趣味としての評論

趣味で評論・批評のマネゴトをします。題材はそのときの興味しだいです。

「ダリフラ」解読 ―父の世界から愛の世界へ―

 

 

*本記事にはテレビアニメダーリン・イン・ザ・フランキスネタバレ個人的考察が含まれます。ご注意ください。読んでいただける方については、当該作を視聴済みであることが期待されています。

 

このように父親に憧れるのは、人間は無力であり

その無力さのために生まれるものから保護される必要があるからなのである。 

 - ジグムント・フロイト*1

 

 

はじめに

 

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 「ダーリン・イン・ザ・フランキスは2018年1月-7月の間に放送された日本のテレビアニメーション作品です。製作はTRIGGERA-1 Picturesの二つのスタジオの共同で、監督は錦織敦史

 

【ものがたりのあらすじ】

 科学技術の発展の末に、人類は「マグマ燃料」と呼ばれる地下資源を発見し、それによって最高峰のテクノロジーの恩恵に浸っていた。しかし、マグマ燃料の使用とともに現れた「叫竜」という謎の巨大怪物によって文明への攻撃が始まる。

 人類を統治する組織・APEは叫竜に対抗するため、人型のロボット兵器「フランクス」を開発し、その搭乗者である二人の男女「パラサイト」の役割を、十代の少年少女たちに負わせた。

 パラサイトの一人である少年・「コード016」こと「ヒロ」が、赤い角をもつパラサイトの少女「コード002」(ゼロツー)に出会うところから、物語は始まる。

 

 舞台として〈SFロボットモノ〉のアイテムがずらり並べられた本作には、シンプルにSFストーリーを楽しみ、また青春群像劇として主人公たち13部隊のセンシティヴな心の動きを追いそれに共感するような心理を味わい、あるいはゼロツーという稀代のヒロインを愛でるなどと多種多様な楽しみ方が存在します。

 しかし、優れた物語が往々にしてそうであるように、この「ダリフラ」には明言されないかたちで示されるいくつかのテーマが存在します。そしてそれらのテーマは、決してアニメーションという虚構の世界に限定されるようなものではなく、現代世界の問題について言及したものになります。そうしたいくつかのテーマは「たとえ」の方法によってわたしたちの生きる意味を見つめ直す視点をわたしたちに差し向けるような作りになっています。

 「たとえ」の方法とはつまり、「比喩」のことです。現実の世界の物事について直接に説明や考えを言うのではなく、「物語」という手段によってそれに対するメッセージを送るのが、この比喩=「たとえ」の方法です。本作「ダリフラは、主人公である「コドモ」たちの視点から、彼らの成長を描くことで、そこに「今のわたしたちの生活や生き方」に対する「たとえ」がふんだんに、折り込まれています。

 本記事では、そのなかでも重要な部分のいくつかをピックアップして、解説していきます。この作業は、ある意味では「物語の意味」を引き出すことでもあります

 

 

与えられた価値

 

  物語のはじめあたりから半ばまで、もっとも強く描かれているのは、「パパ」(人類の統治機構・APEの幹部たち)の存在です。主人公たちは「コドモ」とよばれ、厳格な競争原理と情報統制のなかで「パラサイト」としての教育を受けています。「コドモたち=パラサイト」の存在価値は、「パパ」のために戦うことであり、彼らはまったく盲目的に、兵士として、戦闘ロボット「フランクス」に搭乗します。それが命を賭した戦いであることは彼らには問題ではありません。

 それについて言い表したセリフが第一話に登場します。

「君たちは選ばれた存在なのだ」そうパパは言った。

物心ついたときから、僕たちには番号がつけられ、

男女1組で動かすことができる

「フランクス」と呼ばれる兵器に乗って戦うことが

唯一の使命だと教えられた。

それに値しないコドモに存在価値などない

だからぼくは、ここを出て行くことに決めた。

-「ダーリン・イン・ザ・フランキス」第1話よりヒロのセリフ

  コドモたちは「パパ」に絶対の信頼を与えていて、彼らは「パパ」に認められることに全ての価値を見出しています。そしてそのロジックは、完全に「オトナたち」ひいてはその上にいる「パパ」による教育によって構築されています。コドモは、盲目的に戦うことだけ、「オトナたち」と「パパ」を叫竜から守ることだけに、心からの居場所を感じています。

 これは、ディストピア作品*2によくみられる構図です。〈支配者―被支配者(支配されるひと)〉の関係が、かなりの程度に、支配者よりに偏ったものになります。支配者は被支配者からの反逆を防ぐために、教育や情報を操作して、他の敵の存在を見せつけたり、一元的な価値だけを追求させようとします。

 「ダリフラ」では、この「パパ」への憧れと、敵である怪物「叫竜」の存在の見せつけによって、強烈な〈与えれらた価値〉の概念が主人公である「コドモ」たちに刷り込まれています。物語序盤において、コドモたちは、自分たちで見つけた価値ではなく、大人が支配する世界で通用しているだけの価値を与えられて、そのままれを受け入れて自分の存在価値としています

 そしてここで少し話を戻して、わたしたちは「たとえ」の方法のことを思い出す必要があります。「たとえ」の手法、すなわち比喩は、物語の中で起きていることを、現実世界に起きていることの鏡になっているのではないかと見直してみることで、発見することができます。

 ここでの「鏡」は、さきほど示された概念〈与えられた価値〉です。「自分で見つけた価値ではなく、大人が支配している世界で通用しているだけの価値を与えられて、そのままそれを受け入れること」は、今を生きるわたしたちの世界にも起きていることではないでしょうか。

 確かに社会において通用している価値は、直截的にわたしたちに素晴らしい目的や喜びを与えるものでもありますが、そういったものを至上の価値、これ以上ない最も素晴らしい価値と確定させて、それ以外をいくもの、それには合致しないものを「無価値・無意味」として切り捨てる風潮もやはり、現代社会に蔓延しているもののように思えます。

 権威ある学校にいくこと、有名な会社に就職することなど、それらも当然、「常識」的に価値あるものですが、それに失敗することに対して異常に恐れる人たちがいて、またそういった部分的な成功に到達できないものを見下したりする人たちが存在することは、今の社会に、〈与えられた価値〉の力が強まりすぎていることを示すものでしょう。

 「ダリフラ」では、コドモたちが「パパ」に押し付けられている〈与えられた価値〉に自分の存在価値をそのまま当てはめて、戦えないことや、役に立てないことによって直截に自分の価値を疑い始め、それに苦悩する姿を描いています。そしてこのアニメの世界で起きていることは、実際の世界でも起きていることだと言えます

 いまの社会において、〈与えられた価値〉をゲットすることができないで苦しむ人々は、〈与えられた価値〉しか知らず、それゆえに自分の存在の意味にさえも疑問をもつという、人間とってもっとも苦しい場所の一つに追いやられています。「ダリフラ」にはそういった今のわたしたちの姿を、「コドモ」たちの物語によって意図的に映し出している作品であるといえます。

 ただ、そう説明されれば、必ず次なる問いが現れることになります。そしてこの、〈与えられた価値〉の問題に言及するものは、その問いに答える責任があると言っても過言ではないでしょう。その問いとは、「どうすれば、わたしたちは〈与えられた価値〉を得られない苦しみから逃れられるのか?」というものです。もちろん「ダリフラ」もその答えをこのアニメなりに用意しています。それについては本記事でも、後述されることになります。

 

 

〈父〉の世界と革命の可能性

 さて、ここでわたしたちは、このダリフラというアニメの中で決定的な意味を持つ一つの言葉、キーワードに注目しなくてはなりません。それはもちろん「パパ」のこと、すなわち〈父〉という言葉のイメージと意味のことです。

 〈父〉とはなにか。そう問われると、実はなかなか簡単には答えることはできません。わたしたち人類の歴史の中において、〈父〉というものは、単なる生物学的な、有性生殖における精の提供、その雄側の存在という意味を、はるかに超えたものを見せつけてきます。

 わたしたち人類は〈父〉という言葉にどういう意味とイメージを与えてきたのでしょうか。それは「強力な力を持ち、私たちを愛して保護してくれる絶対的な存在」というものです。

 例示してみましょう。この地球上でもっとも大きな影響力を持った宗教のひとつとして、わたしたちはキリスト教を想像することができます。キリスト教では、唯一で絶対の存在であるところの神のことを、しばしば「父」と呼ぶことがあります。「なんでも知っていて、なんでもできて、絶対に正しくてわたしたちを守ってくれる神様」のことを、そういう絶対的な存在がいて、じぶんたちがそれの子供であると考えているような思想がキリスト教にはあります。

 いわゆる男尊女卑の感覚や、自分たちのリーダーは頼りがいのある強い男性であって欲しいと思う人々の意見というものは、基本的にこの〈父〉の観念が影響していると言えるかもしれません*3

 物語に話を戻しましょう。「ダリフラ」においても〈父〉は強力なその意味を発し続けています。前述のように、コドモたちは「パパ」に認められることを中心にして行動の規範(ルール)としています。「パパは褒めてくれるだろうか?」「パパの言うことに逆らってはいけない」。そうした言葉が「コドモ」たちから、たびたびに述べられることになります。

 「パパ」=〈父〉の強力な支配のもとに生きている彼らにとって、「パパ」=〈父〉の言葉は絶対であり、そしてパパ」が自分たちを愛してくれていることに、これ以上ない安心を得ることができるのです。逆に言えば、「パパ」=〈父〉に見捨てられること、その支配・愛の外側にはじき出されてしまうこと(〈与えられた価値〉に応えられないこと)に非常な恐怖を覚えることになります。

 こうした「パパ」=〈父〉を中心とした世界観から「ダリフラ」の物語はスタートします。その世界の状況を、〈父〉の世界と本記事では呼ぶことにします。〈父〉の世界において、〈父〉によって〈与えられた価値〉が絶対的な力を持っている。それが、「ダリフラ」の基本的な人間の立ち位置であると言うことができます。その構造を図説すると以下のようなものになります。

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 「ダリフラ」の世界には、社会的な階層として大きく三者のかたちでわけることができます。図の頂点に位置する「APE幹部」である①「パパ」たち。中間にあるのは主人公たちが②「オトナ」と呼び、いつかその地位につくことを期待し続けている人々。そして、「叫竜」――人類を攻撃するクリーチャーたちに対抗するための戦力として、「パパ」や「オトナ」たちに搾取されている③「コドモ」たち。この三者が、主に物語世界における定式化された役者たちであると言えます。

 これら三者には、それぞれ物語の意味のレべルにおける役割が存在します。図において、各階層の右側に書きだしたものがそれにあたります。「パパ」はさきほど説明したように、わたしたち人類において大きな意味を持つもの、①観念的・象徴的な意味としての〈父〉の役割を持ちます。「オトナ」には、「パパ」が創り出す構造と支配に甘んじて、②退廃的な享楽を貪る愚者・弱者としての役割が当てはめられます。「パパ」はじつのところほとんど実体・肉体を持たない仮想的なものであることが物語後半で示されます。また「オトナ」たちは不死の肉体と引き換えに生物学的去勢(つまり、生物として子孫を残す機能をなんらかの方法で駄目にして、子供が作れない生き物にしてしまうこと)の状況に陥っています。「パパ」と「オトナ」の二つの役割には、共通した大きな特徴があります。それは生殖の可能性がないことです。このことは象徴的に大きな意味をもたらします。

 叫竜に対抗しうる唯一の兵器「フランクス」を操縦する資格が、生殖機能を有することでした。つまり主人公たち、「コドモ」たちだけがダリフラ世界の中で生殖が可能であるわけです。

 「生殖」すなわち子供を産み出すことには大きな意味があります。自分たちの肉体を使って次世代を創り出すこと、それは自分とよく似たもの(あるいは全く似ていないもの)をもう一度この世界に生み出して、そしてそれにまた次なる世代を創り出させ、またさらに同じことが続くのを期待し祈るという、終りと始まりを無限に繰り返す人間の創造性の根源、その象徴です。

 生殖の象徴性については作中でも言及されています。

男女でこんなにからだつきがちがう。

やっぱりこのちがいには意味があるんだ。

〔中略〕

あのね、男の子と女の子は、からだを重ねることで

新しい命を生み出すことができるって書いてあって……。

それって、わたしたちにとって希望になると思うの。

 -ダーリン・イン・ザ・フランキス」第17話よりココロのセリフ

  創造性の本質とはすなわち「新たな変化」です。新しいもの、これまでになかったものが新しく現れたとき、わたしたちはそれを創造と呼びます。なぜ「コドモ」たちにだけ生殖の機能が残されていたのか。その答えをSF的設定の偶然だとするのは、あまりにも早計です。③創造から導かれる革命の資格。これこそが抑圧され搾取されていた「コドモ」たちに与えられた物語上の役割です。〈与えられた価値〉や〈父〉の世界から脱却するための革命、これを行うために、その資格があることを暗示するために、主人公たちには生殖能力が与えられたと考えることができます*4

 この革命の可能性については、「パパ」たちが、性の存在すなわち生殖の可能性を情報として伏せていたことからも示されます。「パパ」たちはさきほど図で示したような構造を保ち守るために、「コドモ」たちから性を奪っていました。男と女はフランクスを動かすためだけの人間のシステムに過ぎないとしました。そこに、新しい生命が創造される可能性をできる限り排除しました。ココロとミツルの関係が、男女の愛すなわち生殖可能性に到達するとその記憶を封じ込めるほどの徹底ぶりです*5

 「コドモ」たちに革命の可能性があったとしても、その実現は非常に困難なものです。一度作り上げられた高度な構造は、誰かがそれを不満に思ったり、虐げられているものがたくさんいたとしてもそうそう簡単に覆すことはできません。だからこそ、「ダリフラ」の物語、そのはじまりがあれほどまでに厳しい世界であったのだとも言えるでしょう。

 それでは、どうしてあの世界はあの最終回に至ることができたのか。どうして「パパ」たちによって作り出された構造、〈父〉の世界にああいった形の変革=革命が起き得たのか。その決定的な要素は創造と革命の可能性を持つ「コドモ」たちの中にありました。それが主人公たち13部隊であり、そしてその中でも異彩は放っていたヒロゼロツーです。

 

 

愛しあう「トリックスター」たち

 

 物語類型について語るとき、あるいは神話についてある種の定型を見出そうとするときにトリックスターという言葉がしばしば使われます。この「トリックスター」という言葉は、物語のなかの停滞や定まってしまった状況をかき乱したり、新しいものを引き込んだりするキャラクターのことを意味します。

  ダリフラ世界における「停滞・定まってしまった状況」とはもちろん前述の「パパ」中心の構造、〈父〉の世界のことです。そしてそれを打開することになる「トリックスター」が、主人公たちのなかでもとくに中心的に描かれることになるヒロとゼロツーであることは、物語を見ても明白であると言えます。

 それでは、そのトリックスターたちはどのようにして世界をかき乱したのか、〈父〉の世界を終わらせたのか。そしてなぜこの二人にそれが可能だったのか。次にこれらの問いについて議論を進めていきます。

 そもそもこの〈父〉の世界において、トリックスターでありうるということはすなわち革命の可能性を秘めている存在ということになります。先ほどの図から見れば「コドモ」たちは構造の中に取り込まれた被抑圧者・被搾取者であるわけですが、それゆえに革命の資格を持ち、また広義において彼らもトリックスターでありうるわけです。その可能性さえも圧し潰すのが構造であり〈父〉の世界だとも言えます。

 ここで主なるトリックスターとして示したのはヒロとゼロツーでした。彼らはそれぞれ他の「コドモ」たちとは明らかに異なる性質を持っています。特異であるのは、やはりヒロでしょう。彼は叫竜の姫のクローンであるゼロツーよりも、はるかに物語世界において異であり、トリックスターとして、革命可能性のもっとも大きなものを持った少年でした。

 ヒロの何が異質であるのか。彼の特別であるところとはいったい何なのか? 彼は「コドモ」たちのなかでも秀でた存在であるとして描かれていました。しかし、彼の特異性は「オトナ」たちが設定したような優秀さにあるわけではありません。それはどこまでも〈父〉の世界の優秀さであり、いわば都合のよさに回収されてしまう要素です。ヒロが特異でありまた異質であったのは、彼がどこまでも人間的な欲求に素直であったこと、〈父〉の世界の持つ抑圧への懐疑を強く持ち続けていた点、そして、それを同じ立場にある「コドモ」たちに伝播させることができた点です。

