「たとえ」の手法に三度戻ってくることになります。「物語のなかで示されたものは、現実世界のなにかをたとえている。」というあの解釈手法の一つです。いわゆるメタファ。当然引き出すのはVIRMです。VIRMは、現実世界におけるなにをたとえしているのか。

 あれらの存在=進歩の先にある無限は、わたしたち現実世界の人類が抱え込んでいる「無限の進歩への期待」です。「わたしたち人類はつねに進歩し続け、新しいものを獲得し、そしていつか〈あれ〉を手にしなくてはならない」と考えるあの思想そのものです。

 この進歩の思想を〈不死/無限の進歩〉という要素で否定的に描くことには、意味があります。わたしたちが進歩を掲げるとき、その進歩の裏で苦しむ存在、ないがしろにされている何かが必ずあることに、しばしば私たちは目を背けがちです。

 わたしたちの人類・生物の基本的な性質として「よさを求める」というものがあります。それがあるからわたしたちは苦痛に満ちた「寄る辺ない」人生をなんとか生きていくことができるわけです。だからこそわたしたちは、かえってその「よさを求める」=〈無限の進歩〉に対して盲目的なまでに足を踏み入れてしまいます。

 便利に生きていくという〈よさ〉のために、多くの自然が破壊されています。より裕福になるという〈よさ〉のために、ひどい貧困に追いやられてしまう人々がいます。より強い立場にい続けるという〈よさ〉のために、大きな力で押し付けられる人々がいます。

 進歩・進化を否定的に描くということは、人間が当然の権利であるかのように考えていることのせいで、なにかを著しく損なっている事実を省みることを促す意図があるわけです。「わたしたちはずっとこうしてきたが、これからもこのようでいいのだろうか?」という疑問の声をはっきりと示す必要があるからこそ、「ダリフラ」の最後の敵は、どこまでも人間的な欲望から生まれた〈不死/進歩〉の象徴になったのだということができます。

  メタファの解読はここで小休止を挟むとして、なぜこどもたちがこのVIRMの示す進歩の世界を受け入れなかったのか、ということを物語の流れを解説するために示しておきます。それはVIRMが物語に登場するはるか前に、はっきりとしたかたちで示されていました。

比翼の鳥、と言うらしい。

その鳥は片方の翼しか持たず

雄と雌、つがいで寄り添わなければ

空を飛べない不完全な生き物。

だけど、私は、僕は、

そんな命のあり方を美しいと感じてしまったのだ。

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第15話より ヒロとゼロツーのセリフ

  そこには、わたしたちが日ごろから重視するような「ただしさ」の地平からの判断は存在しません。彼らは、それを「美しい」と思ったからそれを選んだにすぎません。それが思考停止であろうと、停滞であろうと、不完全なものたちが不完全なままに互いを補い合って生きていくという姿のその美しさそのものに魅了されたから、彼らは〈不死/進歩〉を拒み、不完全なまま、きちんと終わっていくことを選んだのです。

 これはわたしたちの〈不死/進歩〉の思想へのある種の返答のひとつでもあります。「いつまで進歩し続けるつもりですか?」という何者かの問いに対して、古来から連綿と受け継がれてきた愛の精神を提示すること。「わたしたちはこうして生きていき、そしてやがて死にます」と答えられること、そういう返答の可能性が存在することを、この物語は読み手に伝えています。

 

 

歴史の終りとしての「繰り返し」

 

  少し前に筆者が、やや誇張ともとれるように表現した「挑戦的かつ危険かつ革命的」な主題について語る準備がこのようにして整いました。

 〈不死/進歩〉は必ずしもわたしたち人類にとってふさわしいものではないということが示されたいま、それでは人類はどこへいくのかという問いがうちあげられることになります。

 「過剰な進歩はいけない。かと言って、ただ生き続けるだけなのでは人間として生きるのにはどうにも張り合いがない。それでは私たちは中庸に、ちょうどいいくらいに生き続けようじゃないか」くらいのことは簡単に言うことができます。おそらく地球に残されたこどもたちも、大人になって、愛し合って、残すべきものを残していって……という生活のなかでそそのように考えていたことでしょう。きっと今度こそは〈父〉に愛されながらも苦しめられる世界ではなく、そして独善的に地球をむさぼることもしないで。

 そのような牧歌的な、すべて丸く収まり肯定すべきものだけの世界が訪れるのだという世界観を、わたしたちは否定しなくてはなりません。なぜならこの「ダーリン・イン・ザ・フランキス」の隠された主題は「繰り返し」そのものだからです。この巨大な象徴は全てを反復させます。いいことも、悪いこともです。

