趣味としての評論

趣味で評論・批評のマネゴトをします。題材はそのときの興味しだいです。

グリッドマン感想 一番エモいのはアンチくんでしょ。

 

*本記事にはテレビアニメ「SSSS.GRIDMAN」のネタバレが含まれています。

 

 

はじめに

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 「SSSS.GRIDMAN」は2018年10月から12月にかけて放送されたテレビアニメ―ション作品です。全十二話で、監督は雨宮哲、制作はTRIGGER。1993年に放送された円谷プロの特撮ドラマ「電光超人グリッドマン」を原作としています。

 キャラがかわいい、作画もいい、ストーリーはどこか謎めいていて、それでいてロボット特撮ファンにはたまらぬリスペクトがある……と、さまざまな魅力から本作「SSSS.GRIDMAN」(以下、SSSS)は支持されています。Twitterで検索すれば無数に本作の感想・考察を見ることができますね。流行っている。

 私はアニメをだいたい、ストーリーに注目して観るので他の部分(たとえば、作画・音響の良さや、ちりばめられたパロディネタ)にはほとんど言及できません。なので本記事においては、SSSSの物語としての部分について、雑多に感想を書き散らします。

 

 

だいたいこんな話

 言うまでもないことですが、本作ラスト数秒の実写パートを除き、この物語は新条アカネくんの内的な世界・こころの中の物語です。「アカネが、こころの世界から脱して、自分の世界に生きるまで」が大筋であって、その内的世界への闖入者がアレクシス・ケリヴであり、グリッドマンと新世紀中学生たちである……というかたちでした。前者がアカネを利用し、後者が彼女を救ったわけです。

 「神様」というワードがたびたび登場し、アカネ本人も自分をこの世界の神様だと自称しますが、べつに彼女が本当に神なわけではありません。あの世界に限定すればそりゃ神様なんですが、たびたび描かれる彼女の心的な不安定さを見るに、いわゆる〈神〉のビジョンを投げかけるにふさわしいスクリーンではないと言えるでしょう。破壊も創造もおてのもの……とはいえ、彼女こそがあの世界を必要としていたわけですから

 「じゃあ全部妄想の話なのかよ」と言われれば、まぁそうですという話になりそうなんですが、妄想だろうとフィクションだろうとあらゆる物語は全部本当に起きた物語なので大丈夫です

 

 

一番エモいのはアンチくんなので……

 本作はエンディングからして、アカネと六花の友情・百合的リレーションシップに重きを置いていることがわかります。それはそれでとても素晴らしいのですが、私が本作において何とも推したいキャラクターと関係はアンチくん、そして新条アカネと彼の関係です。アンチくんがいなければこのアニメを見続けることはなかった。

 アンチくんは新条アカネに生み出された怪獣少年です。グリッドマンを倒すことを心に刻まれ生まれた彼は、どこまでグリッドマンを倒すために生き続けるわけですが、失敗するたびにアカネに酷い仕打ちをうけます。それでも彼は健気に、グリッドマンを倒すための活動を続けます作中でも言及されますが、彼はアカネが生み出した他の怪獣とは異なり、心を持つ存在です。善悪の感覚はないようですが、喜怒哀楽はあります。顔には出ないかわいいヤツです。

 アレクシスに片目を奪われるまで、彼は敗北のたびに新条邸の門に向かいアカネに叱責(というか暴行)されるわけですが、なぜいちいちそんなことをするのか。それは、アンチくんにとって唯一の肯定的なつながりはアカネとの関係だけだからです。もっといえば、アカネは彼のお母さんだからです。失敗したって、子供はお母さんのところに戻ります。怒られたって仕方ないし、怒られることこそが、子供の求めるところでもあります。

 彼には、グリッドマンを倒すという欲望ともう一つ、新条アカネに承認されたいという切実な思いがあります。前者がアカネの願いでもあることから、それを叶えることで後者の思いを満たすことができるわけです。

 しかし数々の怪獣が打ち倒され、そして夢の世界においても裕太・内海・六花に否定されたアカネ*1は自分とこの世界のあり方に疑問を抱き始めます。その不安定な感情に寄り添うようにアンチくんが現れますが、アカネは彼に対し、「どこでも好きなとこいきなよ」と突き放してしまいます*2

 アンチくんは、母親のゆらぎに影響され自分の存在について疑問を覚えます。グリッドマンは敵であるはずの自分を殺そうとはしない。とくにサムライ・キャリバーはどこか自分を認めているようなふしがある。これまでの自分と、世界の反応のしかたの食い違いが彼を思考させました。そして彼は、「与えられたいのちの意味」を探すという結論に至ります。そしてグリッドナイトとして覚醒し、グリッドマンを助ける立場につきます。「グリッドマンを倒すのは俺だ。他の奴に倒されるな」的なややずれたロジックを持つわけですが、これは、建前的なものではないだろうか、と私は考えます。

 苦しむアカネの姿を見て、彼が見つけた本当の「いのちの意味」とは、アカネを救済することだったのではないでしょうか。怪獣を世界に生み出し続け歪んだ悦楽に浸ることを許すのではなく、苦悶している彼女をグリッドマンたちと共に助け出すことが自分の生命の意味だと考えたわけです。

 そして最終話、怪獣と化したアカネを助け出した際の、アンチくんと彼女の会話は本作のベスト・エモ・ポイントとして掲げあげられます。

―なんできみなんかに。ほんとにきみは、失敗作だね。

―ああ。俺はお前がつくった失敗作だ。

「SSSS.GRIDMAN」最終話より

 アンチくんの言葉のあと、アカネの微笑みが映し出され、彼女が彼を認めたことが示されます。ただこの直後、アンチくんはアレクシスにぶっ刺されて瀕死に追い込まれるのですが。

 さてエピローグでは、ぶっ刺された腹に雑な治療痕のあるアンチくんの姿が見られます。怪獣少女に助けられた彼は、「恩を返す」というキャリバー由来の信条をもって少女に応答します。母のいなくなった世界で、彼は心をもって自分のやり方で生きていくことができるという姿が示されています。巣立ちですね。エモい

 

   このアンチくんの話を書きたいがための記事なので、この記事はここで終わりなんですがSSSS本編は他にも内海の部外者心理についてや本道であるアカネ‐六花の関係、ほかにもグリッドマン‐裕太の主体性の問題、原作ネタについての考察など様々なエモ・ポイントが存在します。みんなも自分の最高のエモ・ポイントを探してみよう!

 

最後に

    本作は今期において、かなりの好評価を受けている作品であると思います。そして私は、あるいは後年、この「SSSS.GRIDMAN」は再び評価されるのではないかという気がしています。

    本作は日常と非日常の感覚を敏感に扱ったものでもあり、登場人物の描写に優れています(とくに裕太以外の高校生たちのセリフにかなりリアルな語彙選択があるよう思われます)。もしかするとこの作品は、これからのアニメ(オタク-サブカル文化圏)に大きな影響を与えていくものなのかもしれません。

*1:本編9話参照

*2:本編10話参照

アニメ「青春ブタ野郎(略)」第三話まで観た感想考察。

 

*この文章にはテレビアニメ版「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」のネタバレと個人的な妄想があります。ご注意ください。

 

「青ブタ」みましたか?

 今季から放送が始まっているアニメ「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」。皆さん観てますか?

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 原作は鴨志田一原作の同名ライトノベルで、現代日本を舞台にしたややファンタジーのある青春物語といった感じの内容で、なかなか面白いです。私は今三話を観て、びっくりしてこれを書いています。三話までで一応、1エピソードが落ち着く、という感じなのですが、やってることがすごかったのでとにかく感想を書きたい

 

 

もはや伝統的な物語構造

 私はライトノベルとか文学のとかの系統史にまったく明るくないので、有識者が読めば、「おいおい」的なところあるとは思いますがご容赦ください。

 「青ブタ」は主人公の一見ダウナーな高校生・梓川くんが、彼の周囲の困ってる女の子たちを助けていくという、かなりおなじみの大筋のなか進んでいく物語なのですが、ちょっと面白いのは彼女たち(あるいはこれから先、男もいるのか?)は、「思春期症候群」という謎の現象に悩まされているということです。

 

 本作に登場する怪現象「思春期症候群」とは、思春期に差し掛かった子供が、何らかの都市伝説的不思議現象に遭遇するという噂で、物語では、それに「罹患」(あえて罹患といいます)したキャラクターたちが次々と現れていきます。

 

 この子たちには往々にして心の悩みのようなものがあり、それが「思春期症候群」の原因であったりするのですが、この物語構造は、ちょっと前にかなり流行っていたような(今でもでしょうか?)気がします。

 

 つまり、「何かしらの心のゆがみを持つ(あるいは歪ませられている)人の、その歪みが、世界において形を以て異常として現れる」という舞台設定がこの作品にはあります。

 

 こうしたものを目にしたとき、やはり私たちにぱっと思い浮かばせられるのは、西尾維新物語シリーズではないでしょうか。あれらの作品群もまた、(特に第一作『化物語』において顕著に)そういった基本ベースが読み取られます。

 

 実際の世界に対応させれば(これはかなりの邪な行為ですが)、心を傷めてしまったひとの、その人が生み出す神経症的な問題を言語的な解釈で「治療」するようなかたち、京極堂シリーズ」(京極夏彦でいうところの「憑き物落とし」的なお悩み解決の物語なわけです。

 

 

じゃあ何がすごいの「青ブタ」

 「青ブタ」の物語の大筋(三話時点での印象に過ぎませんが)をここに示したわけですが、「青ブタ」のすごいところはここではありません。このアニメの、特に第1-3話にかけて取り扱った問題がすごいんです。視聴済み、あるいは原作ファンの方であれば、お分かりかと思いますが、アニメ1-3話・「桜島麻衣」にまつわる物語は、「空気」との対決を描いています。

 

 

「戦って、そして勝つ」を描くこと

 「空気を読む」でおなじみの、あのいやらしい「空気」ですが、本作で最初に取り扱われるテーマはその空気に抗うことです。このことは、現代を生きるわたしたちとって大変難しいことであるというは、説明の必要もないでしょう。

 

 詳しくは省きますが、そういったあの「空気」によって存在を消されかかったヒロイン・桜島麻衣を救うために、主人公の梓川くんが一人で、空気と対決します。しかも勝ちます。

 

 まず前提として(設定として)梓川くんはややアウトロー気味で、友達のほとんどいない皮肉屋の少年です。ちょっとした勘違いから、学校はならず者の危険人物であるかのように扱われています。つまり彼は、社会から理不尽にも疎外された人物であるわけです。

 

 そういった彼が、「空気」に立ち向かうということは現実的には当然ながら、かなりハードであると言えます。実際彼はヒロインの登場までは、「空気」に対し、冷笑的な、降伏の態度を示しています。この辺りには、村上春樹の小説によく似た雰囲気があります。彼の書く小説、特に初期のものには、社会やシステムに対する諦念があります。村上の場合「やれやれ」と首をふること、あるいは些細で頑固な反抗をすることで、結果主人公は打ちのめされますが、なんとか納得いく帰結を求めていきます。(村上の小説に特異というよりは、ハードボイルドものの基本形態と言えるかもしれません)

 

 しかし、「青ブタ」の場合そうではありません。梓川くんは対決します。彼は「空気」をひっくり返すことに成功します。そしてその過程を描くところが、そこが「青ブタ」のすごいところです。梓川くんは、「空気」と対決するために、桜島麻衣への愛の告白を全校生徒の前でゲリラ的に行います。このシーンは、ひとによっては、微笑ましい青春の一ページかもしれませんし、もしくは、戯画化された失笑の演出でしかないと切り捨てるかもしれません。ただ、ここで誰もが思わざるを得ません。「自分にはこんなことはできない」。たとえどんな意味であっても、そこに「空気」の拘束がないと言い切れるひとが果たしているのでしょうか。

 

 ここでは、他の物語的手法を使うことなく(たとえば、「心理の解明」や「怪異の退治」)、「実際にのリアルな空気に向けての声」という対決方法をとっています。「青ブタ」のこのエピソードが大変優れているのは、この部分です。これは、「空気と戦うということは、まったく手加減なしに、自分という個人を以て〈自分以外〉と立ち向かうことである」という重要なものを示しています。

 

 梓川くんの行動は、一見、滑稽で、かつ恥ずかしい(彼自身そう独りごちます)ものです。そして「空気との対決」には、それらが宿命的に備わるものだと言っても過言ではないでしょう。他でもない自分が、恥ずかしかろうと、場違いであろうと、自分以外の全員が見ている場所で何かを言う。このことが、空気と本当に対決する強い態度であることを、この物語は指し示しています。

 

 

まとめ的何か

 ここまでの解釈が指し示すところいけば、「青ブタ」は今を生きる我々に対して、かなり致命的に睨みを利かせた、ソリッドかつタフな物語であると言えます。未だ第三話までしか放送されていないところ、物語の価値を定めるのは余りにも早すぎるところですが、既に第三話までにおいて、相当に力強い意味を引き出しているこの作品をチェックしないわけにはいかないでしょう。

 

見てないひと、見てね!