 ヒロは本来彼に与えられた名称である「コード016」から自分で名前を作り出して「ヒロ」としました。そして自分と同じようにして周囲のコドモたちに名前を与えていきます。戦闘兵器の中核パーツである「コドモ」たちに人間らしい名前を与えず、番号でそれらを認識させるのは、「パパ」及び「オトナ」たちの戦略です。そうしたものに子供らしい発想で、しかし一方では決定的な意味をもったかたちで反抗することができたのがヒロでした。 彼の名づけの戯れは、やがて「コドモ」たちに広がり彼以外のコドモたちも、互いに名付け合うようになっていきます*6

 ヒロは幼いころから、「コドモ」たちが「パパに見捨てられる」ことで養育施設から突然いなくなったり、あるいは赤い肌と角をもった少女(ゼロツー)が残虐な実験を受けていることなどの、物語世界の歪みを目にしていきました。普通のコドモたちがその歪みに触れながらも、ただ施設での暮らしを享受するしかないように、ヒロもまた、一人の弱いコドモとして歪みに疑いを持ちながらもただ生きていくしかありませんでした。

 めざといひとであれば、ここにもトリックスターが打ち壊すべき停滞が存在するのを見つけるでしょう。そう、ヒロは初めからトリックスターであったわけではありません。彼もまた停滞と閉塞の世界・〈父〉の世界に束縛されていました。ではヒロを救ったのは、トリックスターとして世界を変革させたのは誰なのか。その人物(なんとなくわかると思いますが)について言及する前に、わたしたちはもうひとつの停滞の世界について目を向けなければなりません。

 もうひとつの停滞、ヒロの停滞した世界と並行して語られるべき世界とは、もちろんゼロツーの停滞した世界です。彼女の場合、それは停滞と呼ぶのもおこがましいほどのすさまじい世界でした。叫竜の姫の細胞から生み出されたクローンである彼女はそもそも人間として扱われることのない場所で暮らしていました。監禁され、叫竜の性質を調査するための実験に日々身を焼かれています。彼女には、ほかの「コドモ」たちのようにともに暮らす仲間はいません。それどころか、彼女にはことばが与えられませんでした。もはや彼女には何かの意味を理解するだけの手段さえもなかったわけです。当然意味も分からないただ美しいだけのあの絵本にのみ猛烈に執着し、自分以外の存在に常に怯えて続ける生活のなかにいます。

 これらのことからもわかるよう、ゼロツーもまた、初めからトリックスターではありませんでした。彼女も停滞した世界の中で、激しい搾取を受ける弱い存在でしかなかったのです。彼女を救ったのは誰だったのか。彼女の停滞した世界を打ち壊したのは一体誰だったのか。

 この二人の幼いコドモたちはそれぞれが助けを必要としていました。彼らにもまたトリックスターが必要だったのです。そして彼らはトリックスターに出会うことになります。ヒロとゼロツーはお互いを見つけました。彼らは、それぞれ互いを自分を救いうるトリックスターとしてみなして世界を変革しえたのです。

 幼いヒロは、ゼロツーが施設の職員から大切な絵本を奪い返すようすを窓の外から見つけます。そのときの感情を彼は以下のように回想します。

僕にはなにも分からない。でも……

君は、君はあのとき、笑っていたから。

答えも問いも聞こえないこの世界で、僕には君が眩しく思えたんだ。

 -「ダーリン・イン・ザ・フランキス」第13話 ヒロのセリフ

 このヒロの感情をどのように読み解くのか。ここはかなり解釈の差異が現れるところであると思いますが、私はここを、停滞閉塞の〈父〉の世界において、自分と同じように世界に抵抗する存在を見つけた喜びであると読みました。幼いヒロにとってそれはこの上ない希望に見えたことでしょう。先行きがわからずとも、ただ彼女と共にここではないどこか遠くにいくこと。ヒロができたのはただそれだけでした。そしてたったそれだけのことが、ゼロツーにとってはとても大きな意味を持ちます。

 ゼロツーの人生のなかで、彼女に寄り添ったものはほとんど存在しませんでした。記憶のごく初期に、「母親のかわり」らしいものが現れますが、それさえも彼女に十分な愛、つまり彼女を肯定し受け入れる心の志向を与えることができなかったのです。そこで、ことばも持たない彼女に、それでもヒロは語りかけ、彼女に名前を与えます。

 そして「約束」。

うん。ここを出たらね。

僕もきみとずっといっしょにいたいもん。

そしたら僕は君の、ダーリンだ。

 - 「ダーリン・イン・ザ・フランキス」第13,15話より ヒロのセリフ

  本作の大きなテーマの一つである「愛」がここで示されます。ゼロツーはこの経験をもって、世界に追い求める価値があること――そしてそれは〈父〉に与えられたものではなく――自分が心から美しいと思えるもの、そうありたいと思えるものが存在することを知ります。

 ふたりはこうして、自分がこれまでに知っていた世界には、まったく別の可能性があることを知ります。それはある意味彼らにとって革命であり、世界を変革する一つの契機でもあるわけです。そしてその革命の鍵が「愛」であることが二人の過去のエピソード*7から示されます。この「愛」については後ほど、改めて述べ直すことになります。

  二人は「オトナ」たちによって記憶を消され、ヒロはゼロツーに関する記憶をほとんど失います。ゼロツーはわずかな記憶(「ダーリン」が自分をどこかに連れていってくれるという約束の記憶だけ)を残してヒロのことを忘れてしまいます。そして二人は、再び停滞と閉塞の世界=〈父〉の世界に陥ります。

 ヒロはフランクスに乗ることだけが「コドモ」である自分の役目だという〈父〉の世界の言葉を信じるようになります。そしてゼロツーの血を舐めたことを原因に、ゼロツー以外とのフランクスへの搭乗ができなくなった彼は、自分の不能に苦しむことになります。ゼロツーも同じように閉塞に陥ります。「ダーリン」と共に歩いていというその象徴的記憶だけを残した彼女は、その資格を得るために、「できるだけたくさんの叫竜を殺して人間になる」という幻想に執着し始めます。

 そして物語は二人が再び出会う場所(第1話)まで運ばれていきます。

 二人は初対面にも関わらずなぜか魅かれ合いました。ゼロツーは自分が人間になるための新しい「ダーリン」としてヒロを求め、その命を食いつぶそうとします。ヒロは不能である自分から脱却する――ただしそれは〈父〉の世界の〈与えられた価値〉でしかありません――ためのパートナーとしてゼロツーを追いかけます。

 やがて二人はフランクスを介して互いの深層意識を見つめあうことになります。自分たちの過去と、そのときに見つけた大切なものを思い出した彼らは、再び*8互いの閉塞を打ち破るトリックスターとしての役割を果たすことに成ります。

 二人は今度こそ二人の関係の始まりを、すなわち「愛」の関係を見つめ直します。そしてそのことが〈父〉の世界から抜けだすための鍵になると、ヒロは確信していました。それを示す言葉をここに引きましょう。

きっと行くところはあるよ。これから始めるんだ。

この世界はきっと俺たちが思うよりずっとずっと大きい。

あのときは敵わなかったけど、今度こそ、二人で外の世界を見よう。

ゼロツー。俺たちは二人で一人だ。

 -「ダーリン・イン・ザ・フランキス」第15話より ヒロのセリフ

  「外の世界」という言葉が、明らかに〈父〉の世界ではないどこかのことを指し示していることがわかります。これまでは一人だった彼らが、二人で、それも「愛」という特別な感情によって結びつくことで生み出されるものが、停滞・閉塞・抑圧の象徴である〈父〉の世界から脱却する決意だったわけです。

 そしてヒロとゼロツーがこのようにして愛を知ることで、その影響は13部隊の仲間たちにも伝播していくことになります。そのもっとも顕著な例がミツルとココロの二人であることは言うまでもありません。ヒロとゼロツーが「外の世界」を追い求めることが、そしてそれらに導かれる彼ら13部隊のメンバーたちが、物語世界における「トリックスター」の役割を担うことになります。定められていた世界の構造を転換させる者としてのはたらき、革命の可能性を秘めた彼らは、「愛」の概念に触れ、それを知り、葛藤を乗り越えていくことそのものが、〈父〉の世界をひっくり返すことに繋がっていきます。

 

 

〈父〉の世界との決別、そして「寄る辺なさ」

 

 さて、ここで物語世界の本筋からはなれたやや小難しい話を始めます。「ダリフラ」の物語を読み解くために、〈父〉の概念とそれが生み出す〈父〉の世界というものについて、そのほんとうの意味を理解しなおす必要があるからです。

 〈父〉の概念とわたしたち個々人のこころの関係について深い考察を行ったのは――当然ながら――当記事の筆者ではなく、少し古い時代を生きていた知者でした。

 その知者を、わたしたちはフロイトという名で知っています。ジグムント・フロイト(Sigmund Freud,1856-1939)。おおよそ100年前の時代を生きていたオーストリアの心理学者・精神分析家です。ここでは、彼が驚くべきほどの手広さをもって構築した人間理論のうちから〈父〉の世界に関係するものを簡単に紹介します。

 フロイトが示した人間の心の、重要な概念のひとつに「寄る辺なさ」と呼ばれるものがあります。この「寄る辺なさ」は元の言葉ではドイツ語の"Hilflosigkeit"を示すもので「身を寄せる場所がないこと、その不安」というイメージのある言葉です。フロイトはこの「寄る辺なさ」は、全ての人間が持つものであって、そして全ての人間がこの不安から逃れようとしているのだと考えました。

 人間は母体より産み落とされたときから、決してひとりで生きていくことはできません。赤ん坊は母親の保護と母乳がなくては死んでしまいます。フロイトは、この乳幼児の時期から、すでに人間は「寄る辺なさ」の不安にさいなまれているのだと考えました。そして子供がようやく「お父さん」と「お母さん」という二人の大人が自分を守り保護してくれる存在であることに気付き始めるころには、子供は「寄る辺なさ」から自分を守ってくれる存在としての「お父さん」を象徴的*9に認識しています。

 子供はここから「お父さん」を〈父〉としてイメージしているわけです。では自分を守ってくれる「お父さん」=〈父〉がいるのだからわたしたち人間はもう「寄る辺なさ」を克服することができるのでしょうか。残念ながらそれはできません。わたしたちは大きくなり世界に触れ、社会というものがどのように構築されているのか、人々がどのように生きているのかを知る過程で、「お父さん」がいつまでも〈父〉として最高の自分の保護者ではありえないことを知ります。つまりは、人生のさまざまな困難*10から、自分をいつも保護してくれる父親はいないということです。

 幼いころに経験した「お父さんもお母さんも出かけてしまった家のなかで一人残される不安」=「自分をいつまでもしっかりと守ってくれる何かはどこにもいない不安」は人間に常に付きまとうことになります。「寄る辺なさ」として。

 フロイトは次のように述べています。

そしてこの寄る辺なさの感情は、幼児の生からずっとつづいているだけではなく、運命の強大な力にたいする不安のために、絶えず維持されてきたのである。

フロイト「文化への不満」所収『幻想の未来/文化への不満』142頁

  余談ですがフロイト無神論者で、宗教を激しく批判する態度をとっていました。彼はこの「寄る辺なさ」の概念、この無上の不安に耐えられない人類が幻想的に生み出した〈父〉こそがすなわち宗教であり神であるとし、それに対抗するためには「文化」をより発達させなければならない。というような論文(引用元がそれ)を発表しています。

 フロイトの思想*11のごく一部をここに紹介しました。要約すれば、「人間はいつだって不安で、その不安から逃れたいがために、何かとてつもなく強くて自分を守ってくれるものを必要としているのだ」ということになります。その「とてつもなく強く自分を守ってくれるもの」が〈父〉であるわけです*12

 しかし残念ながら、わたしたちの現実生活の中には〈父〉のように見えるものはたくさんありますが、ほんとうに〈父〉としてわたしたちの期待に応えてくれるものは存在しません。そしてそれは、「ダリフラ」においても同じです。この物語において、〈父〉を演じていたもの=「パパ」たちは、ほんとうに「コドモ」たちを保護してくれる存在などではありませんでした。それでもたくさんの「コドモ」たちが「パパ」を信じ続けたこと、信じ続けざるを得なかったのは、この「寄る辺なさ」の苦しみから逃れるためでもあったわけです。

 「パパ」たちが幻想であったこと、彼らがほんとうに自分たちを守ってくれる存在ではなかったことをしった「コドモ」たちは「パパ」のいない世界で生きていくことになります。つまり〈父〉のいない世界で生きていくわけです。ただしそれは、自分たちの自由を手に入れた最高の世界というわけではありません。「パパ」は、〈父〉は必要だったからいたのです。〈与えられた価値〉を信じる必要・意味を失ったときなにが起こるのか。先ほどの述べた通り「コドモ」たちはそれに向き合うことになります。〈父〉を失った人類は、「寄る辺なさ」の不安に直面することになります。「コドモ」たちは「パパ」に見捨てられたのではないか。と度々その不安をあらわにしていましたが、今度こそ彼らはほんものの「寄る辺なさ」と一緒に生きていくことになります。

  その不安は様々な形で現れます。

どうすればいいですか。ヒロ。

僕はどうしたら……。

 

わからないよ。そんなの。

どうしたらいいのか、何が正しいのかなんて、

どうやったらわかるんだよ。

 ダーリン・イン・ザ・フランキス」第22話より ミツルとヒロのセリフ

  ココロの妊娠について、それをどのように受け止めるべきか答えてくれるものはいません。

拒絶されたってワケ? わたしたち……。

この星からも……?

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第22話より イクノのセリフ

  コドモたちは自給自足の生活さえもままならなくなります。「パパ」だけでなく地球からも拒絶されたのだと、コドモたちは思わざるを得ません。そうしたコドモたちの「寄る辺なさ」の不安をはっきりと言葉にしたのはゴローです。

「みんなの気持ち」なんて、嘘だ。

俺なんだ。選んだはずのこの世界を怖がっているのは、俺だ。

ダーリンインザフランキス」第22話より ゴローのセリフ

  物語の主人公たちは、どのようにしてこの「寄る辺なさ」に立ち向かっていったのでしょうか。

 

 

未来への志向・〈愛の世界〉へ

 

あたしたちは一歩一歩、確かめるように、この生活に没頭していった。

みんな、それぞれの自分を見つけられるように。

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第24話より イチゴのセリフ 

  「寄る辺なさ」に押し潰されないよう生きていくためにこどもたちが見つけものは「未来」それそのものでした。未来の可能性、それへの期待に心を向けること、いまないものに、不安そのものに目を向けるのではなく、これから自分たちが手にしていくであろうものに期待することが「寄る辺なさ」に打ちひしがれないための生き方であるとしたわけです。

 「寄る辺なさ」はフロイトがそう言ったように常にわたしたちのそばにあります

 それから無理に逃れようとしたり、あるいは〈父〉の仮説的な保護のもとでそれを否定したりしていては、いつか戻ってくる不安に心をむしばまれることになります。そうではなく「寄る辺なさ」を受け入れ、それを知ったうえで次の時間に目を向けること、新しく生まれてくる何かに期待すること。それこそが彼らの生きる道になりました。

 そして〈父〉が与えてくれなくなった、あるいは初めから与えてくれなかったもの、「愛」を、こどもたちは自分たちで与えあいました。ヒロとゼロツーが教えてくれたように、一方的な〈父〉の愛を求める態度から、一人の愛すべき相手を自分から愛するという能動的な愛を与える態度を見つけます*13

 こうして彼らは、〈父〉の世界から立ち去り、その〈与えられた価値〉の限界から脱却することができました。彼らは自分による〈価値〉を見つけ、そして自分の愛を誰かに与える人生を始めることになります。未来を創り上げていくというその方向にむかって。

 

 

 

 

 

ひそかに語られるもの、隠された主題

 

 以上でアニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」の基本的な部分は総括されることになります。「パパ」たちによる〈父〉の世界と〈与えられた価値〉に苦しむ「コドモ」たちがどのようにして自分たちの道を見つけるのか、そしてその営みにはどのような苦しみが待ち構えているのか。このことを描ききることに「ダリフラ」は見事に成功しています。これがこの物語の表のテーマです。分かりやすく示された主題です。見た人なら言葉で理解することはできなくとも、物語として感覚的にそれを受け止めることができるものです。