 この物語で執拗に示されていたのは「愛」でした。愛によって次の命、あるいは次の愛を創造しそれを繋がらせていくこと*14が子供たちの使命であり、彼らが選んだ道です。そしてこの愛を選んだヒロとゼロツーを救うために、この二人の恋人たちはインカーネーション・「輪廻転生」をしてはるかさきの未来に再び巡り合うことになります。

 これをただのご都合主義的展開であると捉えるのは、読み手の怠慢でしょう。輪廻転生の観念、すなわち、一度失われたものが再び戻ってやってくること、そして、それが循環し繰り返されること。これが物語の最後に示された最も強烈なテーマです。そして「繰り返し」の先で出会う二人の背景において、「再び」高度な文明を獲得した世界の様子が垣間見せられています*15

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 再び〈父〉の世界が成立し直しているのだと考えるのは無粋だとしても、それが再び起きうる可能性については十分にはぐくまれた環境であることは推察されます。これほどの文明が再構築される時間、あの木の芽がこれほどの大木に成長するまでの時間を人類がふたたび経験したとして、そこにあの黎明期の人類を支えた13部隊の彼らの精神がいまも完全に受け継がれているとは言いがたいでしょう。しかし一方で、「コドモ」と「パパ」の戦い、人類とVIRMの戦いの象徴であるあの桜の木(ゼロツーの肉体が崩壊したあと、そこから芽生えてきたもの)がこの時代においても丁寧に保護されていることは、彼らの精神が受け継がれていることの暗示であると読むことも可能です。

 ハッピーエンドの呼吸を損なわないかたちであることが物語のある種の美しさを生み出すことを前提にしても、ここでダリフラは、一度否定したはずの進歩、その象徴である文明をここに再登場させています。ここにはやはり確かに、「繰り返し」のモチーフが現れているのです。それが人類にとって良いものであろうと悪いものであろうと関わりなく、愛も進歩も繰り返すことになるのだと物語は語っています。

 そしてこの「繰り返し」についてもっとも直截的に語ったのは、VIRMでした。

魂とよばれるものたちよ。また古き肉体の檻へと還るのか。

また苦しみや悲しみという感情に縛られるというのか。

我らVIRMは滅びはしない。進化の先で、

また相まみえることになるだろう。

この宇宙に「いのち」というゆらぎがある限り。

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第24話より VIRMのセリフ

 「再び」の語法、何度も「また」という言葉を使ってVIRMはそう語ります。不死を棄てた「いのち」がある限り、それはゆらぐものであるということ。人類が苦しみと悲しみと終わりを前提に生きていく限り、何度でもVIRMの誘いに、進歩の可能性に心奪われるのだと、彼らは分かっていました。

 このようにして象徴的に示される「繰り返し」。それが明らかになったいま、このテーマは何を示すのか。という問いが当然投げかけられることになります。

 それは、歴史が、人間のすべてが、いつかくる終わりまで永遠に繰り返されることになる。という広大な主題です。

 追い求められる進歩。なにげない、しかし欠かせない愛。「寄る辺なさ」の苦痛。大きな戦い。破滅。そして新たなる創造。これらすべてを一個一個の人間が当事の視点から経験することが積み重ねられるのだとしても、やがてそれらを概観するときがきたとき、それははるか昔から繰り返され続けてきた出来事でしかないということです。

 いのちというもの、限りある時間の中でしか存在できないと想定される精神たちが、そのように存在するかぎり、何度も同じ過ちと繰り返し、そして何度も同じ美しさを生み出し続けるのだという、究極の歴史観こそが、この物語がほんとうの最後に示したものでした。

 そこには善も悪もありません。もはや「人間は愚かである」という評価さえ陳腐なものになってしまいます。それが人間であり、その中で我々は生きているのだ。ということ。何か決定的な事象が起きて、わたしたちはそのいちいちに感動し、あるいは恐怖するわけですが、そうしたことは過去何度も繰り返されてきたことであり、同時にこの先人類が滅ぶまで何度も繰り返されるものでしかない。という認識を「ダリフラ」は提示ています。

 このことには、これ以上の意味はないといえるでしょう。この隠された主題にはなんの教訓も感銘も存在しません。「人間って、いのちって、そういうもんですよ」とただ語られるだけです。