 

 

 

 

笑論 -笑いの分類についての粗雑な論考-

 

 

 

 初めに

 本文はもともと、バラエティ番組「水曜日のダウンタウン」の「クロちゃん企画」について思ったことを残しておこうとして書き始めたものでした。しかし途中で嫌気がさして辞めてしまったので、「これはもう、日の目をみることはないな」と思っていましたが、折角書いたので何とか形にして発表してみようと思い立ったゆえ、ここにまとめてみました。

 *先行研究や、類似するものには一切触れていないので稚拙な論考にはなりますが、その分原始的なロジックで読みやすいのではないかと考えております。

 

「ギャグ」と「コメディ」

 ここではまず、「笑い(ユーモア)」のテクニック分類として「ギャグ」「コメディ」の違いについて述べさせていただきます。「ギャグ」とは「笑わせること」が目的として作られたユーモアで、「コメディ」「笑われること」が目的に作られたユーモアです。「笑わせること」と「笑われること」の間には、表面的な違いはないものの、その意味には大きな違いがあります。

 

①「ギャグ」という「笑わせるユーモア」

 「ギャグ」と言われると何を想像されるでしょうか。「一発ギャグ」「オヤジギャグ」「ギャグ漫画」……などと、日本語には数々の「ギャグ」が存在するわけですが、「ギャグ」とはつまり、行為者(ギャグする側)」が「被行為者(観客)」を笑わせることを目的に行うユーモアのことです。「行為者」はわざと「面白いこと・愉快なこと」をして「笑い」を生み出します。

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  「笑わせる」ことが目的である以上、行為者は「自分の行為がなんらかのユーモアを備えている」と思って「行為(=ギャグ)」をします(そしてその企みが、被行為者の好み・感覚とズレていたとき、「スベり」ます)。この部分が、「コメディ」と大きくその特徴を異とする箇所になります。

 またギャグの特徴として以下のものが挙げられます(全ての「ギャグ」がこれらを含むわけではありません)。

 

 ➊「直截性」……「わざと笑わせる」ものなのでギャグはとても直截的なものが多いです。行為者と被行為者の目が合うこともしばしばあります。「ノリと勢い」で笑わせるものの場合この傾向が顕著と言えるでしょう。

 ❷「過激性」……「直截性」同様、意図的な笑いの誘発が目的のものなので、その場限りの「激しさ」がよくあります。裸芸(アキラ100%)や絶叫(サンシャイン池崎)などはこの「過激性」を重視した「ギャグ」です。

 ❸「単発性・短時間性」……➊、❷の特徴ゆえに、「ギャグ」は短い時間に、一瞬で弾けるようなものになります。ボケ→ツッコミの応答はその関連性を保つためにも、ごく短い時間で行われます。

 ※「笑わせるユーモア」には、ギャグの例外的存在として「機知・ウィット」があります。これは意図的に被行為者から笑いを引き出すことを目的とした行為ですが、ここにはしばしば、ギャグに含まれる「直截性・過激性」が存在していません。「機知・ウィット」の場合、「気の利いた事。感心させられること。直感ではなく論理的なおかしみ」が内在しています。またシュールな笑いもここに分類されるものではないか、と私は考えます。

 

 

②「コメディ」という「結果としてのユーモア」、そして虚構性

 「ギャグ」が笑わせることを目的としている一方、「コメディ」には、その恣意性(言い換えるなら「わざとらしさ」)はありません。少なくとも、「ないようにみせかけて」行為することがルールです。「コメディ」における行為者には、課せられた条件として、「被行為者(観客)に、自分の行為は自分にとって重要で、通常の行為であるのだ」というように見せかけねばならないのです。それはつまり、コメディ役者は「役者としては」自分の行為のユーモア性を認識しながらも、「役」としてはそれを、むしろ「そんなこと」に構ってられないような心境にあらねばならないという枷がある、ということになります。

 また「コメディ」には前提として、媒体そのもの(コメディ映画やドラマ)が「虚構」であることが求められます。我々は、「虚構」であることを前提にしなければ喜劇を鑑賞することはできません。なぜなら、「虚構」でないもの、つまり同次元に存在する事実を笑うことは、ただの嘲笑と化してしまうからです。「コメディ作品」と「鑑賞者」の間には絶対の壁があり、これを超える・もしくは破壊すると、「鑑賞者」は「目の前の滑稽」を笑う不謹慎者と成り果ててしまいます。逆に考えると、「コメディ」は「誰かの不幸を笑う」タブーを、限定的に取り払うための一つの手段という側面があるともいえます。

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 またコメディの特徴として以下のものが挙げられます(全てのコメディがこれらを含むわけではありませんが、「虚構性」は概ねのコメディに不可欠です)。

 

 ➊「可笑性[かしょうせい]……「可笑」とはつまり、「笑うことが可能である。笑っても許される」ということです。現実の出来事であれば、不憫で悔やまれるようなものでも、コメディでは、後述❷の「虚構性」を得ることで、「笑ってもいいもの」として扱われます。

 ❷「虚構性」……前述のように、コメディには前提として「虚構(つくりもの)」であることが求められます。しかしこれは基本的に、視線を向けられないものです。「虚構性」は前提でありながらも、被行為者はそれを思考から追い出しながらメディアを楽しみます。つまり、コメディ映画を観ながら、常に「でもこれは作り物だから」 と考えるわけではないということです。そのつくりものの世界に没頭できて、「虚構性」を忘れられる「コメディ」こそ、上等のものと呼べるでしょう。

 ❸「連続性・長時間性」……コメディはしばしば、物語を基盤に展開されることが多いユーモアです。ゆえにその中には、意味や展開の連続性が、そしてユーモア自体が比較的長時間のものとなります。

 

「ギャグ」と「コメディ」の関係

 「ギャグ」と「コメディ」の、二つの分類の関係は、実際には混ざり合っている状態にあります。完全純粋の「ギャグ」あるいは「コメディ」というものは存在しません。つまり、古今東西のあらゆる「笑い」には、「ギャグ」っぽさ(ギャグ的要素)と「コメディ」っぽさ(コメディ的要素)が同時に混じって生み出されているのです。

 

 

 ここから、「水曜日のダウンタウン」がコメディの虚構性を破壊しているさまを記述して、その笑いのシステムが自己崩壊的なものであると言いたかったのですが、水曜日のダウンタウンアーカイブを確認し直していく作業が非常に困難であったので断念せざるを得ないものとなりました。

 ざっくりいうと、「クロちゃんのこといじめすぎじゃない? というか、いじめの構造をそのままいじめっ子目線で笑いにしちゃうのってやばくない?」ということなのでいちいち小難しく描く必要もなかったのですが、途中まで書いたのでもったいないし、とりあえず形にしているだけの「かきちらし」です。ここまで読んでいただけたら光栄でございます。拙文を失礼。

2017年・読書の旅

 

初めに

 2018年、平成最後の年が早くも上半期終了というところに来ています。皆さん読書はされますでしょうか?(唐突) 

 今回は週に一冊読み終えれたら上等、というレベルの遅読家である私が去年、即ち2017年にちゃんと読み終えることができた本の、その概要と感想、面白さを列挙します。ちなみにその年に読んだものは全部で38作品。書籍として単独に出版されたものは34冊でした(つまり、リストには雑誌に収録された短編などが含まれています)。

 

 

目次

1『頼むから静かにしてくれ  Ⅰ』レイモンドカーヴァー,村上春樹
2『職業としての小説家』村上春樹
4『ライト・グッドバイ』 東直己
5「秘密は花になる。」舞城王太郎
6『流れよわが涙、と警官は言った』P.k.ディック,友枝康子訳
9『一九八四年』ジョージオーウェル,高橋和久
10『みんな元気。』舞城王太郎
12『ザップ・ガン』P.k.ディック,大森望
13『自我論集』S.フロイト,中山元
14『武器よさらば』ヘミングウェイ,高見浩訳
15『頼むから静かにしてくれ  Ⅱ』レイモンドカーヴァー,村上春樹
16『2001年宇宙の旅』アーサーC.クラーク,伊藤典夫
18『図解雑学 フロイト精神分析鈴木晶
19『風と光と二十の私と・いずこへ』坂口安吾
20『やさしい女・白夜』ドストエフスキー,井桁貞義訳
21「ナイス・エイジ」鴻池留衣
22『村上春樹全作品1990-2000,6  アンダーグラウンド』村上春樹
24『暗闇のスキャナー』P.K.ディック,山形浩生
25『動物農場』ジョージ・オーウェル,高畠文夫
26『大江健三郎自選短篇』大江健三郎
27『銃』中村文則
28『騎士団長殺し  第1部顕れるイデア編』村上春樹
29『騎士団長殺し  第2部遷ろうメタファー編』村上春樹
30『雪国』川端康成
31『百年の孤独』ガルシアマルケス,鼓直
33『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』川島博之
34『みずから我が涙をぬぐいたまう日』大江健三郎
35『図解 哲学がわかる本』竹田青嗣 監修
36『エレンディラ』ガルシアマルケス,鼓直  木村榮一
37「陋劣夜曲」西村賢太
38『夢十夜 他二篇』夏目漱石   *読んだ順に並べてあります 

【面白さ】を以下の基準でランク付けします。

  A. 最高程度に、語りたくなるくらい面白い。

  B. 文句なしに面白い。

  C. まあ面白い。読んで損はない。

  D. 懸念もあるがよし。読み返すことはない。

  E. 読むに費やした時間を少し後悔するレベル。お勧めはできない。

*評価は文学やものの価値について一切の知識を持たない素人の直感によるものであることをご考慮いただければ幸いです。また一部の著書については、「面白さ」という表現が相応しくないものがあり、それについては評価をしておりません。

 

 それでは拙評をどうぞお楽しみください。

 

 

 

1.『頼むから静かにしてくれ  Ⅰ』レイモンド・カーヴァー,村上春樹

  【面白さ・C】 村上春樹が尊敬しているらしいアメリカの小説家、レイモンド・カーヴァー(1938-1988)の短編集、奥さんと仲の悪い旦那さんの話が多い。「60エーカー」という、先祖代々の土地と誇りに固執するネイティヴアメリカンの話がなかなか渋くてよい。基本的に暗い話が多いが、村上春樹の各話解説があり、村上ファンにはそこが嬉しいかもしれません。

頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 

2.『職業としての小説家』村上春樹

 【面白さ・B】 村上春樹のエッセイ。村上自身が「小説家」というものをどういうものと捉えているかに触れられる一冊。相変わらず文章自体はクッソ読みやすいのでオススメ。個人的に面白かったのは芥川賞を取れなかったこと」(村上は二回候補になって、二回とも落選)について彼自身がどう思っているのかというところ。
職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

 

3.砂の女安部公房

 【面白さ・B】 言わずと知れた名作。田舎に虫取りにいった都会人の男が、村人に騙されて砂で覆われたボロ屋に女と二人きりで放り込まれるという意味不明な展開から生まれるエロさが絶品の一冊。現代社会のなにやらが暗喩的に表現されているらしいですが、そんなこと分からずとも十分にシコれるレベルにエロい

 安部公房についての個人的な思い出は、高校時代の現国の教師が、「安部はな、ノーベル文学賞とるかどうかの男だったんだ。死ななきゃとれた」と言っているのを聞いて、「結局とれてねーじゃねーか」とか思っていた程度でした。

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

 

4.『ライト・グッドバイ』 東直己

 【面白さ・-】 映画(「探偵はBARにいる」)でおなじみの「ススキノ探偵シリーズ」の8作目。北海道の歓楽街ススキノで、違法行為と探偵業の二足のわらじで生計を立てる北大哲学科出身のチンピラ中年男性の活躍を描いた作品。実はこの文章を書いた一年と半年前ほどに読んだものなので、申し訳ないが全く内容を覚えていません。でも安定して面白いシリーズなのでおすすめです。

ライト・グッドバイ―ススキノ探偵シリーズ (ハヤカワ文庫JA)

ライト・グッドバイ―ススキノ探偵シリーズ (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

5.「秘密は花になる。」舞城王太郎

 【面白さ・-】 最近(?)活躍がめざましい舞城王太郎の短編。文芸誌「新潮」の2017年2月号に掲載された作品。残念ながらこちらも内容を忘れてしまっています

 舞城は読みやすいのと、(最近の作品は)割とわかりやすい物語が多いのが良い作家です。物語的な盛り上がりを重視した展開をよく使うので、短編でもしっかり面白い小説を書くひとです。僕は好きです。オススメは『土か煙か食い物』「熊の場所」「スクールアタック・シンドローム」『淵の王』です。

新潮 2017年 02 月号 [雑誌]

新潮 2017年 02 月号 [雑誌]

 
煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)

 
淵の王 (新潮文庫)

淵の王 (新潮文庫)

 

 

 

6.『流れよわが涙、と警官は言った』P.K.ディック,友枝康子訳

 【面白さ・D】 タイトルと早川版の表紙がクッソかっこいいことでおなじみのディックですが、本編については微妙なところが多いです。というか展開が唐突なのでめちゃくちゃ読みにくいです。それでもこちらはかなりマシなほう。あとにも出てきますが『ザップ・ガン』は本当に許せないレベルでした

 本作は、世間に超能力者である正体を隠しながら生きる人気エンターテイナーが、自分の存在を完全に抹消された世界に転移してしまう。という強い不安を読者に常に感じさせる構造。物語の、人間的な盛り上がりはラストの上級警官が涙するシーンだけなので、長さの割には物足りなく感じました。

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

7.神の子どもたちはみな踊る村上春樹

 【面白さ・C】 村上春樹の短編集。1995年(阪神淡路大震災オウム真理教の台頭)を受けての作品が多く、どこか寂し気な雰囲気が一貫してあります。表題作・神の子どもたちはみな踊る「かえるくん、東京を救う」が非常に印象的な物語で、特に「かえるくん」の結末には、村上の世界観というか、「世界は救われるべきである」という「願い」を味わうことができます。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 

 

 

8.色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年村上春樹

 【面白さ・D】 村上の割と最近の長編。出版時はいつも通り騒ぎになってましたが、全体の完成度ではもう一つでした。会社勤めの中年の男が、大学時代の初めに、高校の頃からの付き合いである親友四人に突然の絶縁を突き付けられたことについて、その真相を探るため、大人になった親友たちに会いにいくという物語。個々の挿話は面白い(村上春樹のたいへんよいところです)が、結末とそのまとまりについて考えると、「村上春樹」への期待がもともと高いのも相まって微妙、という感じでした。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)
 

 

 

9.『一九八四年』ジョージ・オーウェル,高橋和久 訳

 【面白さ・C】 ”Big Brother is watching you”でおなじみの”1984”の新訳版。架空未來の1984(ちなみに原書の出版は1948年。おぼえやすい)の大国「オセアニア」では、人々の生活は監視され、歴史は常に都合のいいように書き換えられている。いわゆるディストピア社会が営まれており、そういった自由のない世界で、ひそかに支配に反抗しながら生きる男の物語。抑圧された生活と、ときたま得られる秘密の解放の対照がなかなかよいです。「101号室」のシーンはとてもこわい(小並感)。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

10.『みんな元気。』舞城王太郎

  【面白さ・C】 舞城王太郎の短編集。個人的に、舞城小説の特徴は著しい口語調とぶっとんだ物語展開、そしてどこか説教じみた哲学の語りにあると(私は)考えていますが、本書でもそういったものを存分に味わうことができます。最後に収録されている作品、スクールアタック・シンドローム伝染してゆく衝動的な暴力をテーマに、大変興味深い作品になっていて面白いです。読みやすい小説が多いのでオススメ。