 しかし、ダリフラを観たひとであれば、この物語には何かそれ以上のものが確かにあるはずである、という感想を抱かざるをえません。明らかに余剰の物語が存在するからです。〈父〉の世界から脱却するだけの物語であれば不必要であったはずの要素が、このアニメにはありました。

 ここからはその余剰的な部分、どうしても不慣れな読み手が「蛇足」あるいは「意味不明」として片づけてしまうところに込められた意味について解読していきます。これらはおそらく、作り手の側からも発信されることはないでしょう。それだけこれから展開されるものである裏のテーマ=隠された主題は、どこまでも挑戦的なものあり、あるいは危険でもあり、そして革命的でもあるからです。

 

 

〈不死/進歩〉に対抗すること

 

  当然、ここでわたしたちがまな板の上に乗せるのは、物語の終盤に突如として現れた「VIRM」の存在です。彼らがなにものであるかは、彼らがその言葉をもって十分に説明しています。

我々は宇宙のあらゆる知性体を同化し肉体という殻を棄てさせてきた。

お前たち人間も、進化の段階を迎えるときだ。

悠久にわたって続く凪のような快楽。それを与えよう。

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第22話より VIRMのセリフ

 VIRMは長らく人類の頂点につき、「パパ」としてその正体を偽りながら人類の行く末を操作していました。VIRMはその高度な知性をもって人類を科学的・政治的にリードし、やがて地球上に肉体の不死を完成させました。「マグマ燃料」をふんだんに使うことで独占的・特権的な快楽を手にした人類は生殖を捨て去ります。ここまでの物語はVIRMによる誘導によってなされたものでした。VIRMはごく意図的に、人類から「愛」と「生命」(有限なものとしての命)を奪っていきます。それが彼らの目的であり、彼らのなすべき使命であるからです。

 彼らの目的とは、彼らが言い表したように「進化」とその末にある「不死」の自我を成立させること。そして今度こそあの「寄る辺なさ」から解き放たれた快楽だけの世界に高度な精神たちをいざなうことです。

 そう、彼らは人類を滅ぼしたり、宇宙の王者になろうとしているわけではありません。彼らは「それがいいことだと知っている」からそうするだけです。悲しみや苦しみを知って生きていくことができるほどの高度な生物のために、次の進化のステージである不死(終わりがないこと。無限)とそれに耐えるための無限の快楽の世界を用意してあげていただけなのです。

 そしてその過程において、人類は「愛」と「生命」を棄てなくてはならないだけなのです。それが「不死」と「凪のような快楽」の条件だから。

 VIRMのいうこの「凪のような快楽」を論理的に否定できるものはいません。人間はずっとそれを求めているからです(同時に拒み続けてもいます)。わたしたちは、苦しいことからは逃げたいと考えます。それが肉体的なものでも精神的なものでも、とにかくそれらを永遠に耐える続けることはできません。そして死。わたしたちは自我の消失であると想定されるこの「死」をいつも恐れています。それが今の人生の終りそのものであり、また自分の存在。思考や感覚そのものが終了することであると想像しているからです。それが怖いから宗教を発明して死後の世界を成立させました。そして科学を発展させ、医学に異常なまでに執着することで死ぬまでの時間をなんとか引き延ばそうとしています。

 わたしたちはこれまでずっとそうしてきたように、おそらくこれからもそうし続けていきます。そして科学技術が最高点に、ほんとうの目的である最終地点にたどり着くことができたとしたら、それが「不死」の技術であると想像することは難しくないはずです。

 わたしたち人類が、今も科学技術の進歩に著しい力を注いでいることは言うまでもありません。やがてそれが滅ぶことなく続いたとして、不死の精神が人間に可能になったとき、わたしたちは苦しみが存在することを許せなくなるでしょう。

 不死に至ること、つまり精神が終わらなくなるということは、わたしたちに無限の時間を与えるということと同義になります。無限の時間がある。「終わる」ということがなくなる世界の中にある人間が、自分が苦痛に苦しむ可能性を決して許しません。なぜなら、もしも無限の時間の中で、苦しみが信じられないほど長大な時間のなかで反復されるかもしれないと考えたら、それは死ぬことよりもはるかに恐ろしいことになるからです。

 ここまで述べてきたことは次のものを示すための前準備となります。つまりそれは、VIRMが差し出してきたものは、今の人類が求めているものとなんら変わりないということ、少なくとも今の人類が求めているものの延長線上には、VIRMの誘惑が存在するということです。 

 ここでわたしたちは、本記事の冒頭で述べた「たとえ」の手法に三度戻ってくることになります。「物語のなかで示されたものは、現実世界のなにかをたとえている。」というあの解釈手法の一つです。いわゆるメタファ。当然引き出すのはVIRMです。VIRMは、現実世界におけるなにをたとえしているのか。

 あれらの存在=進歩の先にある無限は、わたしたち現実世界の人類が抱え込んでいる「無限の進歩への期待」です。「わたしたち人類はつねに進歩し続け、新しいものを獲得し、そしていつか〈あれ〉を手にしなくてはならない」と考えるあの思想そのものです。

 この進歩の思想を〈不死/無限の進歩〉という要素で否定的に描くことには、意味があります。わたしたちが進歩を掲げるとき、その進歩の裏で苦しむ存在、ないがしろにされている何かが必ずあることに、しばしば私たちは目を背けがちです。

 わたしたちの人類・生物の基本的な性質として「よさを求める」というものがあります。それがあるからわたしたちは苦痛に満ちた「寄る辺ない」人生をなんとか生きていくことができるわけです。だからこそわたしたちは、かえってその「よさを求める」=〈無限の進歩〉に対して盲目的なまでに足を踏み入れてしまいます。

 便利に生きていくという〈よさ〉のために、多くの自然が破壊されています。より裕福になるという〈よさ〉のために、ひどい貧困に追いやられてしまう人々がいます。より強い立場にい続けるという〈よさ〉のために、大きな力で押し付けられる人々がいます。

 進歩・進化を否定的に描くということは、人間が当然の権利であるかのように考えていることのせいで、なにかを著しく損なっている事実を省みることを促す意図があるわけです。「わたしたちはずっとこうしてきたが、これからもこのようでいいのだろうか?」という疑問の声をはっきりと示す必要があるからこそ、「ダリフラ」の最後の敵は、どこまでも人間的な欲望から生まれた〈不死/進歩〉の象徴になったのだということができます。

  メタファの解読はここで小休止を挟むとして、なぜこどもたちがこのVIRMの示す進歩の世界を受け入れなかったのか、ということを物語の流れを解説するために示しておきます。それはVIRMが物語に登場するはるか前に、はっきりとしたかたちで示されていました。

比翼の鳥、と言うらしい。

その鳥は片方の翼しか持たず

雄と雌、つがいで寄り添わなければ

空を飛べない不完全な生き物。

だけど、私は、僕は、

そんな命のあり方を美しいと感じてしまったのだ。

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第15話より ヒロとゼロツーのセリフ

  そこには、わたしたちが日ごろから重視するような「ただしさ」の地平からの判断は存在しません。彼らは、それを「美しい」と思ったからそれを選んだにすぎません。それが思考停止であろうと、停滞であろうと、不完全なものたちが不完全なままに互いを補い合って生きていくという姿のその美しさそのものに魅了されたから、彼らは〈不死/進歩〉を拒み、不完全なまま、きちんと終わっていくことを選んだのです。

 これはわたしたちの〈不死/進歩〉の思想へのある種の返答のひとつでもあります。「いつまで進歩し続けるつもりですか?」という何者かの問いに対して、古来から連綿と受け継がれてきた愛の精神を提示すること。「わたしたちはこうして生きていき、そしてやがて死にます」と答えられること、そういう返答の可能性が存在することを、この物語は読み手に伝えています。

 

 

歴史の終りとしての「繰り返し」

 

  少し前に筆者が、やや誇張ともとれるように表現した「挑戦的かつ危険かつ革命的」な主題について語る準備がこのようにして整いました。

 〈不死/進歩〉は必ずしもわたしたち人類にとってふさわしいものではないということが示されたいま、それでは人類はどこへいくのかという問いがうちあげられることになります。

 「過剰な進歩はいけない。かと言って、ただ生き続けるだけなのでは人間として生きるのにはどうにも張り合いがない。それでは私たちは中庸に、ちょうどいいくらいに生き続けようじゃないか」くらいのことは簡単に言うことができます。おそらく地球に残されたこどもたちも、大人になって、愛し合って、残すべきものを残していって……という生活のなかでそそのように考えていたことでしょう。きっと今度こそは〈父〉に愛されながらも苦しめられる世界ではなく、そして独善的に地球をむさぼることもしないで。

 そのような牧歌的な、すべて丸く収まり肯定すべきものだけの世界が訪れるのだという世界観を、わたしたちは否定しなくてはなりません。なぜならこの「ダーリン・イン・ザ・フランキス」の隠された主題は「繰り返し」そのものだからです。この巨大な象徴は全てを反復させます。いいことも、悪いこともです。

 この物語で執拗に示されていたのは「愛」でした。愛によって次の命、あるいは次の愛を創造しそれを繋がらせていくこと*14が子供たちの使命であり、彼らが選んだ道です。そしてこの愛を選んだヒロとゼロツーを救うために、この二人の恋人たちはインカーネーション・「輪廻転生」をしてはるかさきの未来に再び巡り合うことになります。

 これをただのご都合主義的展開であると捉えるのは、読み手の怠慢でしょう。輪廻転生の観念、すなわち、一度失われたものが再び戻ってやってくること、そして、それが循環し繰り返されること。これが物語の最後に示された最も強烈なテーマです。そして「繰り返し」の先で出会う二人の背景において、「再び」高度な文明を獲得した世界の様子が垣間見せられています*15

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 再び〈父〉の世界が成立し直しているのだと考えるのは無粋だとしても、それが再び起きうる可能性については十分にはぐくまれた環境であることは推察されます。これほどの文明が再構築される時間、あの木の芽がこれほどの大木に成長するまでの時間を人類がふたたび経験したとして、そこにあの黎明期の人類を支えた13部隊の彼らの精神がいまも完全に受け継がれているとは言いがたいでしょう。しかし一方で、「コドモ」と「パパ」の戦い、人類とVIRMの戦いの象徴であるあの桜の木(ゼロツーの肉体が崩壊したあと、そこから芽生えてきたもの)がこの時代においても丁寧に保護されていることは、彼らの精神が受け継がれていることの暗示であると読むことも可能です。

 ハッピーエンドの呼吸を損なわないかたちであることが物語のある種の美しさを生み出すことを前提にしても、ここでダリフラは、一度否定したはずの進歩、その象徴である文明をここに再登場させています。ここにはやはり確かに、「繰り返し」のモチーフが現れているのです。それが人類にとって良いものであろうと悪いものであろうと関わりなく、愛も進歩も繰り返すことになるのだと物語は語っています。

 そしてこの「繰り返し」についてもっとも直截的に語ったのは、VIRMでした。

魂とよばれるものたちよ。また古き肉体の檻へと還るのか。

また苦しみや悲しみという感情に縛られるというのか。

我らVIRMは滅びはしない。進化の先で、

また相まみえることになるだろう。

この宇宙に「いのち」というゆらぎがある限り。

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第24話より VIRMのセリフ

 「再び」の語法、何度も「また」という言葉を使ってVIRMはそう語ります。不死を棄てた「いのち」がある限り、それはゆらぐものであるということ。人類が苦しみと悲しみと終わりを前提に生きていく限り、何度でもVIRMの誘いに、進歩の可能性に心奪われるのだと、彼らは分かっていました。

 このようにして象徴的に示される「繰り返し」。それが明らかになったいま、このテーマは何を示すのか。という問いが当然投げかけられることになります。

 それは、歴史が、人間のすべてが、いつかくる終わりまで永遠に繰り返されることになる。という広大な主題です。

 追い求められる進歩。なにげない、しかし欠かせない愛。「寄る辺なさ」の苦痛。大きな戦い。破滅。そして新たなる創造。これらすべてを一個一個の人間が当事の視点から経験することが積み重ねられるのだとしても、やがてそれらを概観するときがきたとき、それははるか昔から繰り返され続けてきた出来事でしかないということです。

 いのちというもの、限りある時間の中でしか存在できないと想定される精神たちが、そのように存在するかぎり、何度も同じ過ちと繰り返し、そして何度も同じ美しさを生み出し続けるのだという、究極の歴史観こそが、この物語がほんとうの最後に示したものでした。

 そこには善も悪もありません。もはや「人間は愚かである」という評価さえ陳腐なものになってしまいます。それが人間であり、その中で我々は生きているのだ。ということ。何か決定的な事象が起きて、わたしたちはそのいちいちに感動し、あるいは恐怖するわけですが、そうしたことは過去何度も繰り返されてきたことであり、同時にこの先人類が滅ぶまで何度も繰り返されるものでしかない。という認識を「ダリフラ」は提示ています。

 このことには、これ以上の意味はないといえるでしょう。この隠された主題にはなんの教訓も感銘も存在しません。「人間って、いのちって、そういうもんですよ」とただ語られるだけです。

 さて、物語が示したものが無意味であったとしても、わたしたちの人生は無意味でありながら無意味であるわけにはいきません。わたしたちはこの物語から何かを受け取ります。この「繰り返し」の主題から受けとるものは、はたして人類への絶望、あるいは人生の無為さそのものといったものなのでしょうか。

 忘れてはならないのは、このやるせない命題は「隠された主題」であり、すなわち裏のテーマであるということです。ものごとには裏と表があります。その関係は単純に裏こそが本当のことである、というものではありません。表裏関係の神髄は裏も表もほんとうのことであるというものです。この物語の表には「愛」そして「未来への志向」の二つが主題として掲げられていました。

 これを見直したとき、裏のテーマは少しだけ表情を変えます。裏だけで見つめたとき、物語は冷たく無意味なものを示しているようにしか見えません。しかし表で示された「愛」と「未来」の美しさを知ると「繰り返し」のやるせない語りは、一つの問いへと姿を変えることになります。それは読み手の内部で行われる変性です。問いはごく短いものですが、答えるには難しいものになります。そのこと自体が物語の魅力でもあります。

 ここではその問いを示すことをしません。その理由も、筆者はもはや語りません。ただ一つ、物語の中で現れた言葉を引いて本記事の終りとさせていただきます。長い文章を読んでいただき大変うれしく思います。ここまでいきなり飛ばして読んだひとは「ひそかに語られるもの」の章から読み直してください。

 

 お付き合いいただきありがとうございました。

 

 

 

そして新たな物語――

 

ダーリン・イン・ザ・フランキス」第24話より 物語の最後に示された言葉

 

*1:フロイト「幻想の未来」 所収『幻想の未来/文化への不満』(フロイト, 中山元 訳, 光文社, 2007,50頁)

*2:ディストピアとは、創作技法においてその作品舞台を、支配的で、強烈な抑圧のもとにある人間社会を描く形式を示す言葉です。絶対的な支配者に押し込められた弱い人々を描くことが、よくある主題となります。作品例として『1984』〔オーウェル,1948〕などがあります。

*3:少しこの話題を深く掘り下げるとなると、この〈父〉の観念は西洋・欧米の感覚が大きく影響していると言えます。欧米を中心としたキリスト教圏では、神は唯一絶対の存在(唯一神)であるという意識は普遍的で、確かに上記の〈父〉の観念はわかりやすいものであると想像できますが、わたしたちのように、アジアに、そして日本で生きてきた人間にとって、〈父〉のイメージの強さは分からなくもないがしかし神がどうとかというのはあまりピンとこない話であるのも事実です。実際私たち日本人は〈神〉として、「人間よりも強く、不思議な場所にいる上位の存在」を想像するとき、「八百万の神」がそうであるように多数の神々の物語を思い浮かべます。あるいは、様々な種類と階級に分類された仏たちの姿を思い浮かべます。強い神様もいれば弱い神様もいるし、優しいのもいれば怖いのもいるというのが、日本的な神の感覚の一つであるともいえるでしょう。神話のレベルから〈父〉が強力でありすぎないこともそうですし(日本神話における太陽神、神々の世界の統治者は天照大神とよばれ、くしくも女神、すなわち〈母〉のポジションにあります)、実際の家庭のレベルでも、お父さんよりもお母さんの方が強いことは少なくないのでないでしょうか。後述の心理学者フロイトはこの西洋的な〈父〉の観念を非常に重視したひとでしたが、日本の研究者たちが彼の理論に触れるとき、しばしばフロイトの〈父〉を中心とした理論は日本人の心にはうまく対応しないのではないかと考えています。現代では、西洋の感覚というのはこの日本及びアジアにもたくさん入ってきているので、あるいは〈父〉の観念、その感覚はよくわかるという方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも、「文化」というものが、どれだけ長い時間わたしたちとともにあって、わたしたちの生活に、こころのはたらきに深く結びついているのかというのは、簡単には捨てることのできない話でもあります。