 さて、物語が示したものが無意味であったとしても、わたしたちの人生は無意味でありながら無意味であるわけにはいきません。わたしたちはこの物語から何かを受け取ります。この「繰り返し」の主題から受けとるものは、はたして人類への絶望、あるいは人生の無為さそのものといったものなのでしょうか。

 忘れてはならないのは、このやるせない命題は「隠された主題」であり、すなわち裏のテーマであるということです。ものごとには裏と表があります。その関係は単純に裏こそが本当のことである、というものではありません。表裏関係の神髄は裏も表もほんとうのことであるというものです。この物語の表には「愛」そして「未来への志向」の二つが主題として掲げられていました。

 これを見直したとき、裏のテーマは少しだけ表情を変えます。裏だけで見つめたとき、物語は冷たく無意味なものを示しているようにしか見えません。しかし表で示された「愛」と「未来」の美しさを知ると「繰り返し」のやるせない語りは、一つの問いへと姿を変えることになります。それは読み手の内部で行われる変性です。問いはごく短いものですが、答えるには難しいものになります。そのこと自体が物語の魅力でもあります。

 ここではその問いを示すことをしません。その理由も、筆者はもはや語りません。ただ一つ、物語の中で現れた言葉を引いて本記事の終りとさせていただきます。長い文章を読んでいただき大変うれしく思います。ここまでいきなり飛ばして読んだひとは「ひそかに語られるもの」の章から読み直してください。

 

 お付き合いいただきありがとうございました。

 

 

 

そして新たな物語――

 

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第24話より 物語の最後に示された言葉

 

*1:フロイト「幻想の未来」 所収『幻想の未来/文化への不満』(フロイト, 中山元 訳, 光文社, 2007,50頁)

*2:ディストピアとは、創作技法においてその作品舞台を、支配的で、強烈な抑圧のもとにある人間社会を描く形式を示す言葉です。絶対的な支配者に押し込められた弱い人々を描くことが、よくある主題となります。作品例として『1984』〔オーウェル,1948〕などがあります。

*3:少しこの話題を深く掘り下げるとなると、この〈父〉の観念は西洋・欧米の感覚が大きく影響していると言えます。欧米を中心としたキリスト教圏では、神は唯一絶対の存在(唯一神)であるという意識は普遍的で、確かに上記の〈父〉の観念はわかりやすいものであると想像できますが、わたしたちのように、アジアに、そして日本で生きてきた人間にとって、〈父〉のイメージの強さは分からなくもないがしかし神がどうとかというのはあまりピンとこない話であるのも事実です。実際私たち日本人は〈神〉として、「人間よりも強く、不思議な場所にいる上位の存在」を想像するとき、「八百万の神」がそうであるように多数の神々の物語を思い浮かべます。あるいは、様々な種類と階級に分類された仏たちの姿を思い浮かべます。強い神様もいれば弱い神様もいるし、優しいのもいれば怖いのもいるというのが、日本的な神の感覚の一つであるともいえるでしょう。神話のレベルから〈父〉が強力でありすぎないこともそうですし(日本神話における太陽神、神々の世界の統治者は天照大神とよばれ、くしくも女神、すなわち〈母〉のポジションにあります)、実際の家庭のレベルでも、お父さんよりもお母さんの方が強いことは少なくないのでないでしょうか。後述の心理学者フロイトはこの西洋的な〈父〉の観念を非常に重視したひとでしたが、日本の研究者たちが彼の理論に触れるとき、しばしばフロイトの〈父〉を中心とした理論は日本人の心にはうまく対応しないのではないかと考えています。現代では、西洋の感覚というのはこの日本及びアジアにもたくさん入ってきているので、あるいは〈父〉の観念、その感覚はよくわかるという方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも、「文化」というものが、どれだけ長い時間わたしたちとともにあって、わたしたちの生活に、こころのはたらきに深く結びついているのかというのは、簡単には捨てることのできない話でもあります。

*4:突然「革命」という言葉が登場したことに、ある種の読み手は不可解さ、あるいは警戒を示すのかもしれません。「革命」の概念は現代を生きる私たちにとって肯定的かつ否定的に捉えなくてならない、とても繊細なものです。わたしたちの生活、すなわち人間の営為にはどうしても「よくない停滞」というものが現れます。それは人間の極めて利己的である性質から生まれるもので、誤解を恐れずに言うならば、人類が滅ぶまでそれは続きます。そういった「よくない停滞」を打ち壊すこと、ある種の正しさに支持された歪みを別の正しさで否定する全体的な行為を、ここでは「革命」と呼んでいます。一つの「革命」が世界を完璧な調和に導くというのは幻想でしかありませんが、人類の歴史は、ある意味この「革命」の連続でした。「昔はそうでもよかった」を何度も打ち壊し、古い「革命」を新しい「革命」が乗り越えてきたという事実を、忘れることはできません。