みんな元気。

みんな元気。

 

 

 

11.国境の南、太陽の西村上春樹

 【面白さ・D】 村上春樹の長編小説。中年男性が人生の成功を味わいつつも、どこか物足りないところに幼馴染だった女性と再会し、昔を思い出しながら彼女と通じあうという内容(うろ覚え)。比較的地味な印象の作品。

 『ねじまき鳥クロニクルの前半をカットして単品に仕上げたものと聞いて読んでみたけど、これ自体は『クロニクル』とは違って割とリアリズム的。読み返すことはないかもしれないが、もう少し経ってから読み返せば、なにか良さが分かる気がするような一品。タイトルは確か、なにか洋楽からの引用だったような。

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 

 

 

12.『ザップ・ガン』P.K.ディック,大森望

 【面白さ・】 当該年のワーストワンにして、オールタイムワースト小説の『ザップ・ガン』です。「ディックは映画はクッソ面白いし、『わが涙』も結構よかった気がするから、いけるやろ」と市営図書館で手に取ったのが運の尽き。文庫本ですが文字が小さいし、結構分厚いしで読むのに時間がかかりました。

 冷戦体制下の近未来で、米国のサイコ能力による武器デサイナーをしている主人公が、宇宙人の襲来(たしかそう)に対抗するため、ソ連側の美人女武器デザイナーと協力して最強の兵器「ザップ・ガン」を作り出すという内容。いま書き出すと「あれ? 面白かったかな?」と一瞬思いましたが、とにかく長くてわかりにくい

 私の読んだものには、巻末付録として、ディック自身による作品評価の短文がいくつかあるのですが、そこで作者自身が「『ザップ・ガン』はクソだ」みたいなことを言っていたのを、読んでガン萎えした記憶があります。

ザップ・ガン (創元SF文庫)

ザップ・ガン (創元SF文庫)

 

 

 

13.『自我論集』S.フロイト,中山元

 【面白さ・-】おなじみ、精神分析の開祖・フロイトの論集。多くの哲学者・思想家の著作について言えることだと思いますが、いきなり本人のものを読むのはオススメできません。意地で読んでも内容は理解できないので辛いです。それでも感想の述べるとすると、「快感原則の彼岸」(論文のタイトルです)は、フロイト後期欲動論・エロスとタナトスが生まれる過程を見ているようで、なかなかアツイです。

自我論集 (ちくま学芸文庫)

自我論集 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

14.武器よさらばヘミングウェイ,高見浩訳

 【面白さ・】 ノーベル文学賞を受賞した米国の作家・ヘミングウェイによる長編小説。第一次大戦で軍医としてイタリア軍(たぶんそう)に参加した若者が看護婦のねーちゃんと仲良くなって、最後はボートで戦線を逃げ出す話。前線の「いつ死んでもおかしくない」という切迫と、ラストの静謐な雰囲気は非常に見事に描かれていますが、小説として飽きのない面白さがあるとは言えない出来。読みにくく冗長ともいえます。文学についての教養や磨かれた感性が必要なのかもしれません。私にはあまり理解できませんでした。

武器よさらば (新潮文庫)

武器よさらば (新潮文庫)

 

 

 

15.『頼むから静かにしてくれ  Ⅱ』レイモンド・カーヴァー,村上春樹
 【面白さ・-】 カーヴァーの短編集。内容を忘れてしまったのですが!(無能)
頼むから静かにしてくれ〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

頼むから静かにしてくれ〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 
16.2001年宇宙の旅アーサーC.クラーク,伊藤典夫
 【面白さ・B】 S.キューブリックの映画としても有名な本作ですが、映画はクラークとキューブリックの共同で撮られたもので、原作者の一人が執筆したという意味で、こちらも本家本元の「2001年宇宙の旅」です。
 映画の方は、言葉による説明がほとんどないのですが、小説のこちらはクラークの文体で物語が綴られていき、多くの謎が解明されていきます。(素人が)一言で表すなら本作は「人類進化の物語」でしょうか。原始時代の猿、そして宇宙進出を果たした人類が、次のステップに進み、新たな存在と化すときにはいつもあの黒いモノリスがそばにありました。「映画は観たけど、よくわかんかったな」という人にもオススメです。
2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫 SF 243)

2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫 SF 243)

 

 

 
 【面白さ・C】 村上春樹の長編小説。恋人を失った少女に寄り添い生きようとする青年の物語。村上小説には珍しく主人公が若いです(とはいうものの、本編の大部分は大人になった主人公の回想録となっていますが)。
 初期村上春樹(というものがあれば)の冷笑的なスタンスの主人公の喋りと、数名の女の子、個性的でどこか寂しげな友人たち。飽きなく読み進められますが、主人公が頻繁に女の子たちとSEXするのでときおりムカつきます。読んで損はありませんのおすすめです。

 

 
18.『図解雑学 フロイト精神分析鈴木晶
 【面白さ・C】 フロイト精神分析理論をわかりやすく図説した一冊。「さわりだけ」という感じもありますが主要な理論のアウトラインは抑えているので入門にはぴったりです。読みやすく大変goodです。アマゾンでやけに高騰しているので図書館を探すのがよいでしょう。
フロイトの精神分析 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!-)

フロイトの精神分析 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!-)

 

 

 

19.『風と光と二十の私と・いずこへ』坂口安吾
 【面白さ・-】 坂口安吾の短編集。内容を覚えてないよう。なので安吾について述べるとこの人の文章では、『堕落論』に入っているエッセイ「日本文化私観」、そして小説の「白痴」が大変面白いです。古い人のわり文章が読みやすいのでぜひ読んでみよう!
風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

 

 

 

20.『やさしい女・白夜』ドストエフスキー,井桁貞義訳
 【面白さ・-】なにも覚えてません(半ギレ)
やさしい女・白夜 (講談社文芸文庫)

やさしい女・白夜 (講談社文芸文庫)

 

 

 
21.「ナイス・エイジ」鴻池留衣
 【面白さ・C】 去年の群像新人賞でデビューした新人作家の二作目。私が読んだときは雑誌掲載でしたが、今は、しゃれたデザインの単行本になっています。元アイドルのAV女優がネット掲示板の未来人スレのオフ会で未来からきた孫に会うという奇妙奇天烈な物語。それなりに面白いですが、人間的な面白さには欠けるかもしれません。著者前作(つまりデビュー作)の「二人組み」の方はめちゃくちゃイイので是非読んでみてください。両作とも単行本『ナイス・エイジ』に収録されています。*著者読み方は「こうのいけ・るい」さんです。
ナイス・エイジ

ナイス・エイジ

 

 

 

22.『村上春樹全作品1990-2000,6  アンダーグラウンド村上春樹 
 【面白さ・-】 村上春樹が1995年に起きた地下鉄サリン事件の被害者の方々や、未曽有の人災に対応した現場の人々に直接インタビューを行ったノンフィクション対談集
 被害に遭った人々は普段通りの通勤電車の中で、サリンの匂いを嗅ぐもののそれが何かは気づかない。「おや、おかしいな」なんて思ったころには身体がうまく動かなくなっている。そのまま救急搬送されるかたもいれば、職場まで行ってからサリンの症状に気付く人もいる。元気に日々の生活に復帰した方もいれば、心や、あるいは身体に一生の傷を負った方いました。事件で亡くなった方もいます。彼らが元凶であるオウムについて抱く感情はさまざまです。フィクションではない、実際の経験が村上でなく当事者の言葉で語られる本書は、テロという直接暴力の被害者の言葉を聞くことに大変な意義があるものと思います
 また村上があとがきに寄せている、誰かの、恣意的で利己的な物語の恐ろしさについての考察と、またそれに対抗するための小説という発想は文学の存在意義の根底にある一つの希望にも思えます。

 

 
 【面白さ・】 村上春樹の長編小説。父親から離れ「家を出ていく」ことを決意した十五歳の少年の物語村上春樹特有の「不思議な感じ」が全開になった一冊。家出少年のカフカくん猫と話せる放浪老人のナカタさんの二人の物語が交互の章立てでつづられていきます。村上春樹の小説は読みやすい文章なんだか分からない物語の二つの特徴があり、本作はそれが顕著に出ています。
 カフカくんの本筋の物語は複雑でメタフォリカルに進んでいきますが、一方ナカタさんの物語は、比較的わかりやすく、また素直な物語の面白さがふんだんに込められています。私は村上春樹の小説では、これが一番好きです。
海辺のカフカ 全2巻 完結セット (新潮文庫)

海辺のカフカ 全2巻 完結セット (新潮文庫)

 

 

 
24.『暗闇のスキャナー』P.K.ディック,山形浩生
 【面白さ・D】 三度目の正直で読んだディック。やはり長く、大変読みずらいですヤク中の振りをしながらヤク中グループに潜入する捜査員の主人公が、次第に捜査員としての自分か、ヤク中としての自分かが分からなくなるという物語。結末まで追えばそれなりには面白いですが、読むには根性が要りました。
暗闇のスキャナー (創元SF文庫)
 

 

 
 【面白さ・C】 ”1984”と同じくらい有名な政治小説、「動物農場」が収録された短編集です。農場の動物たちが、賢い豚たちを筆頭に乱暴な農場主を追い出すことに成功しますが、彼らのリーダーとなった豚たちが人間にとって代わって圧政を強いるようになるという物語
 明らかに全体主義を風刺した構成になっていて、wikiによると旧ソ連の政治家たちがモデルになっているそうです。初めは気高い思想のもと為された革命が、腐敗した指導者によって書き換えられていく様が不安を掻き立てます。収録されている他の短編の「象を撃つ」という白人警官が暴れ象をライフルで撃ち殺すというごく短い物語があるのですが、そちらの方が僕は好きでした。

 *リンクの角川版には「象を撃つ」は収録されていないようです。ご注意ください。私が読んだものは「角川文庫クラシックス」というレーベルから1998年に出たものでした。

 
 
26.大江健三郎自選短篇』大江健三郎
 【面白さ・】 日本人二人目のノーベル文学賞作家・大江健三郎の短編集。コロコロコミックくらいの分厚さ岩波文庫に入っています。大江の短編のいくつかを初期・中期・後期の三期間に分類して大江の自選から収録しています。一つ一つが短いのであっさりと読めます。私のおすすめは「人間の羊」「空の怪物アグイー」です。
 大江健三郎は、どちらかというと生々しく残酷で、嫌な話を書くのが上手い気がしますが、「中期」以降の、大江自身の息子「イーヨー」(本名大江光。ピアニスト。知的障碍者。)をテーマとした「静かな生活」などの一群の短編は、危うさの中にも穏やかな、大江の望む平和の世界観が伺えます。鞄に入れると重いですが、読んで損なし。買いましょう。
大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)

大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)

 

 

 
27.『銃』中村文則
 【面白さ・B】 最近映画化作品が連発しているイケイケ芥川賞作家・中村文則のデビュー作にして芥川賞候補作品。死体の傍に落ちていた拳銃に惚れこんでしまった男がそれを密かに携帯し続けることの異様な興奮に溺れていくという物語。
 冒頭の数行の文章が神がったレベルで美しいのですが、物語が進むにつれてダレ始め、途中からは「これは期待外れかもしれない」とほとんど絶望で読み続けていました。それでもクライマックスの切迫はさすがの人気作家という感じで面白く読むことが出来ました。
銃

 

 

 
28.『騎士団長殺し  第1部顕れるイデア村上春樹
29.『騎士団長殺し  第2部遷ろうメタファー編村上春樹
 【面白さ・D】 村上春樹の最新の長編小説。奥さんに不明の理由で捨てられた中年画家が、「騎士団長殺し」というタイトルの日本画と出会うことで奇妙な世界にいざなわれていくという内容
 全作を網羅したわけではありませんが、村上春樹の中でも突出して難解かつ奇妙な物語であると感じました。また例の如く読みやすさは大変いいのですが、過去作に比して物語的な面白さに弱いところがあります。正直イマイチ。余談ですが今年七月号の文芸誌「文学界」に村上春樹の新作短編が載るのでみんな文学界買いましょう。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

 

30.『雪国』川端康成
 【面白さ・】 おなじみノーベル賞川端康成の代表作。たいへん読みにくく、またこの時代の風土や文化を解さない無知であるところの私には、川端の良さを理解する能力に欠け、日本文学の最高峰の一個を肯定的に捉えることが全く出来ませんでした。おれにはないんだよ!教養が!(逆ギレ)
雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

 

 

 

  【面白さ・】 こちらもノーベル文学賞受賞者。コロンビアの小説家、G.ガルシア・マルケスの代表作です。コロンビアの田舎町・マコンドにやって来たブエンディア一家の盛衰を描いた幻想小説
 ラテンアメリカ文学とかマジックレアリズムとか難しい言葉で評する人が多いですが、そんなことは一ミリも知らずとも十分に面白い私も知りません)ので絶対読みましょう。マコンドの人々の泥臭い人間劇と、町が滅ぶその瞬間まで描き切った壮大な運命の物語は絶品です。ちなみに私が一番好きな登場人物は、引きこもり・陰キャロリコン・ヤリチン・老け顔・革命家・高級士官といった七色の顔をもつアウレリャノ・ブエンディアくんです。
百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

 

 

 【面白さ・C】 三島由紀夫の長編小説。同性愛の傾向をもつ少年が、青年期に終戦を経験し、そしてそれからの青春をつづった小説。常に自己を省みるような主人公の心の在り方にどきりとさせられるような手ごたえがあります。正直もっと生臭いホモ描写を期待していた手前、肩透かしを食らった感がありましたが、脇毛のシーンとかは結構キツイので読者は覚悟せよ。
仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

 

 
33.『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』川島博之
 【面白さ・C】 現在の中華人民共和国が「農村民」と「都市民」を分離し、戸籍隔離政策を、事実上の差別政策を行っていることを主題にして、中国政治の歪みをわかりやすい文体で解説した一冊。内容は良いのだが、ところどころに「過剰な私見」というか、若干保守的で偏った価値判断が見られるところがネック。オススメはできるが、書物に書かれてあることが、全て無条件に信ずるべきものというわけではないという前提を忘れずに読んでいただきたい(というか、この「この講談社+α文庫」というレーベル自体が、割と”右より”のようです)
戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊 (講談社+α新書)

戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊 (講談社+α新書)

 

 