*4:突然「革命」という言葉が登場したことに、ある種の読み手は不可解さ、あるいは警戒を示すのかもしれません。「革命」の概念は現代を生きる私たちにとって肯定的かつ否定的に捉えなくてならない、とても繊細なものです。わたしたちの生活、すなわち人間の営為にはどうしても「よくない停滞」というものが現れます。それは人間の極めて利己的である性質から生まれるもので、誤解を恐れずに言うならば、人類が滅ぶまでそれは続きます。そういった「よくない停滞」を打ち壊すこと、ある種の正しさに支持された歪みを別の正しさで否定する全体的な行為を、ここでは「革命」と呼んでいます。一つの「革命」が世界を完璧な調和に導くというのは幻想でしかありませんが、人類の歴史は、ある意味この「革命」の連続でした。「昔はそうでもよかった」を何度も打ち壊し、古い「革命」を新しい「革命」が乗り越えてきたという事実を、忘れることはできません。

*5:実はここには、物語の流れとして穴があります。「パパ」たちが「コドモ」たちを徹底管理して、その記憶にまで関与できるというのなら、ココロの妊娠もまた「適切な処置」のもと途中で終了させられるべきでした。しかし彼女は物語終盤においてミツルとの間の子を出産します。ここにはある種の不自然が発生しているわけですが、これを見逃さざるを得なかったことに、ここで一つの理由が想定されます。それは象徴としての創造、つまり愛と出産という重大な出来事をどうしても主人公たちの側から、長い時間で受け取り手に見つめさせたいという作り手の意図があるというものです。最終回になって「大人」になった「コドモ」たちが、次世代を「こども」を生み出した姿をさらりと描写するのでは、絶対に不足であると作者が考えたのだろう、と推測できます。序盤から示され続けていたミツルとココロの恋が最終回で出産にまで至る過程、これが本記事のような言葉遊びを介さずとも、たいへん美しい物語になっていることは言うまでもありません。

*6:本編第18話で「コード196」に「イクノ」の名前を与えたのがイチゴであることが示されます。

*7:本編第13,14,15話参照。

*8:この「再び」という概念を少しここで掘り下げてみましょう。「再び」とはすなわち「同じことが二度起こる」ことを意味します。すなわち反復です。この「反復」=「もう一度」には私たちが普段意識している以上の象徴的な意味があります。それは「再び起ったこと」には意味があるというものです。一度限りの出来事について、わたしたちはそれをしばしば、偶然の出来事であると考えます。偶然に何かが起こった。それはたまたまでのことであり、因果関係から導かれる理由はあったとしても、そこに深い意味はない。わたしたちは普通そういう風に考えることが多いでしょう。まったく気にかけるでもない出来事が、たまたま一度自分の目の前に現れたとしてもそれは自分にとって大きな意味を持つことはありません。ただし「二度目」、「再び」。それが起こったとき、それは少し違う意味を持ち始めます。なにか同じことが繰り返されたとき、わたしたちはそのことについて、何か意味があるのではないかと考えざるを得ません。なぜなら自分が「これはこないだと同じできことである」とそれをみなすとき、つまり「おなじこと」という極めて特殊な類型の判断が行われるとき、それがまったくの偶然であると考えるよりは、それになんらかの示唆・意図が含まれていると考えるほうが自然であるからです。その意味を示す主体は自分かもしれませんし他人あるいは、もっと大きななにかであるかもしれません。ヒロとゼロツーにとって「再び出会い、再び互いの閉塞を打ち破った」というこの感覚は、強大な意味を与えるものになったのではないでしょうか。この「再び」の概念に注目した哲学者は、次のような言葉を記しています。「何かが二度繰り返されるときにはじめて『謎』は生成する。」内田樹,『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』, 2004, 海鳥社, 75-76頁)

*9:本記事ではこの「象徴」という言葉を「本人が論理的に理解しているわけではないが、そのひとにとって強力な意味を持つイメージ」というような意味でも使っています。

*10:フロイトはこれを「運命」と呼びました。

*11:少し深入りした話。本記事の読者にフロイトの思想に少しでも触れたことのある方があれば、次のような疑問を持たれるかもしれません。「ダリフラという物語をフロイトを使って解釈するなら、なぜエディプス・コンプレックスの物語すなわち父殺しの物語としてこれを読まないのか」というものです。フロイトに明るくない読者のために言葉を割くとすると次のような説明になります。「エディプス(またはオイディプス)・コンプレックス」とは幼児期の男児が、母親を自分の愛の対象に選んで、同時にその恋敵になる父親に対して、憧れや愛というプラスの感情と、父親が死ねば母親は自分のものになるのにというマイナスの感情の両方を抱くとされるフロイト心理学の代表的な理論の一つです。女の子の場合は性別が置き換えられて、「エレクトラ・コンプレックス」(こちらはフロイトのお弟子のC.G.ユングの理論)というものになるとされます。フロイトは、この「エディコン」(ふつうはこんな略し方をしません。よそで使うと恥をかきます)によって子供が葛藤を経験し、やがて父の死を願うことをやめ、父を受け入れ、父と同じような男になろうとすることで人間としての自立が始まるのだと考えました。この「エディコン」の理論をつかった物語解釈は主に文学の領域で「父殺し」の物語としてよく行われていた(いる)ようなのですが、ここでは使っていません。理由は二つあります。まず筆者が「エディコン」をしっかり理解できているわけではないという技術的な理由です。そしてもう一つ。「ダリフラ」は父殺しの罪の物語ではないからです。ダリフラで殺される(排除される)父は、「エディコン」で想定されるような父ではなく、人間が「寄る辺なさ」からどうしても要請してしまうあの〈父〉であるほうが物語の解釈として美しいと筆者が感じたからです。ダリフラは父殺しの物語ではありません。「エディプス・コンプレックス」の物語でもありません。この物語は「寄る辺なさ」と共にどのようにして生きていくべきかということ、そして人類のゆくさきとしてどういう未来が存在するのかということを、強烈な視線から描いた作品になりました。筆者の解釈からやや傲慢なことを言わせてもらうのだとすれば、次のような言葉を述べることになります。個人の自立などという「小さな」主題は、この物語の主たる意味の席に座ることはないでしょう。

*12:〈父〉は特定の人間あるいは人間集団に限定されるわけではありません。ときにそれは、宗教であり、国家であり、主義であり、思想でありました。さまざまな〈父〉がはるか昔から現代にかけてその力を栄えさせては、滅んでいったのだと考えることもできます。

*13:ここで、「ダリフラ」が危険な綱渡りをしていることを示唆する必要があります。それはイクノの扱いすなわち同性愛の問題です。ダリフラはかなり意図的に異性愛を持ち上げるかたちの物語を描いています。命を生み出すことに強いメタファの役割を担わせ、そしてフランクスに乗るというメカニカルな設定部分にさえ異性間の性比喩を含ませることで、同性愛者であるイクノの心理をさんざんにかき乱しています。しかしそれは後述される〈不死性/無限の進歩〉に対抗するためには欠かせない要素でした。イクノの、イチゴへの想いは成就されることがありませんでしたが、この物語は決してヘテロセクシャル異性愛)だけを礼賛する物語ではありません。もしそうであれば、この物語にはイクノは登場しません。その必要がないからです。ヘテロだけを至上の恋愛として叩き上げるための物語であれほどにイクノの苦しみを描く意味はありません。ダリフラの物語において彼女の心理を描く過程があったのは、彼女が恋をあきらめるという物語があったのは、現代において愛を描くうえで、彼女のような苦しみがあることを語らないことこそが欺瞞であるからです。わたしたちはようやくいまの時代になって、異性愛以外の恋愛のかたちを「自由」というある意味でとても政治的で、そしてある意味で愚かしささえある文脈からそれを認めようとし始めています。現代という時代。それに合わせて物語を描くうえで、そして隠された主題である〈不死性/無限の進歩〉に対抗するため物語を描くうえで、イクノと同性愛をあのような位置に置かざるを得なかったのではないでしょうか。その意味で、「ダリフラ」は綱渡りをしています。非常に難しい場所を歩いています。ただ筆者の言いたいことしてあるのが、この物語を容易にヘテロ優位の世界観で描かれたステレオタイプの物語であるとみなすのは、思慮に欠ける行いである、というものです。

*14:「次の命、次の愛」という言葉にあるいはヘテロセクシャルの観点を見出す読者がいることを懸念してここに備考します。確かに命の再生産と継承はヘテロセクシャルに中心的に与えられた機能ではありますが、「愛」の再生産と継承に関しては、それはまったく全ての精神に開かれている概念です。わたしたちは、それが同性であろうと異性であろうと家族であろうと他人であろうと自分自身であろうと、あるいは人間以外の何かであろうとも、それによって自分が愛されていたときの経験を以て、他者を愛することを可能とします。誰にも愛されず孤独に生きているもの(その自我がどのように保たれているのかは不明ですが)が、突然に何かを愛し始めること、与える愛・能動的な愛に目覚めることは非常に難しいことのように思われます。この愛の連鎖には性志向の問題が関わらないとまでは言いませんが、ヘテロのみに開かれた世界であるわけでは決してありません。与えられた愛を以て、適切に誰かに愛を与えうるのだという主題は、フロイトによる「欲動」の理論においても語られたものでもあります(フロイトナルシシズム入門」所収『エロス論集』中山元 訳, 1997年, 筑摩書房を参照)。

*15:ティールは異なるものの、「暗い空のなかに高層建築物が乱立する」という姿は、くしくもかつて「オトナたち」が過ごしていた居住空間に類似しています。

2018年・読書の旅

 

 *ネタバレ注意です。

 

初めに

 皆さま、平成最後の年・2019年をいかがお過ごしでしょうか。わたしは引き伸ばしてきたモラトリアムがついに終了するという悲劇にさいなまれております。今朝も社会から排他される夢を見ました。助けてください。

 

  さて今回は、週に一冊読み終えれたら上等、というレベルの遅読家である私が、2018年にちゃんと読み終えることができた本の、その概要と感想、面白さを列挙します。当該年は、薄い本を読んで数を稼いだりしてたので、去年よりはその数が増えています。ちなみにその年に読んだものは全部で44作品。書籍として単独に出版されたものは43冊でした(つまり、リストには雑誌に収録された短編などが含まれています)。

 

【面白さ】を以下の基準でランク付けします。

  A. 最高程度に、語りたくなるくらい面白い。

  B. 文句なしに面白い。

  C. まあ面白い。読んで損はない。

  D. 懸念もあるがよし。読み返すことはない。

  E. 読むに費やした時間を少し後悔するレベル。お勧めはできない。

*評価は文学やものの価値について一切の知識を持たない素人の直感によるものであることをご考慮いただければ幸いです。また一部のものについては、「面白さ」という表現が相応しくないものがあり、それについては評価をしておりません。

 

それでは拙評をお楽しみください。

 

目次

1『土の中の子供』中村文則

2『職業としての政治』M.ヴェーバー,脇圭平 訳

3『小僧の神様・城の崎にて』志賀直哉

4『静かな生活』大江健三郎

5『新しい文学のために』大江健三郎

6『象』カーヴァー,村上春樹

7『業物語西尾維新

8『結物語西尾維新

9「静かに、ねぇ、静かに」本谷有希子

10『撫物語西尾維新

11『族長の秋 他6篇』ガルシア・マルケス,鼓直 他訳

12『新編 銀河鉄道の夜宮沢賢治

13『車輪の下』ヘッセ,実吉捷郎 訳

14『愛について語るときに我々の語ること』カーヴァー,村上春樹

15『日本的ナルシシズムの罪』堀有伸

16『がちナショナリズム香山リカ

17『カンガルー日和村上春樹

18『暗夜行路』志賀直哉

19『月と六ペンス』モーム,行方昭夫訳

20『若きウェルテルの悩み』ゲーテ,高橋義孝

21『ねじまき鳥クロニクル村上春樹

22「三つの短い話」村上春樹

23『民族とナショナリズム』E.ゲルナー,加藤節 監訳

24『美しい星』三島由紀夫

25『新訂 福翁自伝福沢諭吉, 富田正文 校訂

26『斜陽』太宰治

27ナイン・ストーリーズサリンジャー,野崎孝

28『もういちど村上春樹にご用心』内田樹

29忍物語西尾維新

30ダンス・ダンス・ダンス村上春樹

31象の消滅村上春樹

32銀河ヒッチハイク・ガイド』 D.アダムス,風見潤  訳

33コレラの時代の愛ガルシア・マルケス,木村榮一

34『ある流刑地の話』フランツ・カフカ, 本野亨一 訳

35『コンプレックス』河合隼雄

36『伝奇集』ボルヘス,鼓直

37『ナショナリズムは悪なのか』茅野稔人

38「裏山の凄い猿」舞城王太郎

39『罪と罰ドストエフスキー,工藤精一郎 訳

40『ニーチェ ニヒリズムを生きる』長島義道

41『狭き門』ジッド,山内義雄

42『ブギーポップは笑わない上遠野浩平

43『グレート・ギャツビーフィッツジェラルド,野崎考 訳

44『日の名残りカズオ・イシグロ, 土屋政雄

 

1『土の中の子供』中村文則

 【面白さ・E】 2018年一本目は芥川賞作家・中村文則の当賞受賞作で、結構短いやつ。こどものころに虐待を受けていた主人公が、破滅衝動にさいなまれながらも、暗澹として思弁を続け道を探るという物語。メチャ暗いです。人間的にも物語的にも面白いシーンがなかったので、イマイチでした。片側が破滅の分水嶺を歩く物語なのにガールフレンド的な女の子が出てきて手を差し伸べてくれたりするので(『銃』もそうでした)個人的にはちょっと物足りない。 

土の中の子供 (新潮文庫)

土の中の子供 (新潮文庫)

 

 

 

2『職業としての政治』M.ヴェーバー, 脇圭平 訳

 【面白さ・C】 社会科学ではおなじみ、マックス・ヴェーバー(1864-1920)の代表的著作。歴史の流れの中で、「政治」を職業にする人々が現れたことについて述べた本です。「情熱と責任」とか「支配の三類型」とか有名なフレーズたびたび現れますが、わりと欧州の中世-近代の政治形態変遷についてマニアックに述べているところが長いので、私は内容の半分以上を理解できませんでした。

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

 

 

 

3小僧の神様・城の崎にて』志賀直哉

 【面白さ・B】 小説の神様こと志賀直哉(1889-1971)の短編集です。「城の崎にて」は高校の教科書で読んだひとも多いのではないでしょうか。やや古めの文章(あたりまえですが)で、それでも読ませるのはさすがといった感じです。短く切り上げたような文章の連続が、ちょっとむかしの日本の情景を浮かばせてくれる、読むことそのものが楽しい小説集でした。おすすめは、言うことをきかない女中と主人が喧嘩する話「流行感冒醜男と美人の恋愛をユーモラスに描く赤西蠣太、そして表題作の「城の崎にて」です。

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

 

 

 

4『静かな生活』大江健三郎

 【面白さ・B】 こちらもおなじみノーベル賞作家の大江健三郎の短編集です。大江の、知的障害を持つ息子「イーヨー」を中心にその一家の暮らしを描いた作品群です。知的障害者のある世界が生み出すさまざまな「あやうさ」と、決して単なる被庇護者ではない、一個の人間としてイーヨーが垣間見せる姿が、美しい物語のなかに描かれています。タイトルは忘れましたが、痴漢が出てくる話が面白いです。オススメです。

静かな生活 (講談社文芸文庫)

静かな生活 (講談社文芸文庫)

 

 

 

5『新しい文学のために』大江健三郎

 【面白さ・C】 大江健三郎が書いた書き手向け(のような気がする)の文学講座です。薄いし内容はやさしいのでわりとあっさり読めます。面白いのは「異化(フォルマリズム)」という小説技法についての節でした。いつも触れ馴染んだものを、改めて観察し直し、これまでとは全く別なもののように、新しいなにかを見つけたように描写することであるこの技法を、大江はかなり重視しているようです。