*5:実はここには、物語の流れとして穴があります。「パパ」たちが「コドモ」たちを徹底管理して、その記憶にまで関与できるというのなら、ココロの妊娠もまた「適切な処置」のもと途中で終了させられるべきでした。しかし彼女は物語終盤においてミツルとの間の子を出産します。ここにはある種の不自然が発生しているわけですが、これを見逃さざるを得なかったことに、ここで一つの理由が想定されます。それは象徴としての創造、つまり愛と出産という重大な出来事をどうしても主人公たちの側から、長い時間で受け取り手に見つめさせたいという作り手の意図があるというものです。最終回になって「大人」になった「コドモ」たちが、次世代を「こども」を生み出した姿をさらりと描写するのでは、絶対に不足であると作者が考えたのだろう、と推測できます。序盤から示され続けていたミツルとココロの恋が最終回で出産にまで至る過程、これが本記事のような言葉遊びを介さずとも、たいへん美しい物語になっていることは言うまでもありません。

*6:本編第18話で「コード196」に「イクノ」の名前を与えたのがイチゴであることが示されます。

*7:本編第13,14,15話参照。

*8:この「再び」という概念を少しここで掘り下げてみましょう。「再び」とはすなわち「同じことが二度起こる」ことを意味します。すなわち反復です。この「反復」=「もう一度」には私たちが普段意識している以上の象徴的な意味があります。それは「再び起ったこと」には意味があるというものです。一度限りの出来事について、わたしたちはそれをしばしば、偶然の出来事であると考えます。偶然に何かが起こった。それはたまたまでのことであり、因果関係から導かれる理由はあったとしても、そこに深い意味はない。わたしたちは普通そういう風に考えることが多いでしょう。まったく気にかけるでもない出来事が、たまたま一度自分の目の前に現れたとしてもそれは自分にとって大きな意味を持つことはありません。ただし「二度目」、「再び」。それが起こったとき、それは少し違う意味を持ち始めます。なにか同じことが繰り返されたとき、わたしたちはそのことについて、何か意味があるのではないかと考えざるを得ません。なぜなら自分が「これはこないだと同じできことである」とそれをみなすとき、つまり「おなじこと」という極めて特殊な類型の判断が行われるとき、それがまったくの偶然であると考えるよりは、それになんらかの示唆・意図が含まれていると考えるほうが自然であるからです。その意味を示す主体は自分かもしれませんし他人あるいは、もっと大きななにかであるかもしれません。ヒロとゼロツーにとって「再び出会い、再び互いの閉塞を打ち破った」というこの感覚は、強大な意味を与えるものになったのではないでしょうか。この「再び」の概念に注目した哲学者は、次のような言葉を記しています。「何かが二度繰り返されるときにはじめて『謎』は生成する。」内田樹,『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』, 2004, 海鳥社, 75-76頁)

*9:本記事ではこの「象徴」という言葉を「本人が論理的に理解しているわけではないが、そのひとにとって強力な意味を持つイメージ」というような意味でも使っています。

*10:フロイトはこれを「運命」と呼びました。

*11:少し深入りした話。本記事の読者にフロイトの思想に少しでも触れたことのある方があれば、次のような疑問を持たれるかもしれません。「ダリフラという物語をフロイトを使って解釈するなら、なぜエディプス・コンプレックスの物語すなわち父殺しの物語としてこれを読まないのか」というものです。フロイトに明るくない読者のために言葉を割くとすると次のような説明になります。「エディプス(またはオイディプス)・コンプレックス」とは幼児期の男児が、母親を自分の愛の対象に選んで、同時にその恋敵になる父親に対して、憧れや愛というプラスの感情と、父親が死ねば母親は自分のものになるのにというマイナスの感情の両方を抱くとされるフロイト心理学の代表的な理論の一つです。女の子の場合は性別が置き換えられて、「エレクトラ・コンプレックス」(こちらはフロイトのお弟子のC.G.ユングの理論)というものになるとされます。フロイトは、この「エディプス・コンプレックス」によって子供が葛藤を経験し、やがて父の死を願うことをやめ、父を受け入れ、父と同じような男になろうとすることで人間としての自立が始まるのだと考えました。この「エディコン」の理論をつかった物語解釈は主に文学の領域で「父殺し」の物語としてよく行われていた(いる)ようなのですが、ここでは使っていません。理由は二つあります。まず筆者が「エディコン」をしっかり理解できているわけではないという技術的な理由です。そしてもう一つ。「ダリフラ」は父殺しの罪の物語ではないからです。ダリフラで殺される(排除される)父は、「エディコン」で想定されるような父ではなく、人間が「寄る辺なさ」からどうしても要請してしまうあの〈父〉であるほうが物語の解釈として美しいと筆者が感じたからです。ダリフラは父殺しの物語ではありません。「エディプス・コンプレックス」の物語でもありません。この物語は「寄る辺なさ」と共にどのようにして生きていくべきかということ、そして人類のゆくさきとしてどういう未来が存在するのかということを、強烈な視線から描いた作品になりました。筆者の解釈からやや傲慢なことを言わせてもらうのだとすれば、次のような言葉を述べることになります。個人の自立などという「小さな」主題は、この物語の主たる意味の席に座ることはないでしょう。