 
34.『みずから我が涙をぬぐいたまう日』大江健三郎
 【面白さ・D】 三島由紀夫の自殺を受けて書いた(らしい)二つの短編小説が収録されたもの。どちらも結構イカれた感じの物語で一言で説明するのは不可能。それでもするとなると、表題作「みずから我が涙をぬぐいたまう日病気で瀕死の男が自分の少年期の思い出を「看護婦」に記録させんと内容をつづるもので、もう一方の「月の男」主人公が、旧友が交際する神経衰弱の米国人について、その思い出を語るというもの。やはりどこかイヤらしく、不気味な雰囲気があります。難解。
みずから我が涙をぬぐいたまう日 (講談社文芸文庫)

みずから我が涙をぬぐいたまう日 (講談社文芸文庫)

 

 

 
35.『哲学がわかる本』竹田青嗣 監修
 【面白さ・C】 いわゆるコンビニ本。高名な哲学者を一人数ページで概説したもの。わかりやすいが、その分あっさりしていて結局なんのことだったのかは分からないという読後感。哲学に初めて触れる、のならこういうものもいいんじゃないでしょうか(実際私がそうです)。過去の哲学者の思想のみならず、その生活や人生・逸話についても軽く触れていてそういうところは非常に良いと思いました。
図解 哲学がわかる本

図解 哲学がわかる本

 

 

 

36.『エレンディラ』ガルシア・マルケス,鼓直  木村榮一
 【面白さ・C】 ガルシア・マルケスの短編集。このひとは基本的にファンタジーを書くのでやはり収録作は全てファンタジーなのですが、どこか政治的な雰囲気がこもった作品もあります。
 オススメは表題作の「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」と、《選挙のために田舎町に訪れた政治家が、ほれ込んだ女の子がいたけどその子のお父さんの賄賂を受け取らないと貞操帯がはずしてもらえないのでエッチなことができず、しょうがないので抱きしめてもらう》という強烈な短編です(タイトルは忘れました)。面白いです。
エレンディラ (ちくま文庫)

エレンディラ (ちくま文庫)

 

 

 
37.「陋劣夜曲」西村賢太
 【面白さ・C】 日本を代表する純文学作家西村賢太先生の短編。文芸誌「群像」の2018年1月号に収録されています。読み方は「ろうれつやきょく」のようです。先生知性溢れる語彙が光ります。日雇い労働に従事する陰鬱な青年の日々を描いた作品。自らの怠惰や堕落を認識しながらも、どうにか生きていくしかない人間のもの悲しさをコミカルに描くことに見事に成功した逸品です(コメディではありませんが)。オススメです。
群像 2018年 01 月号 [雑誌]

群像 2018年 01 月号 [雑誌]

 

 

 
 
38.夢十夜 他二篇』夏目漱石
 【面白さ・B】 2017年最後を飾るのは、文豪・夏目漱石の短編集です。表題作「夢十夜は「こんな夢を見た。」で始まる十個の掌編で構成されています。中でも第一夜は、しょっぱなから大変な情景を描いていて、「さっぱり意味わからんけれど、確かにこの文章はとても美しい」と高校生であったころの私にも思わせる傑作です。おそらく日本で純文学とか呼ばれるものというのは、このようなものを指しているのだろうと思ったほどでした。
 他に収録されているものとして、漱石がロンドンに留学したときにお世話になっていたシェイクスピア研究家のお爺さんの話が好きです。当たり前ですが漱石著作権が切れていて、全作(たぶん)が青空文庫でタダ読み放題です。ヒマな方は読んでみてください。
夢十夜 他二篇 (岩波文庫)

夢十夜 他二篇 (岩波文庫)

 

 

 

総評

 以上が2017年に私が読んだ作品の全てです。いかがでしたでしょうか? 読んだ本をメモったりその感想を書いたりするのは、今回が初めてのことでした。

 やはり海辺のカフカ百年の孤独に当たれたのは大変ラッキーだったと思います。この年は他にも、カラマーゾフの兄弟』『地下室の手記ドストエフスキー)や『夜間飛行』サン・テグジュペリ)、善の研究西田幾多郎)などにも挑みましたが、途中でギブアップしました。もう読書を趣味と騙るのはやめておこうかなと考えております。

 また、「一週間かけて読んだ本の内容を完全に忘れていることがある」という事実を本稿の執筆にあたって突き付けられたのは、個人的にクる事実でした。でもしょうがないですよね。簡単に忘れられる内容の本を書いたという意味では、責任は作家さんサイドにあるのではないでしょうか(不遜)。

 

 ここまで読んでいただけたことにお礼申し上げます。もし記述に何か間違いがあれば指摘していただければ幸いです。それでは。

「輪るピングドラム」考察補論―未だ語り得ぬ物語について

*本文にはアニメーション作品「輪るピングドラム」のネタバレや個人的解釈が含まれます。

また私の「輪るピングドラム」解釈についてその本筋は、過去の記事↓

pyhosceliss.hatenablog.com

に詳しくありますので、ぜひそちらを読んでいただきたく思います。上の議論を前提にこちらでも考察を展開させていただきます。

 

 

未だ語り得ぬ物語

 「輪るピングドラム」についての私の考えは以前のものに完了したわけではなく、未だ触れていないが、触れるべきセリフ・演出が数多く存在します。故に、散乱した形ではありますが、ここに解釈の種とでも呼ぶべきようなものを、随時更新していこうと考えております。

 

一、渡瀬眞悧という「人間」

 本編後半から現れた二人の重要人物、渡瀬眞悧(サネトシ)と荻野目桃果(モモカ)ですが私の以前の考察では、対立するタナトス(死・破壊)」「エロス(愛・保護・創造)」のメタファとして紹介していました。

 「精神分析学」において、これら二つの属性は人間心理の根源にあると考えられ〔この点については諸説があります〕、つまりは我々人間において、誰もが持っている属性であるということが、肝要となります。我々はエロスのみでなく、タナトスもまた抱えて生きていることになります。逆に考えれば、私たちが社会を構成して、数々の瑕疵がありながらも、ごく一部分的に平和を作りあげているのは、エロス起因であり、そして、世界の悲しみや悲惨を生み出すものは、一方のタナトス起因であると言えるでしょう。我々はこの二元的な要素の両方を心に宿しており、どちらかが優位になればそれに付随した行動をするわけです。

 テロリズムとそれに対する不服従の対抗のように、エロスとタナトスは現実世界に発現したとき対立する関係になります。しかし、実際の人間の中では渾然一体としたかたちで深く混ざり合っています。

 理論はこの程度に、「輪るピングドラム」に話を戻しましょう。我々が注目すべきは、やはり物語の鍵を握るあの男、渡瀬眞悧です。

 前回の「輪るピングドラム」考察では、モモカもサネトシも共に人間ではなく、これらはそれぞれエロスとタナトスの化身であり、「人間と呼ぶのは適切ではない」と述べましたが、れを撤回せざるを得ない考えが浮かびあがりました。特にサネトシについて、彼の振る舞いはタナトスの化身」と称するにはあまりに人間的であり過ぎます。

 それはサネトシと、彼の傍にいる二匹の黒兎・シラセとソウヤのいくつかのセリフから読み取れます〔シラセとソウヤは、サネトシの眷属のような、下位の存在のようにも見えますが、十六年前のテロ決行日におけるサネトシとモモカの対決とその結果から考えて、サネトシとイコールの存在と考えていいでしょう〕

「ぼくは何者にもなれなかった。」

「いや、ぼくはついに力を手に入れたんだ。」

「ぼくを必要としなかった世界に復讐するんだ。」

「やっとぼくは透明じゃなくなるんだ。」

*「輪るピングドラム」第二十三話より、シラセとソウヤのセリフ

出口なんてどこにもないんだ……誰も救えやしない。

だからさ、壊すしかないんだ……箱を。人を。世界を。

*「輪るピングドラム」第二十三話より、サネトシのセリフ

  これらのセリフを参照することで、サネトシの過去のようなものが垣間見ることが出来ます。

 サネトシは、「世界に必要とされなかった」→「必要とされたかった」。

 サネトシは、「『透明な存在』でなくなる」→「『透明な存在』だった」。

 ゆえに彼は、復讐としてのタナトスの発動を、世界の破壊をもくろんだわけです。

 

*「透明な存在」とは、このアニメ作品において、「与えられるべき愛を喪失した人間」が陥る絶望状態のようなものだと、前回の考察で解釈しています。またこの「透明な存在」というキーワードは、神戸連続児童殺傷事件=通称「酒鬼薔薇事件」の犯人(当時中学生)が自身を指してそう呼んだともされています。

 

 ここで判明する事実として、サネトシは、純粋な破壊の精神(=タナトスの化身)としての特徴を持ちながらも、一方、彼は「傷ついた一個の人間」であり、また「世界に絶望したひと」であったということが分かります。彼もまた、〈物語=運命〉の波に翻弄されたキャラクターの一人なのです。

 そしてさらに、渡瀬眞悧という「人間」のその性質が見られる興味深いセリフが存在します。

以下、長い引用。

その女の子はね、突然僕の前に現れたんだ。

驚いたことに彼女はね、僕と同じ種類の人間だったよ。僕とおなじ瞳。

出会った瞬間、僕はこの世界で独りぼっちじゃなかったことを知ったよ。

そうなんだよ。彼女に出会うまで、僕はこの世界に独りだったからね。

僕に見える風景は僕以外の誰にも見えない。

僕が聞こえる音は僕以外の誰にも聞こえない。

でも、世界中のひとの声が聞こえていたんだ。

世界中の”助けて”って声が聞こえたんだ。

だから世界の進むべき方向も、僕には見えていたんだ。

でも、だから悲しかったよ。

だって彼女と出会った瞬間、

僕たちは絶対に交わらないって分かったから。

彼女は僕の味方になってくれなかった。彼女は僕を否定したんだ。

同じ風景が見える唯一の存在である僕を否定した。

*「輪るピングドラム」第十三話より、サネトシのセリフ

  サネトシが「十六年前に出会った女の子」となると、それはほかでもなく、もう一方の欲動・エロスを司る存在、モモカのことを指しているのが分かります。

 この世に人間として生まれてきたサネトシは、しかしやはりタナトスとして、「世界の行き詰まり」を破壊することを目的に生きてきたのでしょう。その人生の中で彼は、「透明な存在」になってしまったのかもしれません。彼がタナトスの化身と化したのは「透明な存在」になってしまったが故なのか、それとも生来のもの、まさに〈運命〉として彼は世界の破壊を選択したのか、私はこれは後者が当たると考えます。というよりは、〈運命〉的に世界の破壊属性を代表して現れたサネトシだからこそ、世界のひずみを受け取り、また「透明な存在」となったと考えることが自然でしょう。

 そんなサネトシが出会ったのが、同じ様に世界を見ていた「同じ種類の人間」である少女、モモカでした。彼は独りぼっちだと自分でもそう思っていたところに、またそうして自分を独りぼっちにした世界への復讐としての破壊をもたらそうとする直前(十六年前のテロ)に同族であるモモカと出会います。

 このシーンは本編23話冒頭において明らかになっています。二人は初対面であるはずながら、さながら平家武士のように迷いなく互いに名乗りをあげ、そして自分たちが絶対の敵対にあることを理解しています。モモカは、強大なサネトシという悪に向かって毅然とした顔つきをしていますが、一方サネトシはどこか弛緩した、何か嬉しそうな表情さえ浮かべています。それも上の引用から分かるように、彼はその時初めて、自分を理解してくれる可能性のある、愛すべき人間に出会ったわけです。

 しかしまた、同時に彼はその恋(サネトシは、モモカに対して恋心を抱いています。「恋人」「花嫁」といった単語を、彼は何度か使用していますが、それは全て、明らかにモモカに向けてのものでした)は瞬時に破綻してしまいます。モモカはサネトシを否定しました。おそらく、モモカにとっても「同種の人間」に出会ったのは初めてであったと思われます。二人は、出会って、互いに同じ類の人間であることを知って、そしてまた、それゆえに反目せざるを得なかった。それはサネトシは世界を破壊するために生きており、またモモカは世界を保護するために生きているからです。

*また、ことあるごとにサネトシは自身の野望、すなわち世界の破壊をモモカに見せつけることに言及しています。非常に歪んだ形ではありますが、「自分を決して受け入れない想い人に対して、かえってその人が望まないようなことであっても、自分の欲望を満たそうとする」という恋愛のかたちに、私たちは非常に人間的なものを感じるのではないでしょうか。

 そして「十六年前」の決着ののち、物語舞台の現代時間において、もう一度二人の対決が始まります。次は彼ら自身ではなく、高倉兄弟という二人の少年が役割を代理してそれを実行することになりました。

  さて、サネトシの人間的な側面について触れたわけですが、ここでまた、彼のセリフの中に注目すべきものが残っていたことに気付きます。以下引用です。

君たちは決して「呪い」から出ることはできない。

〔中略〕

「列車」はまた来るさ。

*「輪るピングドラム」第二十四話より、サネトシのセリフ

 上のセリフは、高倉冠葉に向けたものでしたが、これを世界全体に向けた言葉として読み直すことが可能です。この場合、「呪い」とはサネトシ自身、つまりタナトスの意志であることが伺えます。一度、エロスとタナトスの大きな闘いにエロスが勝利したからといって、それで人間の破壊欲動・攻撃欲動が消えてなくなることはないということの暗示であると言えます。彼ら(高倉家の人々や荻野目萃果)はタナトスの発動を防ぐことに成功しましたが、それによって彼らは自分たちの幸福を獲得したに過ぎず、世界ではいつでも破壊や攻撃がどこかで行われ続けているのでしょう(これは我々の生きる世界にも同じことですが)。

 そして下のセリフ、こちらはモモカとサネトシの会話の中での発言ですが、やはりここでも、「列車」つまり、呪い・幽霊と化したサネトシが、再び発現して世界に干渉する機会があるということを示しています。エロスが不滅であるように、またタナトスも不滅であるわけです。

*余談ですが、ここでモモカは列車のレールが敷かれた舞台から去っていきます。サネトシとモモカはここで自分が乗るべき「列車」を待っていたようでしたが、モモカのほうはそれを放棄して、どこか闇の中、緞帳の奥に消えていきます。このとき、サネトシは残り続けるわけですが、彼の振る舞いがどこか悲し気である点が、物語に非常な美しさを生み出しています。