新しい文学のために (岩波新書)

新しい文学のために (岩波新書)

 

 

 

6『象』レイモンド・カーヴァー,村上春樹

 【面白さ・-】 読んだんですが、なんにも覚えてません。そういうこともありますよね。

象 (村上春樹翻訳ライブラリー)

象 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 

7業物語西尾維新

 【面白さ・D】 西尾維新の代表シリーズの一つ物語シリーズの何作目か。既に数作前の終物語で物語としては決着がついているので、おまけ編という感じ。過去編だし、特にエキゾチックなものでもなく、語られていなかった物語を語っただけという印象が強かったです。イマイチ。

業物語 (講談社BOX)

業物語 (講談社BOX)

 

 

 

8結物語西尾維新

 【面白さ・C】 「物語シリーズ」の、ちょっと変わった切り替え点になるような作品。本編時系列で高校三年生だった阿良々木暦くんは本作では大学を卒業し、警察官(しかもエリートコースで)になっています。

 ぐーんと足を伸ばして、大人になった少年たちを描いてはいますが、やってることはシリーズを通してのお化け絡みのミステリー……、と思いきや、一人のキャラクターについては、ちょっと変わった斬り終えかたをしていて、シリーズを通して読んでいる者(本作を読むのはそういうひとしかいないと思いますが)、にとってはやや苦しいかたちではあるものの、成長することと、変わってしまうことの苦い部分を描くことに成功しています。そこだけはたいへんよかったです。

結物語 (講談社BOX)

結物語 (講談社BOX)

 

 

 

9「静かに、ねぇ、静かに」本谷有希子

 【面白さ・B】 芥川賞作家・本谷有希子の新作短編集です。今年の「群像」に載ってたやつで、いまはしゃれた感じの単行本が出ています。

 三つの短編で構成される本作に一貫した主題を、わたしは「不安と恐怖」であると読みました。うち一つ、「本当の旅」は、SNSに耽溺する人々をコミカルに描きながらも、その享楽的な生活のなかに見え隠れする不安、そしてラストに訪れる恐怖の爆発を息継ぎなしに走らせた絶品です。残りの二つも、また違った形の恐怖を、理不尽な旅行の中で芽生える妻のとある狂気、そして、貧窮とみじめさの中に生きる夫婦に訪れる怪奇を通して、丁寧に表現しています。おすすめです。

静かに、ねぇ、静かに

静かに、ねぇ、静かに

 

 

 

10撫物語西尾維新

 【面白さ・C】 またもや「物語シリーズ」。でも今年読んだ西尾では一番良かったかも。みんなのアイドル千石撫子ちゃんの、その後を描いた後日談的な作品ですが、この子の成長を見れたのは作品を追っていた価値があったかなという感じでした。

 漫画家を目指す不登校少女の持つさまざまな性格が分断され、個々が自我を獲得しそれらが暴走を始める、というどこかでありそうな展開ですが、西尾維新らしい信念のロジックがふんだんに使われていて、締めも美しい、という味わいでした。

撫物語 (講談社BOX)

撫物語 (講談社BOX)

 

 

 

11『族長の秋 他6篇』ガルシア・マルケス,鼓直 他訳

 【面白さ・D】 コロンビアのノーベル賞作家・ガルシアマルケスの長編、「族長の秋」に加えて、『エレンディラ』の短編たちを合わせたものです。

 「族長の秋」は孤独な独裁者が、哀れにもその権力にしがみつきながら、孤独に打ちひしがれ、また大国による圧力に苦しむさまを描いた泣きっ面に蜂みたいな小説です。百年の孤独にも通じるような生々しく暑苦しい情景描写(褒めてます)と、本作で著しく発揮された時間をぐちゃぐちゃに混ぜ込んだ難読の構成(けなしてます)が特徴的な作品でした。読み切るのに一ヶ月くらいかかりました。

族長の秋 他6篇

族長の秋 他6篇

 

 

 

12『新編 銀河鉄道の夜宮沢賢治

 【面白さ・C】 もはや説明するまでもない、日本を代表する児童文学作家(なんじゃそりゃ)の宮沢賢治、その短編集です。表題作「銀河鉄道の夜」は幻想的な風景を描きながら、その裏側にある死、「ひとのために死ぬこと」について、こどもの視点から見つめた悲しいお話です。十数個の短編が取り込まれた本書には、児童作家と侮るなかれ、どこか人間の卑しさや、関係の切なさについて思いをはせた作品があります。収録作の一つ「猫の事務所」は、賢治の見ていた人間のいやらしさが良く現れた作品でした。

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

 

 

 

13車輪の下ヘッセ,実吉捷郎 訳

 【面白さ・A】 日本では「少年の日の思い出」でおなじみのヘッセ。ドイツの作家でノーベル賞も取ってるそうです。その代表作であるのが本作『車輪の下』です。田舎育ちの優秀な少年が、その優秀さゆえに、盲目的な統制が敷かれた厳格なエリート校での生活に心理的に押しつぶされてしまうという物語。エリート校での寮生活では、少年たちの繊細な心とその関係が丁寧に描かれており絶品です。車輪の下』を読んでBL的妄想に耽溺するオタクは多いのではないでしょうか。主人公が打ちひしがれたあと、故郷に帰り、そこでの生活を続けるのですが、そこでのくたびれた心理や、エリート的成功から離れ、別の喜びを見つけようとする人間的振る舞いの描写もお見事。そしてなにより、結末にやってくるもの。人生一度は読むべき傑作です

車輪の下 (岩波文庫)

車輪の下 (岩波文庫)

 

 

 

14『愛について語るときに我々の語ること』

 レイモンド・カーヴァー,村上春樹

 【面白さ・-】 カーヴァーの小説は印象が薄味です。それはきっと、彼の描くものの多くがある程度成熟した人間がやがて直面する喪失に関わるものであって、人生的経験に乏しい私には、どうにも、うまく理解すること・共感すること・「解釈」することができないからなのではないか……私はそんな風に考えています。 読んでも内容を忘れるということは、確かに人間にはあるのです。

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 

15『日本的ナルシシズムの罪』堀有伸

 【面白さ・B】 現役の精神科医・堀有伸が精神分析の理論から日本的な「空気」の問題についてその分析を試みる一冊。精神分析に馴れない読者にはやや難解かもしれませんが、内容としては興味深く、「なぜわたしたちは、みんなと同じでありたいのか。空気に逆らい難いのか。」という現代の致命的な問いについてのヒントを与えてくれます。青ブタの記事でも取り上げましたが、「空気の問題」の、その実践的な考察は、これからの私たちの、重要なテーマなのではないでしょうか。

日本的ナルシシズムの罪 (新潮新書)

日本的ナルシシズムの罪 (新潮新書)

 

 

 

16『がちナショナリズム香山リカ

 【面白さ・D】 こちらも現役の精神科医・政治運動家の香山リカによる著作。現代日本ナショナリズムについて精神分析の理論からの分析……をしているのはそうなんですが、やや、内容が薄い。『ぷちナショナリズム』という著作において日本のナショナリズムの一面を引き出した香山ですが、こちら『がち』の方は、あんまり目の覚めるような話はしていません。

 

 

17カンガルー日和村上春樹

 【面白さ・B】 村上春樹の短編集。春樹らしい意味不明さが全開です。波長が合えば面白いし、合わなければつまらない。ただ収録作4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについてだけは文句なしに村上短編の傑作の一つと言えるでしょう。通りすがりの女の子は、もうまったく完璧に100パーセントのひとで、自分にはその子しかいないような気さえする。ただそれでも、私たちはすれ違うしかないのです。

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

 

 

 

18『暗夜行路』志賀直哉

 【面白さ・C】 日本を代表する文豪、志賀直哉の唯一の長編です。文がうまいのでまぁ面白いんですが、なんとなく冗長。作家みたいなことをしている主人公がぶらぶらしながらぐちぐち悩んで、嫁さん貰って、そのあと風邪で死にかける話。志賀直哉は短編の方が面白い。

暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)

暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)

 
暗夜行路〈後篇〉 (岩波文庫)

暗夜行路〈後篇〉 (岩波文庫)

 

 

 

19『月と六ペンス』モーム,行方昭夫訳

 【面白さ・A】 アメリカの大文豪、サマセット・モームの長編小説。実在の画家ゴーギャンをモデルに、どこまでも独善的で、そしてより良い作品を手掛けることに徹底する狂人的画家の姿を捉えた傑作です。天才画家ストリックランドの、ぎらぎらとした絵画への強烈な態度が彼の周囲の人々をひっかき回しながら、死の直前に描く絵の描写は、恐ろしく鮮烈で読み手を震わせるほどの力を持っています。あと聖人みたいな友達が出てきて、そいつも狂ってるみたいに無毒なやつで面白い。「キャラが立ってる」というのは、こういうことだなという感じがします。オススメです。

月と六ペンス (岩波文庫)

月と六ペンス (岩波文庫)

 

 

 

20『若きウェルテルの悩み』ゲーテ,高橋義孝

 【面白さ・D】 ドイツの世界的小説家・ゲーテの作品。人妻に惚れこんだ若きプータロー貴族が、うだうだとその悩みを友達に向けて手紙として書き綴った体で進行する物語。くどいくらいに人妻をほめたたえ、そしてうまくやれない自分をこれでもかとけなす。そして最後には自殺。チョー夢見がちで、自分勝手な青年の哀れな失恋を描いています。強烈な失恋経験があるかないかで、彼に共感できるか否かというところあるかもしれませんね。

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

 

 

 

21『ねじまき鳥クロニクル 村上春樹

 【面白さ・B】 平成7年に完結した村上春樹の長編です。主人公は三十過ぎの男。突然妻が家から出て行って、戻ってこない。なんとか妻を探そうとするが、彼の周りに現れるのは奇妙な人々ばかり。過去と現在、幻想とリアルを行き来しながら、やがては巨大な悪意の存在と対決していくことになる物語です。どこか掴みどころのないような展開が続くかと思えば、強烈な象徴性をもって読者に何かを訴えかけようとする春樹的な物語手法がふんだんに織り込まれた作品です。また、本作は戦争(とくにノモンハン事件,1939年に起きた満州国とモンゴルとの紛争)に関しても多く言葉を用いているという点で、興味深いものがあります。

ねじまき鳥クロニクル 全3巻 完結セット (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル 全3巻 完結セット (新潮文庫)

 

 

 

22「三つの短い話」村上春樹

 【面白さ・B】 2018年の『文学界』七月号に掲載された村上春樹の短編。俳句趣味の女の子との思い出の話。久々に会う友人に家に招待される話。伝説のジャズ奏者をでっちあげた話の三本立て作品です。とくに三本目の、架空ジャズ奏者を主人公がでっち上げるチャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァは不思議な味わいのあるどこか怪談じみた物語で、読んでいて楽しい一本でした。俳句の話はやや地味な内容ですが、三本とも面白いのでおすすめです。図書館で『文学界』のバックナンバー出してもらいましょう。

文學界2018年7月号

文學界2018年7月号

 

 

 

23『民族とナショナリズムE.ゲルナー,加藤節 監訳

【面白さ・B】 ナショナリズム論の古典(?)作品。歴史学・哲学などに精通したイギリスのユダヤ人学者、アーネスト・ゲルナーによって1983年に発表されています。ナショナリズムとはいったい何なのか。どうしてこれが発生するのか……。などといった問題に歴史的視点からの応答を試みています。ナショナリズムというと『想像の共同体』の方が有名な感じもしますが、こっちの方が系統的にまとまってて読みやすいような気がします。まぁ両方読むべきなんですがね(かくいう私は『想像の-』にチャレンジして挫折しました)

民族とナショナリズム

民族とナショナリズム

 

 

 

24『美しい星』三島由紀夫

 【面白さ・C】 日本を代表する文豪・三島のSF作品。リリーフランキーとか亀梨和也とかが出て映画になって、有名になってたので読みました(ミーハー)。自分たちが地球外星人であることに目覚めたとある一家と、同様に目覚めたまた別の人々との対立を描いた作品。〈人間は善でありうるものである〉と主張する主人公一家と、〈人間は悪ゆえに滅ぶべきである〉とする敵集団の構成は、様々な物語において語られた人類永遠のテーマの一つです。三島による人類へのジャッジが行われた本作ですが、その結末、すなわち判決内容は、読者に委ねる手法がとられています。

美しい星 (1967年) (新潮文庫)

美しい星 (1967年) (新潮文庫)

 

 

 

25『新訂 福翁自伝福沢諭吉, 富田正文 校訂

 【面白さ・B】 世界中の人間に愛されている福沢諭吉おじさんの自伝です。がきんちょの頃からほとんど死ぬ前くらいまでの、福沢のオモシロエピソードがピックアップされて紹介されています。留学中、ロシア人に「お前ロシア人になっちゃえよ」とスカウトされて断ったりアメリカでちゃっかり自分だけ写真屋によってそこの家の娘さんと記念写真撮ったりと、なんだこいつな逸話がてんこもりで面白い。なんとなく当時の、江戸末期-明治時代の雰囲気を感じ取ることができて、しかも文章はかなりやわいので読みやすい。お勧めです。

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

 

 

 

26『斜陽』太宰治

 【面白さ・D】 太宰治の中編小説。戦後の落ち目な華族の娘が、自分なりにいろいろ悩ませるがろくなことは起きないし、どんどん苦しい場所に追い込まれていく物語。なんとなく雰囲気は『若きウェルテルの悩み』に似てる。片思いの物語なので。そんなに面白くはない。でも短いしユーメーなので読んで自慢することはできる。

斜陽

斜陽

 

 

 

27ナイン・ストーリーズサリンジャー,野崎孝

 【面白さ・D】 アメリカの小説家サリンジャーの短編集。とくにつながりのない9つの物語が展開されます。どの物語も暗くて、しかもあまり語らない(情報を出さない)文体で描かれるので、読むのが難しい。解説を読んで、「ああ、そういうことなの」みたいなのが多いので、本作はかなりのリテラシーが求められるのでは……(文盲)。

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

 

 

 

28『もういちど村上春樹にご用心』内田樹

 【面白さ・B】 哲学者・内田樹による村上春樹論。かなり肯定的な立場から、村上春樹が語られています。「もういちど」とあるように、前作(?)とでも呼ぶべき著作『村上春樹にご用心』というものがあるようです。

 村上春樹本人は、自身を論じるものをどういう立場のものであれ、あまり積極的には触れようとはしないし、そういうものから自分の小説を理解されることをよく思っていないところあるようなのですが、「ロジックで村上春樹を読んでみたい」と思う人にはお勧めの一冊です。

もういちど村上春樹にご用心 (文春文庫)
 

 

 

29忍物語西尾維新

【面白さ・D】 「物語シリーズ」のニューシーズン・「モンスターシーズン」の第一作。大学生になった阿良々木くんの新しい仲間たちとこれまでの仲間たちの関係、そして過去の因縁からはじまる大きな物語の助走的位置づけの作品。阿良々木くんのように、吸血鬼になることを望みそうなったひとが登場します。ただし出来はいまいち。

忍物語 (講談社BOX)

忍物語 (講談社BOX)

 

 

 

30ダンス・ダンス・ダンス村上春樹

 【面白さ・B】 村上春樹の長編小説。『風の歌を聴け』-『1973年のピンボール』-『羊をめぐる冒険』の三部作の続編です。デタッチメント(関わりのなさ)を主題においた初期(中期?)の作風で、どっちを向いても「わかってないひと」がたくさんいて、そのなかで「僕」やあるいはほかの弱いものが傷つけられている。という空気が常に流れています。そのなかで「やれやれ」ともがくこと、抵抗すること、打ちひしがれることを描いていますが、最後には「関わり」(コミットメント)を求めようとする主人公の姿が現れます。そのことは、村上がやがてこのコミットメントを物語に求めるようになる志向の前触れなのかもしれません。

ダンス・ダンス・ダンス (講談社文庫)
 

 

 

31象の消滅村上春樹

 【面白さ・B】 村上春樹の短編集。英訳版として編纂されたものを、日本語に戻した(あるいは村上自身が再翻訳し直した)一冊です。英題は”The Elephant Vanishes ”。

 わたしが興味深く読んだのは「緑色の獣」という短編です。とある主婦のもとの奇妙な造形の獣が現れ、主婦は自らのうちから湧き上がる衝動からそれを残虐にも痛めつけるという物語。村上の長編にも立ち現れる暴力と「嫌さ」の一瞬を短編の呼吸で切り取った怪作です。

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

 

 

 

32銀河ヒッチハイク・ガイド D.アダムス,風見潤  訳

 【面白さ・】 イギリスの作家D.アダムスのSF小説。高速道路の建設予定地に認定されていた土地に住む主人公は、ある朝突然、工事現場員にそれを告げられ、家から追い出される。そして、それとほぼ同時に、地球が宇宙バイパスの建設予定空間に位置していることが宇宙生命体によって告げられ、地球が一瞬のうちに破壊されるところから物語は始まります。上のあらすじからも分かるよう、SF的想像力によって人間の無思慮からくる前提や知能的傲慢を徹底的に否定する作風です。それらはコメディチックに描かれていますが、それでいて読み手に深く突き刺さる言葉で語られています。必読!