*12:〈父〉は特定の人間あるいは人間集団に限定されるわけではありません。ときにそれは、宗教であり、国家であり、主義であり、思想でありました。さまざまな〈父〉がはるか昔から現代にかけてその力を栄えさせては、滅んでいったのだと考えることもできます。

*13:ここで、「ダリフラ」が危険な綱渡りをしていることを示唆する必要があります。それはイクノの扱いすなわち同性愛の問題です。ダリフラはかなり意図的に異性愛を持ち上げるかたちの物語を描いています。命を生み出すことに強いメタファの役割を担わせ、そしてフランクスに乗るというメカニカルな設定部分にさえ異性間の性比喩を含ませることで、同性愛者であるイクノの心理をさんざんにかき乱しています。しかしそれは後述される〈不死性/無限の進歩〉に対抗するためには欠かせない要素でした。イクノの、イチゴへの想いは成就されることがありませんでしたが、この物語は決してヘテロセクシャル異性愛)だけを礼賛する物語ではありません。もしそうであれば、この物語にはイクノは登場しません。その必要がないからです。ヘテロだけを至上の恋愛として叩き上げるための物語であれほどにイクノの苦しみを描く意味はありません。ダリフラの物語において彼女の心理を描く過程があったのは、彼女が恋をあきらめるという物語があったのは、現代において愛を描くうえで、彼女のような苦しみがあることを語らないことこそが欺瞞であるからです。わたしたちはようやくいまの時代になって、異性愛以外の恋愛のかたちを「自由」というある意味でとても政治的で、そしてある意味で愚かしささえある文脈からそれを認めようとし始めています。現代という時代。それに合わせて物語を描くうえで、そして隠された主題である〈不死性/無限の進歩〉に対抗するため物語を描くうえで、イクノと同性愛をあのような位置に置かざるを得なかったのではないでしょうか。その意味で、「ダリフラ」は綱渡りをしています。非常に難しい場所を歩いています。ただ筆者の言いたいことしてあるのが、この物語を容易にヘテロ優位の世界観で描かれたステレオタイプの物語であるとみなすのは、思慮に欠ける行いである、というものです。

*14:「次の命、次の愛」という言葉にあるいはヘテロセクシャルの観点を見出す読者がいることを懸念してここに備考します。確かに命の再生産と継承はヘテロセクシャルに中心的に与えられた機能ではありますが、「愛」の再生産と継承に関しては、それはまったく全ての精神に開かれている概念です。わたしたちは、それが同性であろうと異性であろうと家族であろうと他人であろうと自分自身であろうと、あるいは人間以外の何かであろうとも、それによって自分が愛されていたときの経験を以て、他者を愛することを可能とします。誰にも愛されず孤独に生きているもの(その自我がどのように保たれているのかは不明ですが)が、突然に何かを愛し始めること、与える愛・能動的な愛に目覚めることは非常に難しいことのように思われます。この愛の連鎖には性志向の問題が関わらないとまでは言いませんが、ヘテロのみに開かれた世界であるわけでは決してありません。与えられた愛を以て、適切に誰かに愛を与えうるのだという主題は、フロイトによる「欲動」の理論においても語られたものでもあります(フロイトナルシシズム入門」所収『エロス論集』中山元 訳, 1997年, 筑摩書房を参照)。

*15:ティールは異なるものの、「暗い空のなかに高層建築物が乱立する」という姿は、くしくもかつて「オトナたち」が過ごしていた居住空間に類似しています。