サネトシは、いつも我々を見ているのだということが、物語でははっきりと示されています。

 

 

二、「エロスの継承」という世界の生存戦略

 本編最終話のクライマックス「運命の乗り換え」直後では、二つの人間原理の化身であり、また確かな人格を持った二人の人間・サネトシとモモカの最後の会話があります。サネトシの敗北という形で決着した物語でしたが、ここで世界から去ってゆくのはなぜか世界を守ったはずのモモカの方でした。

 なぜ彼女は世界の舞台から去っていったのか? そしてエロス(世界の保護を司る巨大な精神)の化身である彼女がいなくなったとき、誰がその代わりを務めるのか? 二つの疑問が我々の前に突き出されます。この謎を解き明かす鍵となるのは作中に何度も登場したあの場所、「運命の至る場所」です。

 「運命の至る場所」、この言葉を作中で初めて口にしたのはあの人物でした。一連の内容を以下に引きます。

わらわはお前たちの運命の至る場所からきた。

喜べ。わらわはこの娘の余命をいささか延ばしてやることにした。

もしこのままこの娘を生かしておきたくば……

輪るピングドラム」第一話より

 病弱の少女・高倉陽毬がペンギン帽子を被ったときまるで二重人格のように現れるあの人物、プリンセス・オブ・ザ・クリスタル(以下プリクリ)のセリフが上のものです。彼女は何者なのでしょうか。ここでは、プリクリが荻野目桃果の分身であると考えることにします。十六年前の対決で、モモカは二つのペンギン帽子に分離して世界に残ったわけですが、その片方を夏芽マリオが、そしてもう片方をヒマリが、まるでそれらに選ばれたかのように被ることになりました。プリクリはことあるごとにピングドラムの回収を高倉兄弟に命じるところ、プリクリはやはり、サネトシに対抗して世界を救おうとするモモカの分身であるといっていいでしょう。

 それでは「運命の至る場所」とはいったいどこなのか。本編第二十三話のサブタイトルがそのまま「運命の至る場所」であることからその冒頭、サネトシとモモカの対決のシーン、あの空間こそが「運命の至る場所」と言えます。しかし、「つまり十六年前の、サネトシが爆破テロを発動する直前のあの列車の中」が「運命の至る場所」なのではありません。「運命」「至る」「場所」。これはつまり、「世界が運命的にその場所に必ず収束して、そこに至る」ということでもあります。十六年前のあの場所で起きたのは、ただの不完全なテロ事件ではありませんでした。あの場所で起きたこと本質的に捉え直せば、あそこで起きたことというのは、界の巨大な二つの精神の対決と一時的な決着でした。つまり、愛と憎悪の、創造と破壊の、エロスとタナトスの、モモカとサネトシの対決です。

 世界は常に、エロスとタナトスの対立によって構成されていて、「輪るピングドラム」世界におけるこの対立の歴史的なワンシーンが、渡瀬眞悧と荻野目桃果の対決であり、またその十六年後の、高倉兄妹の和解でもあるのです。そして象徴的にも、その両方は、「列車」の中で行われています。

 これによってプリクリが「運命の至る場所」から来た、ということにも説明がつくようになります。サネトシとモモカ(≒プリクリ)は十六年前の対決以来、両者ともの現実世界から排除されていました。サネトシは「運命の乗り換え」で、モモカは「呪い」で、お互いに刺し違える形で、互いを現実には干渉できない(しにくい)ところに排したわけです。では彼らは、十六年後の物語世界に登場し始めるまでどこにいたのか。それが「運命の至る場所」です。彼らは、二人ともモモカによる「運命の乗り換え」の不完全な乗り換えの前の列車(世界)に閉じ込められました。そして二人は、自分たちの後継となりうる、それぞれの精神の継承者がそれを発動する機会を待っていたのです。 サネトシは高倉冠葉を選びました。そしてモモカが選んだのは高倉晶馬と、そしてまた高倉冠葉の二人、高倉兄弟の両方でした。

  そして物語において、サネトシは再び敗北し、世界は救われました。それではモモカの精神、エロス(保護と創造)の精神を継承した高倉兄弟はどうなったのか。彼らはそれぞれ罰を受けました。冠葉は、サネトシにかどわかされていた間の犠牲を生み出していた罪について。〔→最終話クライマックスで、冠葉の身体から噴き出す赤い欠片と苦しむ彼、そして最後には砕け散っていく彼の肉体を、私は彼自身が押し込めていた後悔や罪に対する苦悩の結果であると解釈しています〕そして晶馬は、萃果による「運命の乗り換え」の代償を肩代わりすることによってです。二人はそのあとの、「乗り換え後」の世界には存在していません。彼らの存在は世界から消されてしまいました(それでも、一部の人達は決してそれを忘れません。その点については前回の考察が関連しています)。しかし彼らは、最後により幼い少年の姿になって並んで歩いている姿が確認されます。

「ねぇ、ぼくたち、どこ行く?」

「どこへ行きたい?」

「そうだな……じゃあ……」

輪るピングドラム」最終話より 晶馬と冠葉のセリフ

  二人はどこへ行ったのでしょうか。直後のシーンでは陽毬の天蓋ベッドが夜空に浮かびあがることからも、彼らは自分たちが存在しない世界でも妹を見守り続けることを選んだともとれるでしょう。それも辻褄のあう解釈ですが、私はとくに支持したいのが、彼らはエロスの後継者として、モカの跡を継いだのではないか。というものです。

 二十三話では、モモカがペンギン帽子を通して晶馬に「あなたたちのピングドラムを見つけるのだと言っています。これはつまり、世界を保護する、破壊から守る「ピングドラム=愛」→参照とは「運命日記」だけではなく、それぞれの人間が「自分自身のピングドラム」を持ちうることのだと示唆しています。運命日記ではない、自身の「ピングドラム=愛」(高倉兄弟の場合、分け合ったリンゴがそれに相応しいでしょう)を獲得した彼らは、自ら世界から去っていったあの少女の役目・使命を受け継いで、世界の守護者としてのステージに登壇したのではないか、と私は考えています。

 そこから導かれる推論としてあるのが以下のものです。プリクリが高倉陽毬の病弱を利用して、高倉兄弟にピングドラムを探させたことや、タナトスであるサネトシと対決させたことというのは、モモカによる世界そのものの生存戦略なのではないでしょうか。サネトシというどこまでも破壊と死を追求する怪物に、戦略的に立ち向かう術として彼女が選択したものがピングドラムであり、また高倉兄弟への命令であったわけです。そうすると、プリクリが現れるイリュージョンの中で、彼女が最後に必ず言い放っていた提案の本当の意味も、少し見えてくるような気がします。

 

 

三、罪のひと・運命の奴隷・半分のりんご―高倉晶馬

  本作は第一話より、常に冠葉と晶馬の対比が描かれています。プレイボーイでガサツ、またある種のマキャベリズム〔目的のためには手段を選ばないとする思想〕さえ持ちうる冠葉と、真面目で誠実、違反や逸脱に厳しい晶馬という対照です。とくに晶馬のその倫理意識の高さや規範への忠誠はことあるごとに示されます。

 晶馬は、物語前半部分では、愛のため違法行為さえ憚らないクレイジーな少女、荻野目萃果に付き添って彼女の暴走をちくいち咎めます。自他を問わず厳しい監視の態度で生きる彼には、つよい良心の枷があるように思えます。コメディ・パートでは「ツッコミ役」であった彼の振る舞いも全ては彼の過剰な罪の意識から来ているのかもしれません。

 彼の罪の意識とはなんなのか? それが顕著に示されるのは本編第十二話、「メリーさん」の挿話です。あまりにも意味ありげなこの挿話ですが、この短い物語に「輪るピングドラム」全体としての意味を見出すのはナンセンスであると言えるでしょう。むしろここでは、この悲しいおとぎ話が、晶馬の言葉として語られたことに我々は注目すべきです。

 晶馬の罪責感の発露は萃果への高倉家の秘密の告白から始まります(第十二話)。そして、ついにプリクリのイリュージョンが終わり、陽毬の延命が同時に終わるとき彼は「メリーさん」を唱えながら、絶望に打ちひしがれました。ここから分かる(というか自明ですが)つまり、高倉家における罰は「理不尽な陽毬の死」であるわけです。では罪とはなんでしょうか。これも明らかに示されていますが、つまりは「高倉夫妻(=ピングフォース・企鵝の会)によるテロ」ということになります。晶馬は彼自身による行為ではない責任について、それを背負って(というよりも当然の帰結だと思い込んで)います。

 彼の苦悩は陽毬の(なんども繰り返される)「理不尽な死」にあるわけですが、つまりこれは晶馬自身が、「陽毬が罪を負って罰を受けるのは筋が通っていない」と思っているということです。同じことを、晶馬は冠葉に対しても思っています。

 なぜなら直截に高倉夫妻の罪を継承すべきなのは晶馬のみである、すなわち罪の血統を引くのは実子である高倉晶馬だけであるからです。この血統の事実が晶馬の強い罪の意識を由来しているのは作中でも言及されており、明らかな情報であると言えます。また、「透明な存在」になりつつあった陽毬を救いだして家族に迎え入れたのも晶馬でした。高倉家の罪を条理に適った形で背負うのは彼であるはずが、それは理不尽にも陽毬に課せられます。

  晶馬の罪責意識と共に我々が分析しうるものは、彼の世界観です。世界観とはつまり、その個人が、世界の解釈をどのように行っているかという目線のことです。

あるひとは「世界は愛情によって動かされていあるひとは「この世の中は才能とお金がすべてだ」というかもしれませんし、あるひとは「世界は愛情によって動かされている」と考えるかもしれません。

 あるいは宗教家であれば、「世界は神さまがつくったものなので、全てには意味があるのだ」(目的論的世界観)とするかもしれせんし、我々の時代を生きる人々なら、「世界は物理法則で成り立っているのであって、人間でさえも、生物として動くだけの一つのシステムに過ぎないんだ」(機械論的世界観)とする方が多いのではないでしょうか。では、晶馬の世界観とはなんなのでしょうか。それは以下ようなものだと推測できます。

 

「世界は運命によって既に定めらていて、人間の罪と罰でさえも理不尽に決定されている。それを人間が覆すことはできない」

 

 私がしばしば理論を引くフロイトは、運命の力のことをギリシャ神話の運命の女神、「アナンケー」の名を借りて表現します。アナンケーの力は人間には対抗の方法がありません。わたしたちは、例えばとてつもない不幸や理不尽に直面したとき、あるいは誰かに責任を投げかけたり、自分の行動を改めたりするわけですが、もしそれが、全く予想のしようのない、回避も防衛も不可能なものであった場合、しばしば運命の残酷さ、アナンケーの御業を実感することになります。しかしここで、あるいはこういった反論があるかもしれません。

 

「確かに運命は作中で頻出するキーワードではあるけれど、第一話から晶馬は『運命って言葉が嫌いだ』と否定しているじゃないか。そんな彼が、《運命絶対世界観》を抱えるわけがないのではないだろうか」

 

 それでは、第一話の晶馬のモノローグをここに引いてみましょう。

僕は、運命って言葉が嫌いだ。

生まれ、出会い、分かれ、成功と失敗、人生の幸不幸。

それらがあらかじめ運命によって決めらているのなら、

僕たちはなんのために生まれてくるのだろう。

裕福な家庭に生まれるひと、美しい母親から生まれるひと、

飢餓や戦争のまっただなかに生まれるひと。

それらがすべて運命だとすれば、

神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。

あの時から僕たちには未来なんてなく、

ただきっと何者にもなれないことがはっきりしてたんだから。

 「輪るピングドラム」第一話より

 

 確かに彼は、物語の最も初めの部分で「運命の強制力」を否定しています。しかしここでは、彼のセリフをそのまま額面通り受けとることが解釈として適していません。ここでは、彼が「運命論」を嫌って、否定していることに注目します。ぜ彼はここまではっきりと、運命を否定するのでしょうか。その妥当な理由として私たちが挙げられるのは「彼自身が、運命の女神・アナンケーの力に大きく左右された人間であるから」です。

 “子は親を選べない”とはよく言われますが、まさに晶馬の人生はその一言から始めると言えるでしょう。彼が生まれたのは、テロリズム集団の指導的幹部である夫妻の下でした。そして「愛」によって陽毬を救済したわけですが、その大切な妹さえもやはり致命的難病という枷を受けることになります。このどちらもが、理不尽な運命、晶馬の行動や性格によらないものを要因とした不幸であるという共通点があります。

 こういった絶大な不幸を享受せざるを得ない晶馬は、どう考えるのか。自分の責任ではなく、まったくの無理由と理不尽によって人生をめちゃくちゃにされた彼はどう思うのか。その帰結は人間的にもごく自然なものです。

 理由がないもの・わからないものに対して人間は、そこに多少強引であってもなにかの理由を求めます自然法則に対し、科学的理解が及ばなかったことや、ある種の理不尽に対し、古代の人々は「神」の観念を生み出しました。では晶馬は理不尽に対して、どういった回答を行ったのでしょうか。晶馬は、そこに罪と罰を見出しました。

 罪と罰が自分の人生の根底にあると考えることで、彼は理不尽な不幸に対して、その理由を見つけるわけです。「僕が不幸なのは、僕が悪いからだ」と考えることで、たとえ今が不幸(罰)であっても、それは過去の罪(実の両親の罪の継承)に由来するものであって、今からの人生をよりよくしていけば、罰⇔罪のシステムにおいて、罪を回避できるわけです。

 それゆえに、彼は作中においてもとても倫理的な振る舞いを続けます。それは、彼が性格的に真面目であるという理由もあるかもしれませんが、それ以上に彼は、不幸を回避するため、あるいは今受けている罪を取り払うために、赦されるために正しくあろうとしているのだと言えます。

 自身の運命的不幸を、回復可能なもの、幸せになれるものだと認め直すためのロジックが晶馬の「罪と罰」の意識でした。しかしこれでは、彼が運命肯定の世界観を持っているというよりは、世界を「罪と罰」の原理で捉えているとするまた別の世界観が生まれるようであります。

 彼が本当に見ていた世界とはいったい何だったのでしょうか。―ここでやっと戻ってきますが―「メリーさんの羊」では、明らかに罪と罰」の原理を実行する女神(くしくも「女神」です。もしかすれば、彼女は運命の女神・アナンケーであるのかもしれません)が登場します。そして彼女は以下のようなことも言います。