 また同作者の小説『ダーク・ジェントリー 全体論的探偵事務所』を原作にしたドラマシリーズ「ダーク・ジェントリー」が現在Netflixで配信中です。めちゃくちゃ面白いのでこちらも観よう。これまで物語的ご都合主義と呼ばれてきたものを、物語の中で咀嚼して再構築していく手法は漫画界至高の傑作・「胎界主」(尾篭憲一)にも通じる方法論で、それそのものが「運命」に対するわたしたちの感覚を深く掘り下げてくれます。

銀河ヒッチハイク・ガイド (新潮文庫)

銀河ヒッチハイク・ガイド (新潮文庫)

 
ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所 (河出文庫)

ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所 (河出文庫)

 

www.taikaisyu.com

 

 

33コレラの時代の愛ガルシア・マルケス,木村榮一

 【面白さ・B】 ガルシアマルケスによる長編小説。ファンタジーっぽいけど、どこかリアリティのある例の手法で描かれる相変わらず泥くさい濃厚な愛の物語です。十七・八のころに愛しの彼女に振られた主人公が、その後、時々よそ見をしながらも五十年間彼女を思い続け最後は……というあらすじ。強烈な性の匂いと、人間の全く洗練されない精神の原野を歩くような感覚に満ちていて、さらに時間をシャッフルして複雑に混ぜ込まれた構成になっている本作は読みごたえ抜群です。

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

 

 

 

34『ある流刑地の話』フランツ・カフカ, 本野亨一 訳

 【面白さ・D】 不条理文学の代表作家のひとりとされるフランツ・カフカの短編集。意味不明の、救いのない、結末さえも曖昧な物語が断片的に提示されます。表題作「ある流刑地の話」(訳によっては「流刑地にて」ともされる)はそんな物語たちの中でもわりとわかりやすいものでした。

 旅行者である主人公が地元の官僚に連れていかれたのは、とある処刑マシンが設置された流刑地。「これからそのマシンによって罪人に刑が下されるので、ぜひそれを見てくれ」と官僚によってマシンの解説が始められるのだが、マシンのセッティングが完了したそのとき、新しい王様の決定によってマシンの運用が廃止されたことが報告されます。残酷な処刑マシンと、それを設計し運営した先代の王に心酔している官僚の選択は……。

 時代とそこに縛り付けられた人間の悲愴を暗示的に描いた一本です。

ある流刑地の話 (角川文庫クラシックス)

ある流刑地の話 (角川文庫クラシックス)

 

 

 

35『コンプレックス』河合隼雄

 【面白さ・】 ユング派の心理学者・心理療法家の河合隼雄による深層心理学の入門書。とくに表題の通り「コンプレックス」という概念について注目しています。ここでいう「コンプレックス」は劣等感のみではなく、人間の心の中で形成される複雑な心情のことです。好きだけど嫌い。尊敬しているけど、打ち倒したい。などという自分でも認めたくないような感情のことを指しています。

 なぜ人間は頭では分かっていても、自分の心を制御できないのか。またわたしたちの現代生活では信じられないような心のふしぎを、どのように見つめればいいのかということについて、とてもわかりやすく河合先生が解説してくれています。必読!

コンプレックス (岩波新書)

コンプレックス (岩波新書)

 

 

 

36『伝奇集』J.L.ボルヘス鼓直

 【面白さ・C】 アルゼンチンの小説家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編小説集。実在しない本についての書評を本当にあるもののようにして書いたり、無限に続く図書館の中で彷徨いながら本を整理する人々のことを書いたり、「幻想的」を飛び越えた観念の世界で、想像力の限界に挑戦するような奇妙で短い小説がたくさん収録されています。おすすめは「死とコンパス」です。とある殺人事件において、その現場にキリスト教的な「見立て」の存在に気付いた主人公の捜査官が、知識と推理を活用して犯人を追い詰めるのだが……という物語。単純な推理小説のようですが、犯人のよって提示される一つのあっけない事実が、意味と価値の関係、そしてそのあまりにも不安定なさまを浮かび上がらせます。

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

 

 

37ナショナリズムは悪なのか』茅野稔人

 【面白さ・C】 政治学者・茅野稔人による新書。哲学にも深く踏み込んでいる研究者である茅野が、「ナショナリズム」とはどういうものなのか。そしてそれが今の民主主義の政治を持っている国々のなかではどういう意味を持っているのか。ということについてわかりやすく書かれた一冊。ただ、「ナショナリズム」の定義に関しては、ちょっと限定的にし過ぎて、それで自分の言いたいことを進めているような気がする内容。面白いことには面白いです。

新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書)

新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書)

 

 

 

38「裏山の凄い猿」舞城王太郎

 【面白さ・B】 舞城王太郎の短編小説。友達に「結婚できない」と冗談交じりに言われた主人公が、実家に帰った時にそれを親に相談したところ、なんと両親から「実はわたしたちはどちらもとくにお前を愛してはいないし、夫婦としても別に愛し合っていない」と宣言される。「人間を愛することができない因子を受け継いでいる可能性」に直面する主人公の懊悩と並行して、人間をさらい山に連れていく「蟹」にまつわる町の騒動と、「蟹」に連れされられた子どもを探すのを手伝ってくれる「喋る猿」の物語が交錯するごく短い短編です。意味不明だと思いますが、本当にそういう話です。

 舞城らしい、俗っぽい語りで一気に感情を膨らませるうまさが全開になった作品です。「群像」2018年12号に掲載されています。

群像 2018年 12 月号 [雑誌]

群像 2018年 12 月号 [雑誌]

 

 

 

39罪と罰ドストエフスキー, 工藤精一郎 訳

 【面白さ・B】 説明するまでもない、ロシアの大文豪ストエフスキーの長編小説。「自分は天才である」という自覚がある貧乏ながらも優秀な学生・ラスコーリニコフが、「世界を動かすような天才的人間がまったく理性的に、社会のために行うのであれば、殺人は許されるし、そのような才人は自分の行動に後悔さえもしない」という独特の哲学のもとに、非道な金貸し業を営む老婆とイノセントな(無実な)その妹を殺害するところから始まる物語です。様々なキャラクターたちが、帝政ロシアにおける階級と貧乏のなかにもがき苦しむ姿と、同時にそうした悲惨の中から生まれてくる「美しいもの」を懸命に追う人間が描かれます。やや複雑(特に人名を覚えるのが大変)ですが、一度は腰を据えて読んでいい作品かもしれません。

罪と罰 (上)(下)巻セット

罪と罰 (上)(下)巻セット

 

 

 

40ニーチェ ニヒリズムを生きる』長島義道

 【面白さ・C】 哲学者・中島義道によるフリードリヒ・ニーチェ(ドイツの哲学者)の解説書(?)。「この本を読んで、ニーチェの思想から人生のヒントみたいなものを得ようとしてる奴、お前ら駄目駄目だからな」みたいな宣言から始まります。既存のニーチェ解釈を否定しまくって、「ニーチェの思想を本当に理解して実行できる人間は存在しない」まで言い切る否定否定否定の一冊です。明らかに入門には向いていない(というか中島は「入門書」の存在さえもけなしています)。「神が死んでいる」とはどういうことなのか。ほんとうの意味で「清潔」であろうすることは、どういう態度なのか。柔らかく噛み砕いているけれど、難解。

ニーチェ ---ニヒリズムを生きる (河出ブックス)

ニーチェ ---ニヒリズムを生きる (河出ブックス)

 

 

 

41『狭き門』ジッド, 山内義雄

 【面白さ・C】 フランスのノーベル賞作家、アンドレ・ジッドの代表作です。従姉に惚れこんだ文学少年が彼女に接近し、そして愛を誓いあうまでになるのですが、子供から大人になるまでの長い時間の中で、彼女の中に出来上った一つの観念がどこまでも二人を苦しめることになる、という物語。クリスチャンの感覚がふんだんに盛り込まれた作風と人間観から、やや現代の私たち日本人には理解しがたいところがあるものの、ラストの主人公と従妹の二人の応答については、文学的な表現の美しさが見事に現れています。

狭き門 (新潮文庫)

狭き門 (新潮文庫)

 

 

 

42ブギーポップは笑わない上遠野浩平

 【面白さ・B】 上遠野浩平によるライトノベルシリーズの第一作。本作は西尾維新をはじめとする2000年代以降のラノベ系作家に大きな影響を与えているとよく言われます。初めて読んだのが高校生のころで「なんだこりゃ意味不明だ」という感じだったんですが、いま読むともーたまらん。第一章竹田くんのエピソードから最高です。

 とある進学校にはびこる都市伝説。そして行方不明になっていく少女たち。一連の騒動を群像劇の手法で多視覚的に描いています。ライトノベル的な幻想ですべてを語りきるのではなく、あくまで人の領域に腰を落ち着けたリアリティある雰囲気から、ぼんやりと90年代後半の暗い部分の呼吸といまを重ね合わせることができます。余談ですが、本作にはちょこちょこと心理学の話が登場します。そしてその内容が、本記事でも取り上げた河合隼雄『コンプレックス』と重なっています。その辺に興味持たれた方は、ぜひ、『コンプレックス』も。もしかしたら、上遠野の呼んでるんじゃないのかな……?

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)
 

 

 

43グレート・ギャツビーフィッツジェラルド, 野崎考 訳

 【面白さ・B】 アメリカの作家スコット・フィッツジェラルドの代表作。主人公が越してきた高級住宅街のお隣さんは「ギャツビー」というひとらしい。正体不明で独り身。そして毎週のように盛大なパーティを開く。なぜかは分からないけど、どうやらそのギャツビー氏に気に入られたらしい主人公は少しずつ彼がどういう人間なのかを知っていくことになる……。冒頭にある父親の教訓からぐっと引き込まれます。そして物語終盤の現れるギャツビー氏の「抗議」は、読者から深い感傷を引き出します。

「ねぇ、親友、だれか味方をつかまえてくれなきゃ困りますよ。一所懸命やってみてください。わたし一人では、これは、とても切り抜けられませんからね」

フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』,P.229 ,野崎考 訳 ,新潮社 ,1989

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

 

 

 

44日の名残りカズオ・イシグロ, 土屋政雄

【面白さ・C】 2018年最後を飾るのはイギリスの日系人作家、カズオ・イシグロの代表作です。2017年にノーベル文学賞を受賞したことで日本でも話題になりました。村上春樹と仲が良いらしい。『日の名残り』は戦後しばらくが経ったイギリスのとある老執事のお話です。没落貴族の財産処理の過程で、お屋敷ごと新しいアメリカ人の事業家に雇われることになった主人公が、ちょっとした旧友の手紙から、そのひとにあいに来るまで旅をする、というあらすじ。主人公は行く先々で過去の思い出に浸りながら旅を楽しみます。主人公の、かつての主人への忠誠はいまも消え去っておらず第二次世界大戦の混乱の中、主人を支え続けた一人の執事の回想録として読むことも出来ます。そしてその思い出には、歴史の大きな流れに翻弄された人間の姿も見え隠れしています。

 情緒的にも優れた表現が多数現れる本作ですが、わたしが面白いと感じたのはイギリス的な皮肉やプライドの保ち方が、執事や貴族というエスタブリッシュメントの立場から描かれ、ぱきっと際立っている点です。それらには日本の空気ともどこか通じるような感覚があります。読みやすい訳文ですので、お勧めです。

 

 

総評

 いかかでしたでしょうか。以上がわたしが2018年に読み終えた本になります。今年のギブ・アップ本としては、岸田秀『ものぐさ精神分析』、フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』、B.アンダーソン『想像の共同体』、J.ラカン『エクリ』などがありました。背伸びにもほどがある。

 そろそろブログ初めて一周年というところで、まぁブログとしては数少ないんですが書きたいことはごりごり粗雑に書けているなという個人的な感触があります。

 輪るピングドラムとか「UNDERTALE」についての記事は今でもちょくちょくTwitterで感想書いてくれているひとがいるので、やはりうれしい。ありがとうございます。今年はダーリン・イン・ザ・フランキスも観たので、それもなんか長い話が書けそうだなと思ったんですが、やっぱりかけませんでした。

 最近はTwitterでユーメーなオタク界隈の「に」の方や、SF百合界隈の「い」の方のツイートを追って「関係性」という深淵の端っこに頭を突っ込んでいます。近いうちにこの「関係性」について何か語りたいという感情があるのですが、やはりあまりにも広大なその領域に言葉をもたらすには、私の語彙と知能と経験にまだ不足しか見られないというのが現状です。精進します。

 関係ない話が続きましたが、ここまで読んでくださってありがとうございます。読者がいると信じて書いています。来年も続けられたらいいですね。これ。

グリッドマン感想 一番エモいのはアンチくんでしょ。

 

*本記事にはテレビアニメ「SSSS.GRIDMAN」のネタバレが含まれています。

 

 

はじめに

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 「SSSS.GRIDMAN」は2018年10月から12月にかけて放送されたテレビアニメ―ション作品です。全十二話で、監督は雨宮哲、制作はTRIGGER。1993年に放送された円谷プロの特撮ドラマ「電光超人グリッドマン」を原作としています。

 キャラがかわいい、作画もいい、ストーリーはどこか謎めいていて、それでいてロボット特撮ファンにはたまらぬリスペクトがある……と、さまざまな魅力から本作「SSSS.GRIDMAN」(以下、SSSS)は支持されています。Twitterで検索すれば無数に本作の感想・考察を見ることができますね。流行っている。

 私はアニメをだいたい、ストーリーに注目して観るので他の部分(たとえば、作画・音響の良さや、ちりばめられたパロディネタ)にはほとんど言及できません。なので本記事においては、SSSSの物語としての部分について、雑多に感想を書き散らします。

 

 

だいたいこんな話

 言うまでもないことですが、本作ラスト数秒の実写パートを除き、この物語は新条アカネくんの内的な世界・こころの中の物語です。「アカネが、こころの世界から脱して、自分の世界に生きるまで」が大筋であって、その内的世界への闖入者がアレクシス・ケリヴであり、グリッドマンと新世紀中学生たちである……というかたちでした。前者がアカネを利用し、後者が彼女を救ったわけです。

 「神様」というワードがたびたび登場し、アカネ本人も自分をこの世界の神様だと自称しますが、べつに彼女が本当に神なわけではありません。あの世界に限定すればそりゃ神様なんですが、たびたび描かれる彼女の心的な不安定さを見るに、いわゆる〈神〉のビジョンを投げかけるにふさわしいスクリーンではないと言えるでしょう。破壊も創造もおてのもの……とはいえ、彼女こそがあの世界を必要としていたわけですから

 「じゃあ全部妄想の話なのかよ」と言われれば、まぁそうですという話になりそうなんですが、妄想だろうとフィクションだろうとあらゆる物語は全部本当に起きた物語なので大丈夫です

 

 

一番エモいのはアンチくんなので……

 本作はエンディングからして、アカネと六花の友情・百合的リレーションシップに重きを置いていることがわかります。それはそれでとても素晴らしいのですが、私が本作において何とも推したいキャラクターと関係はアンチくん、そして新条アカネと彼の関係です。アンチくんがいなければこのアニメを見続けることはなかった。

 アンチくんは新条アカネに生み出された怪獣少年です。グリッドマンを倒すことを心に刻まれ生まれた彼は、どこまでグリッドマンを倒すために生き続けるわけですが、失敗するたびにアカネに酷い仕打ちをうけます。それでも彼は健気に、グリッドマンを倒すための活動を続けます作中でも言及されますが、彼はアカネが生み出した他の怪獣とは異なり、心を持つ存在です。善悪の感覚はないようですが、喜怒哀楽はあります。顔には出ないかわいいヤツです。

 アレクシスに片目を奪われるまで、彼は敗北のたびに新条邸の門に向かいアカネに叱責(というか暴行)されるわけですが、なぜいちいちそんなことをするのか。それは、アンチくんにとって唯一の肯定的なつながりはアカネとの関係だけだからです。もっといえば、アカネは彼のお母さんだからです。失敗したって、子供はお母さんのところに戻ります。怒られたって仕方ないし、怒られることこそが、子供の求めるところでもあります。

 彼には、グリッドマンを倒すという欲望ともう一つ、新条アカネに承認されたいという切実な思いがあります。前者がアカネの願いでもあることから、それを叶えることで後者の思いを満たすことができるわけです。

 しかし数々の怪獣が打ち倒され、そして夢の世界においても裕太・内海・六花に否定されたアカネ*1は自分とこの世界のあり方に疑問を抱き始めます。その不安定な感情に寄り添うようにアンチくんが現れますが、アカネは彼に対し、「どこでも好きなとこいきなよ」と突き放してしまいます*2

 アンチくんは、母親のゆらぎに影響され自分の存在について疑問を覚えます。グリッドマンは敵であるはずの自分を殺そうとはしない。とくにサムライ・キャリバーはどこか自分を認めているようなふしがある。これまでの自分と、世界の反応のしかたの食い違いが彼を思考させました。そして彼は、「与えられたいのちの意味」を探すという結論に至ります。そしてグリッドナイトとして覚醒し、グリッドマンを助ける立場につきます。「グリッドマンを倒すのは俺だ。他の奴に倒されるな」的なややずれたロジックを持つわけですが、これは、建前的なものではないだろうか、と私は考えます。

 苦しむアカネの姿を見て、彼が見つけた本当の「いのちの意味」とは、アカネを救済することだったのではないでしょうか。怪獣を世界に生み出し続け歪んだ悦楽に浸ることを許すのではなく、苦悶している彼女をグリッドマンたちと共に助け出すことが自分の生命の意味だと考えたわけです。

 そして最終話、怪獣と化したアカネを助け出した際の、アンチくんと彼女の会話は本作のベスト・エモ・ポイントとして掲げあげられます。

―なんできみなんかに。ほんとにきみは、失敗作だね。

―ああ。俺はお前がつくった失敗作だ。

「SSSS.GRIDMAN」最終話より

 アンチくんの言葉のあと、アカネの微笑みが映し出され、彼女が彼を認めたことが示されます。ただこの直後、アンチくんはアレクシスにぶっ刺されて瀕死に追い込まれるのですが。

 さてエピローグでは、ぶっ刺された腹に雑な治療痕のあるアンチくんの姿が見られます。怪獣少女に助けられた彼は、「恩を返す」というキャリバー由来の信条をもって少女に応答します。母のいなくなった世界で、彼は心をもって自分のやり方で生きていくことができるという姿が示されています。巣立ちですね。エモい

 

   このアンチくんの話を書きたいがための記事なので、この記事はここで終わりなんですがSSSS本編は他にも内海の部外者心理についてや本道であるアカネ‐六花の関係、ほかにもグリッドマン‐裕太の主体性の問題、原作ネタについての考察など様々なエモ・ポイントが存在します。みんなも自分の最高のエモ・ポイントを探してみよう!

 

最後に

    本作は今期において、かなりの好評価を受けている作品であると思います。そして私は、あるいは後年、この「SSSS.GRIDMAN」は再び評価されるのではないかという気がしています。

    本作は日常と非日常の感覚を敏感に扱ったものでもあり、登場人物の描写に優れています(とくに裕太以外の高校生たちのセリフにかなりリアルな語彙選択があるよう思われます)。もしかするとこの作品は、これからのアニメ(オタク-サブカル文化圏)に大きな影響を与えていくものなのかもしれません。

*1:本編9話参照

*2:本編10話参照

アニメ「青春ブタ野郎(略)」第三話まで観た感想考察。

 

*この文章にはテレビアニメ版「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」のネタバレと個人的な妄想があります。ご注意ください。

 

「青ブタ」みましたか?

 今季から放送が始まっているアニメ「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」。皆さん観てますか?

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 原作は鴨志田一原作の同名ライトノベルで、現代日本を舞台にしたややファンタジーのある青春物語といった感じの内容で、なかなか面白いです。私は今三話を観て、びっくりしてこれを書いています。三話までで一応、1エピソードが落ち着く、という感じなのですが、やってることがすごかったのでとにかく感想を書きたい

 

 

もはや伝統的な物語構造

 私はライトノベルとか文学のとかの系統史にまったく明るくないので、有識者が読めば、「おいおい」的なところあるとは思いますがご容赦ください。

 「青ブタ」は主人公の一見ダウナーな高校生・梓川くんが、彼の周囲の困ってる女の子たちを助けていくという、かなりおなじみの大筋のなか進んでいく物語なのですが、ちょっと面白いのは彼女たち(あるいはこれから先、男もいるのか?)は、「思春期症候群」という謎の現象に悩まされているということです。

 

 本作に登場する怪現象「思春期症候群」とは、思春期に差し掛かった子供が、何らかの都市伝説的不思議現象に遭遇するという噂で、物語では、それに「罹患」(あえて罹患といいます)したキャラクターたちが次々と現れていきます。

 

 この子たちには往々にして心の悩みのようなものがあり、それが「思春期症候群」の原因であったりするのですが、この物語構造は、ちょっと前にかなり流行っていたような(今でもでしょうか?)気がします。

 

 つまり、「何かしらの心のゆがみを持つ(あるいは歪ませられている)人の、その歪みが、世界において形を以て異常として現れる」という舞台設定がこの作品にはあります。

 

 こうしたものを目にしたとき、やはり私たちにぱっと思い浮かばせられるのは、西尾維新物語シリーズではないでしょうか。あれらの作品群もまた、(特に第一作『化物語』において顕著に)そういった基本ベースが読み取られます。

 

 実際の世界に対応させれば(これはかなりの邪な行為ですが)、心を傷めてしまったひとの、その人が生み出す神経症的な問題を言語的な解釈で「治療」するようなかたち、京極堂シリーズ」(京極夏彦でいうところの「憑き物落とし」的なお悩み解決の物語なわけです。

 

 

じゃあ何がすごいの「青ブタ」

 「青ブタ」の物語の大筋(三話時点での印象に過ぎませんが)をここに示したわけですが、「青ブタ」のすごいところはここではありません。このアニメの、特に第1-3話にかけて取り扱った問題がすごいんです。視聴済み、あるいは原作ファンの方であれば、お分かりかと思いますが、アニメ1-3話・「桜島麻衣」にまつわる物語は、「空気」との対決を描いています。

 

 

「戦って、そして勝つ」を描くこと

 「空気を読む」でおなじみの、あのいやらしい「空気」ですが、本作で最初に取り扱われるテーマはその空気に抗うことです。このことは、現代を生きるわたしたちとって大変難しいことであるというは、説明の必要もないでしょう。

 

 詳しくは省きますが、そういったあの「空気」によって存在を消されかかったヒロイン・桜島麻衣を救うために、主人公の梓川くんが一人で、空気と対決します。しかも勝ちます。

 

 まず前提として(設定として)梓川くんはややアウトロー気味で、友達のほとんどいない皮肉屋の少年です。ちょっとした勘違いから、学校はならず者の危険人物であるかのように扱われています。つまり彼は、社会から理不尽にも疎外された人物であるわけです。

 

 そういった彼が、「空気」に立ち向かうということは現実的には当然ながら、かなりハードであると言えます。実際彼はヒロインの登場までは、「空気」に対し、冷笑的な、降伏の態度を示しています。この辺りには、村上春樹の小説によく似た雰囲気があります。彼の書く小説、特に初期のものには、社会やシステムに対する諦念があります。村上の場合「やれやれ」と首をふること、あるいは些細で頑固な反抗をすることで、結果主人公は打ちのめされますが、なんとか納得いく帰結を求めていきます。(村上の小説に特異というよりは、ハードボイルドものの基本形態と言えるかもしれません)

 

 しかし、「青ブタ」の場合そうではありません。梓川くんは対決します。彼は「空気」をひっくり返すことに成功します。そしてその過程を描くところが、そこが「青ブタ」のすごいところです。梓川くんは、「空気」と対決するために、桜島麻衣への愛の告白を全校生徒の前でゲリラ的に行います。このシーンは、ひとによっては、微笑ましい青春の一ページかもしれませんし、もしくは、戯画化された失笑の演出でしかないと切り捨てるかもしれません。ただ、ここで誰もが思わざるを得ません。「自分にはこんなことはできない」。たとえどんな意味であっても、そこに「空気」の拘束がないと言い切れるひとが果たしているのでしょうか。

 

 ここでは、他の物語的手法を使うことなく(たとえば、「心理の解明」や「怪異の退治」)、「実際にのリアルな空気に向けての声」という対決方法をとっています。「青ブタ」のこのエピソードが大変優れているのは、この部分です。これは、「空気と戦うということは、まったく手加減なしに、自分という個人を以て〈自分以外〉と立ち向かうことである」という重要なものを示しています。

 

 梓川くんの行動は、一見、滑稽で、かつ恥ずかしい(彼自身そう独りごちます)ものです。そして「空気との対決」には、それらが宿命的に備わるものだと言っても過言ではないでしょう。他でもない自分が、恥ずかしかろうと、場違いであろうと、自分以外の全員が見ている場所で何かを言う。このことが、空気と本当に対決する強い態度であることを、この物語は指し示しています。

 

 

まとめ的何か

 ここまでの解釈が指し示すところいけば、「青ブタ」は今を生きる我々に対して、かなり致命的に睨みを利かせた、ソリッドかつタフな物語であると言えます。未だ第三話までしか放送されていないところ、物語の価値を定めるのは余りにも早すぎるところですが、既に第三話までにおいて、相当に力強い意味を引き出しているこの作品をチェックしないわけにはいかないでしょう。

 

見てないひと、見てね!

 

 

 

 

笑論 -笑いの分類についての粗雑な論考-

 

 

 

 初めに

 本文はもともと、バラエティ番組「水曜日のダウンタウン」の「クロちゃん企画」について思ったことを残しておこうとして書き始めたものでした。しかし途中で嫌気がさして辞めてしまったので、「これはもう、日の目をみることはないな」と思っていましたが、折角書いたので何とか形にして発表してみようと思い立ったゆえ、ここにまとめてみました。

 *先行研究や、類似するものには一切触れていないので稚拙な論考にはなりますが、その分原始的なロジックで読みやすいのではないかと考えております。

 

「ギャグ」と「コメディ」

 ここではまず、「笑い(ユーモア)」のテクニック分類として「ギャグ」「コメディ」の違いについて述べさせていただきます。「ギャグ」とは「笑わせること」が目的として作られたユーモアで、「コメディ」「笑われること」が目的に作られたユーモアです。「笑わせること」と「笑われること」の間には、表面的な違いはないものの、その意味には大きな違いがあります。

 

①「ギャグ」という「笑わせるユーモア」

 「ギャグ」と言われると何を想像されるでしょうか。「一発ギャグ」「オヤジギャグ」「ギャグ漫画」……などと、日本語には数々の「ギャグ」が存在するわけですが、「ギャグ」とはつまり、行為者(ギャグする側)」が「被行為者(観客)」を笑わせることを目的に行うユーモアのことです。「行為者」はわざと「面白いこと・愉快なこと」をして「笑い」を生み出します。

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  「笑わせる」ことが目的である以上、行為者は「自分の行為がなんらかのユーモアを備えている」と思って「行為(=ギャグ)」をします(そしてその企みが、被行為者の好み・感覚とズレていたとき、「スベり」ます)。この部分が、「コメディ」と大きくその特徴を異とする箇所になります。

 またギャグの特徴として以下のものが挙げられます(全ての「ギャグ」がこれらを含むわけではありません)。

 

 ➊「直截性」……「わざと笑わせる」ものなのでギャグはとても直截的なものが多いです。行為者と被行為者の目が合うこともしばしばあります。「ノリと勢い」で笑わせるものの場合この傾向が顕著と言えるでしょう。

 ❷「過激性」……「直截性」同様、意図的な笑いの誘発が目的のものなので、その場限りの「激しさ」がよくあります。裸芸(アキラ100%)や絶叫(サンシャイン池崎)などはこの「過激性」を重視した「ギャグ」です。

 ❸「単発性・短時間性」……➊、❷の特徴ゆえに、「ギャグ」は短い時間に、一瞬で弾けるようなものになります。ボケ→ツッコミの応答はその関連性を保つためにも、ごく短い時間で行われます。

 ※「笑わせるユーモア」には、ギャグの例外的存在として「機知・ウィット」があります。これは意図的に被行為者から笑いを引き出すことを目的とした行為ですが、ここにはしばしば、ギャグに含まれる「直截性・過激性」が存在していません。「機知・ウィット」の場合、「気の利いた事。感心させられること。直感ではなく論理的なおかしみ」が内在しています。またシュールな笑いもここに分類されるものではないか、と私は考えます。

 

 

②「コメディ」という「結果としてのユーモア」、そして虚構性

 「ギャグ」が笑わせることを目的としている一方、「コメディ」には、その恣意性(言い換えるなら「わざとらしさ」)はありません。少なくとも、「ないようにみせかけて」行為することがルールです。「コメディ」における行為者には、課せられた条件として、「被行為者(観客)に、自分の行為は自分にとって重要で、通常の行為であるのだ」というように見せかけねばならないのです。それはつまり、コメディ役者は「役者としては」自分の行為のユーモア性を認識しながらも、「役」としてはそれを、むしろ「そんなこと」に構ってられないような心境にあらねばならないという枷がある、ということになります。

 また「コメディ」には前提として、媒体そのもの(コメディ映画やドラマ)が「虚構」であることが求められます。我々は、「虚構」であることを前提にしなければ喜劇を鑑賞することはできません。なぜなら、「虚構」でないもの、つまり同次元に存在する事実を笑うことは、ただの嘲笑と化してしまうからです。「コメディ作品」と「鑑賞者」の間には絶対の壁があり、これを超える・もしくは破壊すると、「鑑賞者」は「目の前の滑稽」を笑う不謹慎者と成り果ててしまいます。逆に考えると、「コメディ」は「誰かの不幸を笑う」タブーを、限定的に取り払うための一つの手段という側面があるともいえます。

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 またコメディの特徴として以下のものが挙げられます(全てのコメディがこれらを含むわけではありませんが、「虚構性」は概ねのコメディに不可欠です)。

 

 ➊「可笑性[かしょうせい]……「可笑」とはつまり、「笑うことが可能である。笑っても許される」ということです。現実の出来事であれば、不憫で悔やまれるようなものでも、コメディでは、後述❷の「虚構性」を得ることで、「笑ってもいいもの」として扱われます。

 ❷「虚構性」……前述のように、コメディには前提として「虚構(つくりもの)」であることが求められます。しかしこれは基本的に、視線を向けられないものです。「虚構性」は前提でありながらも、被行為者はそれを思考から追い出しながらメディアを楽しみます。つまり、コメディ映画を観ながら、常に「でもこれは作り物だから」 と考えるわけではないということです。そのつくりものの世界に没頭できて、「虚構性」を忘れられる「コメディ」こそ、上等のものと呼べるでしょう。

 ❸「連続性・長時間性」……コメディはしばしば、物語を基盤に展開されることが多いユーモアです。ゆえにその中には、意味や展開の連続性が、そしてユーモア自体が比較的長時間のものとなります。

 

「ギャグ」と「コメディ」の関係

 「ギャグ」と「コメディ」の、二つの分類の関係は、実際には混ざり合っている状態にあります。完全純粋の「ギャグ」あるいは「コメディ」というものは存在しません。つまり、古今東西のあらゆる「笑い」には、「ギャグ」っぽさ(ギャグ的要素)と「コメディ」っぽさ(コメディ的要素)が同時に混じって生み出されているのです。

 

 

 ここから、「水曜日のダウンタウン」がコメディの虚構性を破壊しているさまを記述して、その笑いのシステムが自己崩壊的なものであると言いたかったのですが、水曜日のダウンタウンアーカイブを確認し直していく作業が非常に困難であったので断念せざるを得ないものとなりました。