 

―だって罰は、いちばん理不尽じゃないとね。

輪るピングドラム」第十二話より

 

 ここで、晶馬の語り=「メリーさんの羊」によって明かされるものがあります。「罰は理不尽に与えられる」ということです。晶馬は罪と罰によって理不尽に理由を与えますが、その一方で、罰もまた理不尽の性質が備わっているという無限の連鎖を、一種のトートロジー(一つの言葉を同じ言葉で説明すること。例:ピングドラムとは、ピングドラムのことである)を生み出します。

 つまり、彼は、世界を「運命が絶対」と、捉えながらも一方で、その理由のなさ、回避しようのない運命的不幸から脱却するために「罪と罰」を生み出し、さらにその「罰」には理不尽性があるとして、そこに無力感を覚え続けているわけです。

 そんな彼は、物語においてどういった心理的決着を導くのでしょうか。最終話のセリフをここに引いてみましょう。

 

僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんな分け合うんだ。

これが僕たちの始まり……運命だったんだ。

輪るピングドラム」第二十四話より

 

 愛も罰も分け合う。それが彼らの始まりであり、運命であった。それはつまり、高倉の三兄妹が家族を始めたことに通じます。彼らは自身らに降りかかった理不尽な苦しみを分かち合うことで、家族になりました。そのことだって、運命であったのだと彼は見なしたわけです。

 ここで彼は運命を受け入れています。運命を否定することを止め、また理不尽の理由づけを止めた彼は、運命という大きな流れの中で、苦痛の回避や悔悟ではなく、自分はなにをすべきかという世界に到達します。そしてその問いの答えに彼が選んだものが、「愛も罰も分け合うのだ」という結論です。これは「人生の幸福も、理不尽な苦しみも、人と分けかちあうことに意味がある」と読み替えてもいいでしょう。

 すなわち晶馬は、理不尽の苦しみ(罰)を、理由づけによる納得ではなく、愛するひとたちと一緒に共有すること(これは、自分の苦しみだけを誰かに押し付けることと同義ではありません。分かち合うことはすなわち、相手の苦しみもこちらに受けとることになります。)によって心を安めることを見つけたわけです。

 そして前回の考察のもっとも重要な箇所「互いに愛し合う=運命の果実を一緒に食べる」の観念参照に接続するわけですが、ここに現れたメタファとしてのりんご、半分のりんごについて少し言葉を割きたいと思います。

 なぜりんごは半分なのか。一つのまるごとのりんごを与えることは本作のテーマには合致しません。「りんご=愛・生命のメタファ」は、一人の人間から、分割されたものが他者に分け与えられる。それが愛です。もう少しこの箇所を読み解くために、もう一度フロイトの理論に立ち返る必要があります。

 フロイトは、人間の心のエネルギーを「リビドー(欲動)」と呼びました。しばしば彼の理論では、「人間の心はすべて性欲によって説明される」と総括されることが多いですが、「リビドー」はたんなる性欲ではなく、「性的な欲求が基盤としてあり、一方で総量に限界がある通貨のようなエネルギー」のように扱われます。

 リビドーは固定の量が人間ひとりに所与として存在すると考えられており、普段は自分に向けて「備給」(与え補給すること)されています。量に限界があるリビドーは以下の図のような扱い方がされます(これは一例です)。

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*『エロス論集』の出版は1994年ではなく、1997年です。画像のものはまちがいです。

 

 上の図はリビドーが健全に人に向かって与えられるものを描いたものです。もし片方からしかリビドーが与えられなければ(いわゆる片思いの状態)、その人は「こちらからはリビドーを与えているのに、向こうからのお返し」がないことに陥り、そこにはある種の苦痛が生まれます。

 私がここで示したいのは、「半分与えて、半分残す」という総量の計算のことではありません。ここで示しているのは、とは即ち、「自己に向けていたはずのものを、その一部を他者に分け与えること」であるというものです。自分を生かすためのエネルギーでもあるリビドーを、誰かのために分け与えることが愛であり、それはいわゆる性愛が伴わないものでもおなじこと(つまり家族愛・友愛・人類愛でもおなじ)です。

 物語に話を戻します。りんごを半分だけ分け与えるという行為、このメタファの意味は、自分が持っているものを、分け与えるという意味です。自分のものを無条件にまず相手に分け与えることが愛の始まりであり本質なのだということが、作中に現れる半分のりんごが示すものだと言えます。

 そしてまた、前掲の晶馬のセリフ「僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんな分け合うんだ」というものも、このことを示しています。愛とは一方的なものではなく(たとえ始まりは一方的なものでも、本統にある愛は分かち合うことにあります)、一つものを分け合い、互いに与え合うものであるということです。

 全てを分かち合うことが、運命を受け入れ、またその不条理を克服することの正解であると気づいた晶馬は、象徴的に現れるピングドラム=愛を陽毬へ渡し、そしてそれは冠葉に与えられます。晶馬と陽毬から愛を受けとった冠葉は「ほんとうの光」を見つけることで、最期の時間を愛のために使うことができます。

 晶馬は、絶望的な運命の呪いを愛によって克服し、「愛による犠牲」を選択するという一つの人間の発展過程を描いた存在であると考えることができます(この解釈は、個人的好みとしていささか人間性に欠けるよう思われますが)。

 「輪るピングドラム」がある種の群像劇の体裁で進行しているのは、このように様々なタイプの人間を描くことで、広汎にタイプが分かれる人々に対し、自己投影のスクリーンを幅広く提供していくためなのかもしれません。

 

 

四、利他的な愛・犠牲になること・与えられるもの―荻野目萃果

 「輪るピングドラム」は、第十四話からの、病院での眞悧の登場(つまり、タナトスの精神による高倉兄妹への干渉の本格化)から明らかに物語のメイン軸とでも呼ぶべきものが切り替わっています。ここでは、この第一話-第十三話までを「第一部」第十四話-第二十四話までを「第二部」と呼ぶことにすると、「第一部」では、不気味な謎が仄めかされつつもキャラクターたちは日常の中で、自分の生活に明け暮れています。そして「第二部」は、眞悧と桃果という超自然的・超人間的な存在が現れ始め、また徐々にメインキャラクターたちに過去が明らかになっていくという構成になっており、眞悧vs.桃果(=タナトスvs.エロス)の大きな世界の流れに翻弄されながらも、キャラクターたちは、自分なりの答えを見つけていくことになります。この構造は、幾原邦彦の代表作「少女革命ウテナ」にも見られる物語の語りの手法であると、私は考えています。

*ちなみに、ウテナの場合は、ウテナ・アンシー・暁生の三人の主軸の物語に付随する形で、生徒会メンバーや関係者たちの物語が各々のかたちで進行していくことになります。

 

 ここまでの文章(前回の考察と、今回の一章-三章)では、上に記した、「第二部」についての記述がほとんどでしたが、本章では、「第一部」についてその物語的意味を読んでいきたいと思います。

 

 「第一部」は「第二部」に比べコメディ要素が多く、また多く時間を割かれている「萃果の暴走」部分については、「第二部」からその結末にかけて描かれる大きな物語の流れの中には、あまり関連してきません。となると、「第一部」は「第二部」という大きな主題が描かれるステージの土台としての意味や、テレビアニメシリーズとして体裁を整えるためのワンクール分、あるいは幾原邦彦の文法を視聴者に馴染ませるための助走距離でしかなかったのか? というような疑問が浮かび上がります。しかし、それは「第一部」の流れを丁寧に追うことで払拭することができる疑問です。ここで解釈の筋道をうまく立てるために、私は一つの補助線を引きます。それは、荻野目萃果を「輪るピングドラム」の主人公としてみなすことです

 

 主人公という言葉は、本来この作品には相応しくないものであると私は思います。なぜなら、作中では、メインキャラ全員の物語を調和に導くために、群像劇のかたちを以て物語が進行していくからです。物語中に現れるすべての出来事や人々の心中を、把握できるのは受け取り手である私たちのみであって、たとえ神のような立場で、現実世界の生者たちを操作していた眞悧も桃果も、「家族の命」という大きな価値を使って、冠葉・晶馬・真砂子他を翻弄していたにすぎません。つまりは、ラクターたちそれぞれの独立した物語が存在しているわけです。それぞれが、壁にぶつかり、それを乗り越え、そして新しい答えを見つけていくという、作話の基本構造をなぞっているものが、複数のあるというのが、「輪るピングドラム」の物語構造のベースであるといえます。

 

 では、「荻野目萃果を主人公とする」ということに、どういう意味があるのか。それは、彼女が作中において、もっとも劇的な進化を遂げている点にあります。もう少しほぐして言えば、彼女がもっとも大きな振れ幅において、「利己性(=自分勝手)を脱却して利他性(=誰かのために)を獲得した」ということが重要なのです。利己者から利他者へと変化することは、つまり自己愛という<愛を自我に差し向けている状態>を、他者愛、<愛を他者に向けて差し向ける状態>に移り変わることと同じです。

 

 萃果は「第一部」において、多蕗との恋愛成就を目指すクレイジーな女の子として描かれています。しかしこの裏側には、姉であり、また故人である桃果の遺した運命日記を代行することで桃果に成り代わり、そして死んだ桃果に囚われ続ける両親の間を歪んだ形で結びつけ直し、家族の形を再び取り戻すという目的がありました。ここでの愛は、やはり自己愛的です。彼女は、「多蕗のため」に行動するのではなく、「多蕗を自分に惚れさせるため」に行動します。「第一部」において過激なコメディ演出が為されているのは、ある意味、萃果の未熟さ、幼稚性を表現する意図があったのかもしれません。第一部で描かれているのは、利己的な愛を絶対視している、愛の発展程度として未熟な少女としての萃果なのです。

 

 そして第二部の冒頭では、晶馬と萃果の行き違いが発生します。萃果は、ゆりの助言から、自分が、「家族の再形成」とは全く無関係な形で現れた高倉晶馬という少年に対して恋心を抱いているのだということに気付かされます。そして彼女は、晶馬に対して「かわいい女の子」演じて気を惹こうしますが、晶馬の暗い経験と、過去の因縁によってあしらわれてしまいます。ここで彼女は、今まで自分がやってきた恋愛の手段(つまり利己性に由来する愛)の限界に衝突します。「かわいい、外面の良い私」を見せて相手に惚れさせようとする恋愛手段から脱却した彼女は、そののち、多蕗の謀略によって傷ついた高倉兄妹により沿ったときには、「だから私のためにいてほしい」という自分の本心を打ち明けています。そしてこれ以降は、しばしば晶馬に寄り添い、彼が過去の因縁から苦悩するときには彼を支えようとする、利他性を発揮し始めます

 

 さらに最終話近くでは、燃える日記を守るために自らの身で抱え込んだり、また運命の乗り換えの呪文を唱えることで生まれる犠牲・代償を甘受してもなお、陽毬を守ろうとします。ここではついに、萃果が利他的な愛を獲得したことが描かれます。彼女は利他愛の最終的な境地である自己犠牲にまで至っています。自己犠牲とは即ち、そこで命を投げ捨ててでも、誰かのために尽くすことです。自分が犠牲になってでも、そのひとのことを守りたいという心の在り方は、まさに究極の利他性・自己犠牲の精神であると言えるでしょう。

 

<補考-自己犠牲に意味はあるのか?>

 自己犠牲にはどのような意味、あるいは価値があるのでしょうか。たとえば愛するひとのために命を奉げたとして、その愛するひとは、自分が命を賭してまで守ったとしても、いつかは自分のことを忘れて、その人生を勝手に生きることになるかもしれません。自己犠牲の瞬間は、甘美な自己満足の時間を過ごすことになるでしょうが、それでも、死んでしまえば自我は失われ、私たちは存在をなくしてしまいます。そのあとには、愛するひとを見守るというようなことは、現実にはできないでしょう。

 

 それでは、この作品で自己犠牲を描いたことに、肯定的に描いたことにはどんな意味があったのでしょうか。本作でモチーフとしてよく使われる「銀河鉄道の夜」(宮沢賢治,1934)でも、愛のために死ぬひと、自己犠牲の美しさが描かれます。列車の中で「萃果」をうけとるひとたちはみな、実は自己犠牲の中で命を失ったひとたちでした。「輪るピングドラム」の冒頭そのことが語られています。

 

 うがった見方をすれば、どちらの作品も「自己犠牲を過剰に美化しているだけの、欺瞞の物語だ」という批判を浴びせられるかもしれません。物語の特権によって、本当はすばらしくともなんともないもの(一つの価値観からみたときの判断に過ぎませんが)を感動的に描いたり、意味あるもの、重大なものとして表現することは昔から行われてきたことでした。特定の為政者を評価するための文学作品や、戦争肯定を目的に作られた映画などがこれにあてはまります。果たして「輪るピングドラム」もそうした歪んだ物語と同列に語っていいものなのでしょうか。

 

 ここで私たちには、「自分の愛するひとのために死ぬことは善いことか?」という問いに直面することになります。哲学、とくに倫理学の文献を紐解けばこの問いに対する「答えのようなもの」は現れますが、理性、論理的に導かれた答えにそのまま従うことが、私たちの人生にとって絶対の答えにはなりえないこともまた事実です(倫理学を否定する意図はありません。人間の善を論理的に追及する試みは、人間の生活において失われてはならない態度でもあります)。

 

 上記の問いについてここで答えを示すことは当然できません。しかしここでは、「輪るピングドラム」が私たちに与えるものについて語ることはできます。一つは上の問いです。本作を読み解くことで、多くの人が自己犠牲の是非について疑問を持つことができます。詭弁のようでもありますが、「問いを持つ」ということそのものには、大きな価値があります。そして第二にあるのが、「自己犠牲の選択肢を見つける」ことです。是非はさておき、私たちは、「自己犠牲」を自分の選択肢の一つとして捉えることができるようになります。本当に、自分が愛していて、命を懸けたってまったく惜しくもないようなもの、生命以上の価値を世界に認めるという考えを、「輪るピングドラム」は与えることになります。もちろんここには、その犠牲が確実な自己決定によるものであることが前提とされます。自己犠牲の言葉は、その性質上長らく悪用されてきたものでもあるからです。

 

 本編に話を戻しましょう。自己犠牲を選んだ(選ぶことができた)萃果は、最終的には乗り換え後の世界で生きることを、未来を獲得することができました。作中では自己犠牲の末にはこのような報酬があるという描かれ方がされています。愛の中でも最大のものである自己犠牲を選んだ彼女には、乗り換えの犠牲になる運命が待っていたはずが、晶馬によって、それは回避させられることになり、そして彼女は陽毬とともに乗り換え後の世界に移行します

 

 ここにはどういった意味が読み取れるのか。第一部からの萃果の変化に注目してみましょう。彼女ははじめ利己的で、盲目的な愛に生きていました。しかし、多蕗への愛が幻想であり、自分が本当に恋心を抱いているのは晶馬であることに気付いた彼女は、彼の運命や過去の因縁と衝突しながらも、利他的な愛に目覚め、そして自己犠牲を選択するに至りました。その果てに彼女は、ひとつの調和した幸せを手に入れることになります。これは確かに、「報酬」として読むことも可能のようです。自らを犠牲にしてでも何かを成し遂げようとする行為に対して、素晴らしい褒美が与えられるという物語の構造は古くからよく使われるものです。「輪るピングドラム」が一つの大きなテーマとして掲げているものが、「他者愛の推奨」というメッセージであるとするならば、その極地である「自己犠牲とその先の報酬」の意味も肯定的なものである必要があります。やはり本編でも、乗り換え後の萃果に後悔や不幸せが待ち受けているようではありません。

 

 ここで見るべきなのは、萃果の自己犠牲は(言葉の原義的には)失敗に終わっているという点です。順当な自己犠牲であれば、本人は愛する人を守るために命を投げ出して、それゆえに死に、そして愛する人は守られる。ということが為されるはずですが、萃果は、その犠牲を晶馬が肩代わりすることで生き延びてしまっています。姉の桃果は自己犠牲を完了していますが、妹はそうはならなかったわけです。自己犠牲の究極である「運命の乗り換え」をやることはイコールで死を受け入れることになるはずです。自己犠牲を描くのならば、萃果は、「銀河鉄道の夜」のカムパネルラと同じように死ぬべきであったはずです。しかし萃果は死ななかった。いいかえれば、幾原邦彦は、荻野目萃果を殺すことができなかったわけです。そこに萃果の物語の意味があります。

 

 「輪るピングドラム」は愛についての物語でした。誰かを愛することで、愛されたひとはこの世界に生きていくことができるということ、そして愛の喪失が生み出す破壊の感情と対決していくことが本作の大きな主題であったといえるでしょう。そしてその愛の、究極的な献身性の発揮が「自己犠牲」であったわけです。幾原邦彦は、明らかにこの「自己犠牲」を肯定的に捉えようとしています。しかし「自己犠牲」の物語には悲劇的属性がついて回ります。もしもあのとき、犠牲になったのが、冠葉と萃果で、救われた世界に残るのが晶馬と陽毬であれば、確かに物語は悲劇となっていたでしょう。そして悲劇であれば、悲しい余韻だけを心にもたらす物語であれば、自己犠牲を善いものとして描くことができなかったし、「輪るピングドラム」は決してここまでの作品にはならなかった。たくさんのひとに受け入れられている、多くの物語の一つの特徴として、「未来への志向性が物語の終りに示される」という形式があります。それは、未来への希望が仄めかされた形の結末です。「輪るピングドラム」もその一種であると言えます。晶馬と冠葉という犠牲の上に、全てがなかった形で世界は救われましたが、彼らが妹と友人を愛し、彼女らのために世界を残したのだということは、確かに伝わっていて、忘れられることはないのだというエンディングが、本作のそれでした。

 

 物語におけるメッセージで、「何かを肯定する」ためには、それを選ぶことに意味がなければなりません。そして選んだことや、選んだものに意味がなければ、それは悲劇になってしまいます。幾原邦彦は、肯定の物語を描くために、自己犠牲に意味を与える必要があったのです。それを示すのがラストで陽毬が発見するメモであり、そして萃果の生存となります。

 

 晶馬と冠葉には、その存在を(たとえ運命の乗り換えによる、観念的な存在の削除を受けたとしても)、愛の受け取り手であった陽毬は忘れられることは決してないという救いが、そして他人に対しての自己犠牲を選ぶことのできた萃果には、(一時的にであれ)救われた世界と、そこで生きていくこと、陽毬との相互的な「愛」(もちろん「友愛」ですが、本作において情愛・恋愛・友愛を区別する必要はないと思われます)の世界を続けていくことが与えられます。これらを、自己犠牲の上の「報酬」であると表現するのは、ややひねくれた考えでしょう。こういった物語の結末が示しているものは、彼ら彼女らの自己犠牲に、「意味」が与えられたということなのです。この「意味」付与のために萃果は生き残ったのだと考えることができます。

 

 長くなりましたが、荻野目萃果の物語はこのように読むことができるのではないでしょうか。彼女は利己的な愛から利他的な愛を見つけるに至り、そして自己犠牲の末に、確かに、(意地悪な言い方をすれば物語上の真の神である幾原によって)その意味を与えられました。個人的には、彼女の物語について、これは作者の恣意が現れてしまった部分(しかしそこにこそ、物語の大きな意味が込められています)であるという感覚が否めませんでした。言葉を尽くそうとするほどに、ある種の強引な力が見えてくるような気がしますが、しかし裏を返せばそこにこそメッセージがあるわけです。「そう描かざるを得なかった」という視点を以て物語をみることによって、物語を飛び越えた、語り手の世界が見えてくるのかもしれません。

 

 

以下、予定中の考察。

五、損なわれた子どものかけら―ペンギンたち

 

『ハチワンダイバー』の哲学 ―将棋と泪と男と女―

 *『ハチワンダイバー』についての若干のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

はじめに

最近、アレが流行っております。ブームが発生しております。

アレとはなにか。勿論「将棋」です。

 

今、将棋がブームなんて言うとどこからか「500年前からずっとブームだよ‼」という叱責が聞こえてきそうですが、それでもやはり、脂が乗ってるという意味でも、ここ最近の藤井聡太六段ブーム」は将棋史的に見ても、かなりキているのではないでしょうか。

また藤井聡太六段が現役中学生にして最年少プロ入り(四段昇段)を果たすその前から、じわじわと棋界のキャラクターがTVにも取り上げられてきました。「ひふみん」加藤一二三九段)や「ハッシー」橋本崇載八段)などを筆頭に、将棋棋士たちの愉快なパーソナリティがメディアに取り上げられ始めるようになっています。

今将棋界は波に乗っていると言えるでしょう。

 

そしてまた、この空前の将棋ブームによって、以前にもましてスポットライトが当てられるようになった界隈が存在します。

それはどこか。将棋漫画界です。

 

「将棋漫画か……オジサン月下の棋士しか知らないや」

3月のライオンめっちゃ面白いよ?」

『5五の龍』をすこれ」

 

様々な声が聞こえてきます。古今東西に無数の将棋漫画が存在し、それらが名局・名シーンを生み出していることは言うまでもないことですが、ここに一つ、将棋の枠を超越し、漫画の歴史に刻み込むべき特異な漫画が存在します。

皆さまもうお気づきでしょう。ハチワンダイバーです。

 

 

ハチワンダイバー』とは

 『ハチワンダイバーとは、稀代の天才漫画家・柴田ヨクサルによって集英社週刊ヤングジャンプに2006-2014年の間において連載された将棋漫画です。ヤングジャンプという青年漫画の一流誌に文句なしの連載を続け、また、2008年にはテレビドラマシリーズにもなっています。

改めて唱えなおす必要もないほどの、大人気漫画です。全35巻。

ちなみに筆者のオールタイムベストマンガであり、人生のバイブルにもなっています。

 

 

いったい何がスゴイのか?

それでは『ハチワンダイバー』の世界に踏み込んでいきましょう。将棋に興味がなくてもまったく問題ありません。描かれているものは「人生」そのものです。あらすじをここで述べる必要さえありません。全ては将棋によって進行していきます。

 

ここに『ハチワンダイバー』が一目でわかる一つのページを紹介します。

 

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*ちなみにこのシーンですが、「小指切断を賭けて将棋を指す」という賭博黙示録のような闘いに勝利した主人公でしたが、直後に発狂した敗北者とリアルファイトせざるを得なくなるという状況。テーマであるはずの将棋を無視した、最高にクレイジーな展開となっております。説教してる人は味方ですが彼は漢気MAXの気狂いなので助けてくれません。この後、二十年間将棋しかしてこなかった無職の男(主人公)vs.チンピラ将棋指しガチファイト繰り広げられます。そして主人公が到達した新たな境地がこちらです。

 

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写真の見栄えはともかく、この漫画の特徴がお分かりになると思われます。そう、この漫画は、見開きを駆使しコマ割りのほとんど存在しない一面において、超ドデカ文字による魂の哲学が語られる漫画なのです。

 

「ああ……そういうやつ。いわゆる一種のシュール系ね」

そう思った方もいるのかもしれません。違います。ハチワンダイバー』の素晴らしい点はこの魂の哲学だけではありません。

 

実は、作者・柴田ヨクサル自身が将棋の手練れなのです。またそれに加え、将棋の二大戦法の内の一つ、「振り飛車」の使い手にして今も将棋界の重鎮として存在感を放つ鈴木大介九段」(連載当時は八段)の棋譜監修という要素。

この制作陣から放たれる本作の将棋パートの完成度は他のどの将棋漫画に比べて傑出しています。

将棋がわからなくとも盤面で起きていることがなんとなく理解できるというまるで魔法のような体験を我々は得られるのです。

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戦法の探り合いから……

 

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とっておきの一手まで!

*ちなみにここでは、主人公は秘密将棋結社に誘拐され、「将棋独立国家」なる将棋を指すことだけが人生の目的みたいなオッサンばかりが詰め込まれた地獄(あるいは天国)にぶち込まれるというエキセントリックな展開が広がります。タイガーマスクみたいですね。

 

さっきから鼻血を出して将棋を指している青年が主人公・スガタくんです。なぜスガタくんはこれほどまでにボロボロになっても戦うのか? スバリです。彼は、ぽっちゃりとデブの中間地点にいるような女の子「受け師さん」にベタ惚れで、彼女の復讐物語を遂げる手伝いのために命を懸けて戦います。

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*「受け師さん」こと中静そよ。巨乳メイドという男の欲望を具現化したような存在。カワイイ。ヒロインでありかつ、作中最強クラスの将棋指しでもあります。「受け」というのは将棋用語で相手の攻めを防御することです。

 

「受け師さん」の存在からも明らかになるように、この『ハチワンダイバー』は壮大な男女の愛の物語でもあります。物語終盤ではついに主人公スガタくんとヒロインの受け師さんの決戦が始まり、この勝負を『ハチワンダイバー』におけるベストバウトとする意見が識者の間では有力です。この勝負を的確に表現した漫画史に残る名言がこちらです。

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 *地球上から集められた最強の将棋指したちが集まる最大の将棋トーナメントの決勝戦で対決する二人と、それを見守る師匠たち。ちなみに三コマ目の人は棋譜監修の鈴木大介九段をモデルにした登場人物「鈴木大介八段」です。

 

さらに『ハチワンダイバー』の魅力について語るなら欠かせないものが数々の破壊的なキャラクターたちでしょう。

戦闘能力が異常に高いヤンホモ

将棋の妖精(妄想)とおはなしができる漫画家

RCサクセションを聴きながら違法手術を行う医師

男性器が苦手な男の娘忍者

喧嘩が強いので終始イキるが将棋はそこそこの拳法家など、とんでもなく個性的な人物たちが多数登場します。

 

 

最後に

ここまで語ってきた内容では、ただ単純に面白い漫画でしかないわけですが、この作品だけが持つ唯一の特性のようなものが、実は存在しています。

 

それは「将棋主義」とでも呼ぶような徹底した将棋至上の思想です。将棋のもつ面白さに憑りつかれた人間しか登場しないので、とんど全ての人間が将棋の勝敗に絶対の価値を置いています。

 

また漫画作品ということである程度、人間本性を劇化したドラマティックな展開も見られるわけですが、この作品においては前述の「魂の哲学」が登場するものの、それは決して物語の終着点ではありません。

 

主人公がなにか平安の境地に達してお終いというわけではなく、ここには、おそらく柴田ヨクサル氏が抱いており、またこの『ハチワンダイバー』に、密か(しかし明らかでもある)に込めた一つの野望が読み取れます。筆者もまた、その野望に中てられた読者の一人です。その野望とはなにか?

 

 

 

それはここでは伏せておきます。なぜなら今回の記事は、考察ではなく、いちファンによるダイレクトマーケティングだからです。ぜひ読んでみてください。

ハチワンダイバー』の物語があなたの感性に合致するならば、自ずから物語が発するメッセージを受け取ることになるでしょう。

 

ここまであえて言及しなかった、作中もっとも強い感情で将棋を愛した彼の言葉を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「輪るピングドラム」-運命の果実を一緒に食べるということ-

 

 

⋆この文章は、テレビアニメ「輪るピングドラム」を観終わった方に向けたものです。そして未だこれを観たことのない人に対して「輪るピングドラム」をおすすめする内容ではありませんネタバレや個人的見解を大いに含んだ内容になっています。ご注意ください。

 

 

はじめに

 「輪るピングドラム」は2011年7月-12月間において放送されたテレビアニメーションです。全二十四話。監督は幾原邦彦(「少女革命ウテナ」ほか)、製作スタジオはブレインズ・ベース(「デュラララ!!」ほか)。

 本作は象徴的な演出とストーリーが特徴の作品です。物語内における具体的な説明が作中にほとんど存在せず、特に終盤において、視聴者は自分で物語の意味を考えなければならないつくりになっています。最終話では、ほとんどのセリフが抽象的な言葉で構成されていることもあり、そのあいまいさに辟易とした視聴者もいたことでしょうが、本作のテーマは一貫として「愛」であり、そこに注目すれば、物語の意味・メッセージはおおむね解することができます。

 

 

 並行して進む「世界の運命」と「個人の運命」

 本作では、主題である「愛」を描くことについて、その背景には二つの運命、即ち「世界の運命」と「個人の運命」が存在します。具体的には、〈世界の運命=モモカとサネトシの対立・その結末〉、そして〈個人の運命=個々のキャラクターの目的・願い〉がそれぞれ該当することになります。

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*「輪るピングドラム」の登場人物たちの名前は本来、漢字表記の和名ですが、若干難読気味であるので本文では便宜上カタカナ表記で進行させていただきます。

 このように物語後半においては、「世界の破壊」をもくろむサネトシと、「世界の保護」を目的としサネトシを止めようとするモモカの二つの大きな流れ〈世界の運命〉に翻弄されながらも、それぞれの登場人物たちは〈個人の運命〉の成就にむけて行動します。

 しかし上の図を見て、とある疑問を持たれる方がいるかもしれません。それは 

「サネトシとモモカから伸びる矢印のみ、〈世界の運命〉として扱われているが、彼らもまた個人(人格をもつもの)であり、それを〈世界の運命〉と呼ぶのは、間違いではないだろうか」

という疑問です。確かに彼らにはキャラクター性があり、サネトシに至っては直接に現代の登場人物に対し深い干渉を行うわけですが、この物語においてサネトシとモモカを人間と呼ぶのは適切ではありません。これは彼らのキャラクター的属性(幽霊など)といったことではなく、彼らは世界の原理として存在するエロスとタナトスの象徴なのです。

 

 

「エロス」と「タナトス

 近代を代表する思想の巨頭としてフロイトの名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。オーストリア出身の心理学者、ジグムント・フロイト(1856-1939)の研究の有名なものに「エロス」と「タナトス」があります。

 フロイトは人間の心のエネルギー「欲動」には二つの種類があると考えました。それが「エロス」タナトスです。この二つには以下のような特徴があるとされます。

 

「エロス」……性愛を司るエネルギー。生命を維持させることや間の愛情、何かを作ったり守ったりする欲求の源泉となる。「生の欲動」。

タナトス……破壊や消滅を司るエネルギー。自身や近しい人の死、また何かを破壊したり、殺害したりしたいという欲求の源泉となる。「死の欲動

 

 これら二つの感情は、我々人間に常に存在するものとして考えられています。私たちは、いつも誰かを愛し、愛されたいと思いながら同時に、小さな不幸せと大きな苦痛の耐えない人生の終了(=死)を求め、また嫌いな物・人の破壊や殺害を望んでいます。フロイトは、戦争やテロなどの人間の残虐な行為は、このタナトスが強く発揮された人間が起こすものだと考えました。

 

  それでは、話を「輪るピングドラム」に戻しましょう。もう、お分かりかと思いますが、愛するものの為の自己犠牲をいとわない少女・モモカこそ、エロスの化身であり、対照的に、全ての破壊をもくろみ、世界を憎んでいるサネトシがタナトスの化身なのです。彼らは「十六年前」までは生命ある人間として存在していましたが、その時期からすでに、人間を超越した特徴を示しています。小学生の少女に過ぎないモモカは、「運命の乗り換え」という世界改変の超能力と、それに伴う犠牲を恐れない聖人的な精神を持ち、一方サネトシもまた若くしてテロ組織を指揮し、世界の破壊を現実に実行しようとしました。そして死後もまた、彼らは「二つのペンギン帽子」「幽霊・呪いのメタファ(隠喩。抽象的なものを具体的なもので代わりに表すこと。たとえ)として世界に存在し続け、作中舞台の現代では生存戦略として自分の意志=世界の運命を引き継ぐ役目を、登場人物に課そうとします。

 こういった背景や舞台装置の中で、本作のメッセージは隠されてしまい、一見奇妙な作品というところで評価を終えてしまうひとも少なからずいることでしょうが、ここでもう一度思い出してほしいのが本作の主題は、やはり「愛」であるということです。

 

 

脱線、しかし大切なこと

 本論からは離れますが、ここで述べておかねばならないことがあります。まず、エロスタナトスの対立は、決して善悪の対立ではないということです。それぞれの欲動はその性質上、善悪の属性を与えやすいものでありますが、善悪は我々人間の様々な価値観や損得勘定に左右されやすいものであります。エロス・タナトスの関係をそのまま善悪と当てはめ合うのは適切な考え方ではありません。

 例えば、「輪るピングドラム」作中には、「こどもブロイラー」と呼ばれる奇妙な施設が登場します(もちろんこれもメタファです。これについては後述します)。多くの方が印象とされるシーンだと思いますが、「企鵝の会」と改めた名でテロ活動をしていた高倉ケンザン(三兄妹の父)が息子のショウマに「こどもブロイラー」を否定する発言をしています。

 子供が「透明な存在」にされるというこの恐ろしい場所は確かに私たちの感覚からして「悪」ですが、タナトスに支配され世界の破壊・大量殺害を計画するケンザンもまた我々の感覚がそれを「悪」と呼ぶでしょう。一見「悪」的であるタナトスの虜となったケンザンもまた、世界の他の「悪」についてそれを許せないというような意識を持っているのです。つまりタナトスとは〈人間の行動を破壊・消滅の方向へと促す力〉のことであり、これ自体については善悪の評価をうけるものではないのです。善悪とは、人間の行いとして我々がそれを見る時に現れる指標であるといえます。ケンザンは「世界の浄化」を目的に、いわば強力かつ暴力的な正義感を抱いていました。彼の正義感・「悪」的な世界の間違いを正したいという欲求が、「エロス的」ではなくタナトス的」に発揮されたことが、彼がテロリズムに走った原因であったと言えます。

 

 

ピングドラム」とはなんだったのか

 作中でカンバとショウマ(とマサコ)が探し求めていたピングドラムですが、これは「愛」のメタファです。エロスの化身であるモモカの超能力「乗り換え」の鍵であり、「運命の果実」のことでもあるこれは、誰かから誰かへと与えられる愛情のことを意味しています。

 「ピングドラム=運命日記」のイメージを植え付けられた視聴者がもっとも混乱したシーンはおそらく、最終話のクライマックスでヒマリが手にした真っ赤な球体を「ピングドラム」と呼ぶ場面ではないでしょうか。「ピングドラムとは『乗り換え』を行うための装置である」という一元的なミスリードが本作を難解にしているわけですが、ピングドラムとは誰かを愛する感情そのものである」と考えることで我々はスムーズな理解を得られます。

 

 

 最も重要なキーワード

 物語が佳境に入るにつれて抽象的な言葉が飛び交うようになる本作でありますが、その中で最も重要なキーワードとして私が挙げたいのは、「選ばれること」です。「選ばれる」とはもちろん、愛の対象に選ばれることです。物語の中では、多くの人物が「選ばれなかったこと」による悲愴を経験しています。ここで一つの〈装置〉が私たちの記憶から蘇ります。そう、それは「選ばれなかった子供たち」が向かう終点、「こどもブロイラー」です。

 「こどもブロイラー」は「選ばれなかったこと(愛されなかったこと)」によって精神的にスポイルされてしまった子供のたちの運命、そのメタファであると言えます。「『かわいい』を消費されたヒマリ」「父親に『選ぶ家族を間違えた』と言われたカンバ」「両親が死んだ姉に囚われ続けているリンゴ」「芸術品としてしか自分を見てもらえなかったユリ」「才能の欠如により親からの愛を得られなかったタブキ」「選ばれなかった」わけです。

 それでは「選ばれなかった子供」は「透明な存在」になるしかないのだろうか、という疑問が浮かび上がります。「選ばれない」限り、そうなるほかありません。だからこそこの物語では「選ぶこと」の重要性が非常に丁寧に描かれています。ユリとタブキはモモカに、カンバはヒマリに、ヒマリはショウマに、それぞれ「選ばれた」ので、現代においても、傷を残しながらも幸せを享受するために生きることができます。

*ここに挙げたカンバ・リンゴ・ユリは「こどもブロイラー」には行っていませんが、カンバとユリは「こどもブロイラー」に行く前に「選ばれて」います(ユリの場合、肉体的な危険があったため、モモカの「乗り換え」による救済を受けます)。そしてリンゴですが、彼女は少し特殊で、「選ばれなかった」運命を「タブキとの恋の成就=モモカへの同一化=家族の絆の再生」という歪んだロジックで克服しようとしています。そしてそれが否定される前から、ショウマへの恋心を抱き始め、「選ばれなかったこと」による破滅的な傷害を上手く受け流し、それを自分の愛に没頭することで無視するという方法で、「こどもブロイラー」を回避します。彼女は「選ばれること(愛されること)」ではなく「愛すること」に人生を奉げられる特殊な能力を持っています。ここを鑑みるに、モモカの妹であるという血縁的特殊性と、最後の「呪文」を唱えるのが彼女であることに納得がいきます。

  

 

 運命の果実を一緒に食べるということ

 モモカの「乗り換え」の呪文は「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉でした。 作中に多用される「りんご」のイメージから考えれば、これは「旧約聖書」においてアダムとイヴが〈知恵の樹〉である「りんご」の実(聖書の解釈については諸説あり)を食べ、神に罰せられたという神話が思い浮かべられることでしょう。知識を得、新たなステージ立つと同時に人間はその罰を受けなければならないという構造は恣意的な「運命の乗り換え」によって世界(あるいは個人)の運命を左右するという行為には、犠牲が伴うという「乗り換え」の構造にも合致します。

 しかしここには、新たな別の解釈の糸口が存在しています。物語内において、ピングドラム」は「乗り換え」の装置のようなものでした。そして同時に「ピングドラム(=運命の果実)」には前述のように「誰かを愛する感情そのものである」という側面も存在します。「呪文」はそもそも「モモカの遺した一番大切な言葉」であったわけですから、ここには彼女の意志が現れます。「愛」である「運命の果実」を分け合い食べるということは、即ち、「互いに愛し合おう」というメッセージでもあるのです。

 そしてこの言葉を自ずから口にした人物が一人存在します。「箱」の中、自分のりんごをショウマに分け与えたカンバもまた、「運命の果実を一緒に食べよう」と言っています。

 

 

「箱の中」で起きたこと。運命の兄弟

 本編第23話(第24話が最終話)の最後に登場した「箱の中」。小さな牢獄のような形をしたつくりの二つの箱の中には、それぞれ幼少期のカンバとショウマが入れられています。二人とも衰弱した様子で、二人はここで初対面であることが判明しています。ここに至る経緯は、本編おいてほとんど語られることはありません。突然現れたこの「回想」には果たしてどうような意味があったのでしょうか。

 もちろんこのシーンで最も重要な箇所は、カンバが自分の箱にしかなかった「りんご」をショウマに無条件で分け与えるシーンです。このシーンでカンバは件のセリフ、「運命の果実を一緒に食べよう」を口にします。

「箱の中」のシーンでは幼きカンバとショウマの両方はひどく弱っていて、絶望的な心境にあったといえます。これは前述の「選ばれていない(愛されていない)」状態と近いものと考えられます

*物語内でのつじつまを考えれば、ともに実の親が「企鵝の会」としてテロ活動に勤しむ結果、十分な愛を得られなかったカンバとショウマは、この幼少期にともに「選ばれない状態」=〈「透明な存在」になる危機〉にあったと説明できるでしょう。あるいは、メタファとしての「箱」つまり、社会や文化が生み出す閉塞感・束縛・苦痛・不条理(サネトシが世界ごと破壊しようとしていたものはまさにこれでした)に、この兄弟もまた閉じ込められていたのかもしれません。

 重要なのは、カンバが見返りや損得といった合理性を放棄した形で「りんご」をショウマに分け与え、そして「一緒に食べた」ことです。「運命の果実」を二人で分け合うことは、前述の通り「互いに愛し合うこと」と同義です。二人は、互いに欠乏していた「愛=運命の果実=ピングドラム」を、互いを愛することで補いあうという生存戦略をとったのだと言えます。カンバがショウマを「選んでいた」わけです。

 

 

輪るピングドラム

 「輪る」とはいったい何をしめすのか。これは循環を意味します。回転する物体に伴い、「ピングドラム=愛」は人々の間を巡り続けます。カンバからショウマへ。ショウマからヒマリへ。ヒマリからカンバへ。そして物語のクライマックスでは、ショウマから、タナトス(死・破壊)の衝動に駆られ愛を忘れていた(=「迷子になっていた」)カンバへ。輪るピングドラム」とは「循環し人々を繋ぐ愛」のことなのです。

 そしてまた、ここにも重要なメッセージが隠されています。サネトシに惑わされタナトスの使者として活動していたカンバは、ショウマから分け与えられた「愛=ピングドラム」によって「本当の光」を見つけます。これが示すものはとは、タナトス(死・破壊)に支配された人間の心を救うのは愛(エロス)である》ということです破滅的観念希死念慮・破壊欲動など)に囚われた者の心を救い、世界や個人の破滅を防ぐ方法は「選んで、愛する」ことであるというのがこのアニメの最終的なメッセージであると言えるでしょう。

 

れを的確に示したセリフが本編最終話にあり、ここでそれを引用します。

「君と僕はあらかじめ失われたこどもだった。

でも世界中のほとんどのこどもたちは僕らといっしょだよ。

だからたった一度でもいい。

誰かの『愛してる』って言葉が必要だった。」〔タブキ〕

 

「たとえ運命がすべてを奪ったとしても、

愛されたこどもはきっと幸せを見つけられる。」〔ユリ〕

 

               「輪るピングドラム」第24話より タブキとユリのセリフ

 

 「乗り換え」が完了したあとの世界で、最愛の二人の兄を失った妹と、想い人を失った少女が、「選ばれない」に苦しむことはないでしょう。なぜなら、二人はすでに愛を受け取っているからです。

 

 

りんごはあなたの手の中に

 このアニメは最後、どこからかやってきた半分のりんごを誰かの両手が受け止めるシーンで締めくくられます。分けられた「運命の果実」を受け取ることは、「愛」を享受することに同義です。この先は様々な解釈が可能であると思われますが、私はやはり、の手はアニメを見ている我々の手であると考えたいのです。とはいえ、「アニメが我々を愛してくれている」というのはすこしズレているでしょう。この場合我々が受け取ったものは「愛することの価値」です。メッセージとして、「誰かを愛しなさい」といういわば訓示を受け取るわけです。その「愛」はきっと受け取る側の人を救うものになるでしょう。「選ばれる」ことで我々は生きていけるのです。そして「選んで、分け与えた愛」は「輪る」ことによって、我々に返ってくることになります。これこそが「愛の循環=輪るピングドラムであったのだと、ここで述べさせていただきます。

 

 

続き

pyhosceliss.hatenablog.com

 

 ぜひご一読ください。