 ざっくりいうと、「クロちゃんのこといじめすぎじゃない? というか、いじめの構造をそのままいじめっ子目線で笑いにしちゃうのってやばくない?」ということなのでいちいち小難しく描く必要もなかったのですが、途中まで書いたのでもったいないし、とりあえず形にしているだけの「かきちらし」です。ここまで読んでいただけたら光栄でございます。拙文を失礼。

2017年・読書の旅

 

初めに

 2018年、平成最後の年が早くも上半期終了というところに来ています。皆さん読書はされますでしょうか?(唐突) 

 今回は週に一冊読み終えれたら上等、というレベルの遅読家である私が去年、即ち2017年にちゃんと読み終えることができた本の、その概要と感想、面白さを列挙します。ちなみにその年に読んだものは全部で38作品。書籍として単独に出版されたものは34冊でした(つまり、リストには雑誌に収録された短編などが含まれています)。

 

 

目次

1『頼むから静かにしてくれ  Ⅰ』レイモンドカーヴァー,村上春樹
2『職業としての小説家』村上春樹
4『ライト・グッドバイ』 東直己
5「秘密は花になる。」舞城王太郎
6『流れよわが涙、と警官は言った』P.k.ディック,友枝康子訳
9『一九八四年』ジョージオーウェル,高橋和久
10『みんな元気。』舞城王太郎
12『ザップ・ガン』P.k.ディック,大森望
13『自我論集』S.フロイト,中山元
14『武器よさらば』ヘミングウェイ,高見浩訳
15『頼むから静かにしてくれ  Ⅱ』レイモンドカーヴァー,村上春樹
16『2001年宇宙の旅』アーサーC.クラーク,伊藤典夫
18『図解雑学 フロイト精神分析鈴木晶
19『風と光と二十の私と・いずこへ』坂口安吾
20『やさしい女・白夜』ドストエフスキー,井桁貞義訳
21「ナイス・エイジ」鴻池留衣
22『村上春樹全作品1990-2000,6  アンダーグラウンド』村上春樹
24『暗闇のスキャナー』P.K.ディック,山形浩生
25『動物農場』ジョージ・オーウェル,高畠文夫
26『大江健三郎自選短篇』大江健三郎
27『銃』中村文則
28『騎士団長殺し  第1部顕れるイデア編』村上春樹
29『騎士団長殺し  第2部遷ろうメタファー編』村上春樹
30『雪国』川端康成
31『百年の孤独』ガルシアマルケス,鼓直
33『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』川島博之
34『みずから我が涙をぬぐいたまう日』大江健三郎
35『図解 哲学がわかる本』竹田青嗣 監修
36『エレンディラ』ガルシアマルケス,鼓直  木村榮一
37「陋劣夜曲」西村賢太
38『夢十夜 他二篇』夏目漱石   *読んだ順に並べてあります 

【面白さ】を以下の基準でランク付けします。

  A. 最高程度に、語りたくなるくらい面白い。

  B. 文句なしに面白い。

  C. まあ面白い。読んで損はない。

  D. 懸念もあるがよし。読み返すことはない。

  E. 読むに費やした時間を少し後悔するレベル。お勧めはできない。

*評価は文学やものの価値について一切の知識を持たない素人の直感によるものであることをご考慮いただければ幸いです。また一部の著書については、「面白さ」という表現が相応しくないものがあり、それについては評価をしておりません。

 

 それでは拙評をどうぞお楽しみください。

 

 

 

1.『頼むから静かにしてくれ  Ⅰ』レイモンド・カーヴァー,村上春樹

  【面白さ・C】 村上春樹が尊敬しているらしいアメリカの小説家、レイモンド・カーヴァー(1938-1988)の短編集、奥さんと仲の悪い旦那さんの話が多い。「60エーカー」という、先祖代々の土地と誇りに固執するネイティヴアメリカンの話がなかなか渋くてよい。基本的に暗い話が多いが、村上春樹の各話解説があり、村上ファンにはそこが嬉しいかもしれません。

頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 

2.『職業としての小説家』村上春樹

 【面白さ・B】 村上春樹のエッセイ。村上自身が「小説家」というものをどういうものと捉えているかに触れられる一冊。相変わらず文章自体はクッソ読みやすいのでオススメ。個人的に面白かったのは芥川賞を取れなかったこと」(村上は二回候補になって、二回とも落選)について彼自身がどう思っているのかというところ。
職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

 

3.砂の女安部公房

 【面白さ・B】 言わずと知れた名作。田舎に虫取りにいった都会人の男が、村人に騙されて砂で覆われたボロ屋に女と二人きりで放り込まれるという意味不明な展開から生まれるエロさが絶品の一冊。現代社会のなにやらが暗喩的に表現されているらしいですが、そんなこと分からずとも十分にシコれるレベルにエロい

 安部公房についての個人的な思い出は、高校時代の現国の教師が、「安部はな、ノーベル文学賞とるかどうかの男だったんだ。死ななきゃとれた」と言っているのを聞いて、「結局とれてねーじゃねーか」とか思っていた程度でした。

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

 

4.『ライト・グッドバイ』 東直己

 【面白さ・-】 映画(「探偵はBARにいる」)でおなじみの「ススキノ探偵シリーズ」の8作目。北海道の歓楽街ススキノで、違法行為と探偵業の二足のわらじで生計を立てる北大哲学科出身のチンピラ中年男性の活躍を描いた作品。実はこの文章を書いた一年と半年前ほどに読んだものなので、申し訳ないが全く内容を覚えていません。でも安定して面白いシリーズなのでおすすめです。

ライト・グッドバイ―ススキノ探偵シリーズ (ハヤカワ文庫JA)

ライト・グッドバイ―ススキノ探偵シリーズ (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

5.「秘密は花になる。」舞城王太郎

 【面白さ・-】 最近(?)活躍がめざましい舞城王太郎の短編。文芸誌「新潮」の2017年2月号に掲載された作品。残念ながらこちらも内容を忘れてしまっています

 舞城は読みやすいのと、(最近の作品は)割とわかりやすい物語が多いのが良い作家です。物語的な盛り上がりを重視した展開をよく使うので、短編でもしっかり面白い小説を書くひとです。僕は好きです。オススメは『土か煙か食い物』「熊の場所」「スクールアタック・シンドローム」『淵の王』です。

新潮 2017年 02 月号 [雑誌]

新潮 2017年 02 月号 [雑誌]

 
煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)

 
淵の王 (新潮文庫)

淵の王 (新潮文庫)

 

 

 

6.『流れよわが涙、と警官は言った』P.K.ディック,友枝康子訳

 【面白さ・D】 タイトルと早川版の表紙がクッソかっこいいことでおなじみのディックですが、本編については微妙なところが多いです。というか展開が唐突なのでめちゃくちゃ読みにくいです。それでもこちらはかなりマシなほう。あとにも出てきますが『ザップ・ガン』は本当に許せないレベルでした

 本作は、世間に超能力者である正体を隠しながら生きる人気エンターテイナーが、自分の存在を完全に抹消された世界に転移してしまう。という強い不安を読者に常に感じさせる構造。物語の、人間的な盛り上がりはラストの上級警官が涙するシーンだけなので、長さの割には物足りなく感じました。

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

7.神の子どもたちはみな踊る村上春樹

 【面白さ・C】 村上春樹の短編集。1995年(阪神淡路大震災オウム真理教の台頭)を受けての作品が多く、どこか寂し気な雰囲気が一貫してあります。表題作・神の子どもたちはみな踊る「かえるくん、東京を救う」が非常に印象的な物語で、特に「かえるくん」の結末には、村上の世界観というか、「世界は救われるべきである」という「願い」を味わうことができます。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 

 

 

8.色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年村上春樹

 【面白さ・D】 村上の割と最近の長編。出版時はいつも通り騒ぎになってましたが、全体の完成度ではもう一つでした。会社勤めの中年の男が、大学時代の初めに、高校の頃からの付き合いである親友四人に突然の絶縁を突き付けられたことについて、その真相を探るため、大人になった親友たちに会いにいくという物語。個々の挿話は面白い(村上春樹のたいへんよいところです)が、結末とそのまとまりについて考えると、「村上春樹」への期待がもともと高いのも相まって微妙、という感じでした。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)
 

 

 

9.『一九八四年』ジョージ・オーウェル,高橋和久 訳

 【面白さ・C】 ”Big Brother is watching you”でおなじみの”1984”の新訳版。架空未來の1984(ちなみに原書の出版は1948年。おぼえやすい)の大国「オセアニア」では、人々の生活は監視され、歴史は常に都合のいいように書き換えられている。いわゆるディストピア社会が営まれており、そういった自由のない世界で、ひそかに支配に反抗しながら生きる男の物語。抑圧された生活と、ときたま得られる秘密の解放の対照がなかなかよいです。「101号室」のシーンはとてもこわい(小並感)。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

10.『みんな元気。』舞城王太郎

  【面白さ・C】 舞城王太郎の短編集。個人的に、舞城小説の特徴は著しい口語調とぶっとんだ物語展開、そしてどこか説教じみた哲学の語りにあると(私は)考えていますが、本書でもそういったものを存分に味わうことができます。最後に収録されている作品、スクールアタック・シンドローム伝染してゆく衝動的な暴力をテーマに、大変興味深い作品になっていて面白いです。読みやすい小説が多いのでオススメ。

みんな元気。

みんな元気。

 

 

 

11.国境の南、太陽の西村上春樹

 【面白さ・D】 村上春樹の長編小説。中年男性が人生の成功を味わいつつも、どこか物足りないところに幼馴染だった女性と再会し、昔を思い出しながら彼女と通じあうという内容(うろ覚え)。比較的地味な印象の作品。

 『ねじまき鳥クロニクルの前半をカットして単品に仕上げたものと聞いて読んでみたけど、これ自体は『クロニクル』とは違って割とリアリズム的。読み返すことはないかもしれないが、もう少し経ってから読み返せば、なにか良さが分かる気がするような一品。タイトルは確か、なにか洋楽からの引用だったような。

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 

 

 

12.『ザップ・ガン』P.K.ディック,大森望

 【面白さ・】 当該年のワーストワンにして、オールタイムワースト小説の『ザップ・ガン』です。「ディックは映画はクッソ面白いし、『わが涙』も結構よかった気がするから、いけるやろ」と市営図書館で手に取ったのが運の尽き。文庫本ですが文字が小さいし、結構分厚いしで読むのに時間がかかりました。

 冷戦体制下の近未来で、米国のサイコ能力による武器デサイナーをしている主人公が、宇宙人の襲来(たしかそう)に対抗するため、ソ連側の美人女武器デザイナーと協力して最強の兵器「ザップ・ガン」を作り出すという内容。いま書き出すと「あれ? 面白かったかな?」と一瞬思いましたが、とにかく長くてわかりにくい

 私の読んだものには、巻末付録として、ディック自身による作品評価の短文がいくつかあるのですが、そこで作者自身が「『ザップ・ガン』はクソだ」みたいなことを言っていたのを、読んでガン萎えした記憶があります。

ザップ・ガン (創元SF文庫)

ザップ・ガン (創元SF文庫)

 

 

 

13.『自我論集』S.フロイト,中山元

 【面白さ・-】おなじみ、精神分析の開祖・フロイトの論集。多くの哲学者・思想家の著作について言えることだと思いますが、いきなり本人のものを読むのはオススメできません。意地で読んでも内容は理解できないので辛いです。それでも感想の述べるとすると、「快感原則の彼岸」(論文のタイトルです)は、フロイト後期欲動論・エロスとタナトスが生まれる過程を見ているようで、なかなかアツイです。

自我論集 (ちくま学芸文庫)

自我論集 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

14.武器よさらばヘミングウェイ,高見浩訳

 【面白さ・】 ノーベル文学賞を受賞した米国の作家・ヘミングウェイによる長編小説。第一次大戦で軍医としてイタリア軍(たぶんそう)に参加した若者が看護婦のねーちゃんと仲良くなって、最後はボートで戦線を逃げ出す話。前線の「いつ死んでもおかしくない」という切迫と、ラストの静謐な雰囲気は非常に見事に描かれていますが、小説として飽きのない面白さがあるとは言えない出来。読みにくく冗長ともいえます。文学についての教養や磨かれた感性が必要なのかもしれません。私にはあまり理解できませんでした。

武器よさらば (新潮文庫)

武器よさらば (新潮文庫)

 

 

 

15.『頼むから静かにしてくれ  Ⅱ』レイモンド・カーヴァー,村上春樹
 【面白さ・-】 カーヴァーの短編集。内容を忘れてしまったのですが!(無能)
頼むから静かにしてくれ〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

頼むから静かにしてくれ〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 
16.2001年宇宙の旅アーサーC.クラーク,伊藤典夫
 【面白さ・B】 S.キューブリックの映画としても有名な本作ですが、映画はクラークとキューブリックの共同で撮られたもので、原作者の一人が執筆したという意味で、こちらも本家本元の「2001年宇宙の旅」です。
 映画の方は、言葉による説明がほとんどないのですが、小説のこちらはクラークの文体で物語が綴られていき、多くの謎が解明されていきます。(素人が)一言で表すなら本作は「人類進化の物語」でしょうか。原始時代の猿、そして宇宙進出を果たした人類が、次のステップに進み、新たな存在と化すときにはいつもあの黒いモノリスがそばにありました。「映画は観たけど、よくわかんかったな」という人にもオススメです。
2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫 SF 243)

2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫 SF 243)

 

 

 
 【面白さ・C】 村上春樹の長編小説。恋人を失った少女に寄り添い生きようとする青年の物語。村上小説には珍しく主人公が若いです(とはいうものの、本編の大部分は大人になった主人公の回想録となっていますが)。
 初期村上春樹(というものがあれば)の冷笑的なスタンスの主人公の喋りと、数名の女の子、個性的でどこか寂しげな友人たち。飽きなく読み進められますが、主人公が頻繁に女の子たちとSEXするのでときおりムカつきます。読んで損はありませんのおすすめです。

 

 
18.『図解雑学 フロイト精神分析鈴木晶
 【面白さ・C】 フロイト精神分析理論をわかりやすく図説した一冊。「さわりだけ」という感じもありますが主要な理論のアウトラインは抑えているので入門にはぴったりです。読みやすく大変goodです。アマゾンでやけに高騰しているので図書館を探すのがよいでしょう。
フロイトの精神分析 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!-)

フロイトの精神分析 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!-)

 

 

 

19.『風と光と二十の私と・いずこへ』坂口安吾
 【面白さ・-】 坂口安吾の短編集。内容を覚えてないよう。なので安吾について述べるとこの人の文章では、『堕落論』に入っているエッセイ「日本文化私観」、そして小説の「白痴」が大変面白いです。古い人のわり文章が読みやすいのでぜひ読んでみよう!
風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇 (岩波文庫)

 

 

 

20.『やさしい女・白夜』ドストエフスキー,井桁貞義訳
 【面白さ・-】なにも覚えてません(半ギレ)
やさしい女・白夜 (講談社文芸文庫)

やさしい女・白夜 (講談社文芸文庫)

 

 

 
21.「ナイス・エイジ」鴻池留衣
 【面白さ・C】 去年の群像新人賞でデビューした新人作家の二作目。私が読んだときは雑誌掲載でしたが、今は、しゃれたデザインの単行本になっています。元アイドルのAV女優がネット掲示板の未来人スレのオフ会で未来からきた孫に会うという奇妙奇天烈な物語。それなりに面白いですが、人間的な面白さには欠けるかもしれません。著者前作(つまりデビュー作)の「二人組み」の方はめちゃくちゃイイので是非読んでみてください。両作とも単行本『ナイス・エイジ』に収録されています。*著者読み方は「こうのいけ・るい」さんです。
ナイス・エイジ

ナイス・エイジ

 

 

 

22.『村上春樹全作品1990-2000,6  アンダーグラウンド村上春樹 
 【面白さ・-】 村上春樹が1995年に起きた地下鉄サリン事件の被害者の方々や、未曽有の人災に対応した現場の人々に直接インタビューを行ったノンフィクション対談集
 被害に遭った人々は普段通りの通勤電車の中で、サリンの匂いを嗅ぐもののそれが何かは気づかない。「おや、おかしいな」なんて思ったころには身体がうまく動かなくなっている。そのまま救急搬送されるかたもいれば、職場まで行ってからサリンの症状に気付く人もいる。元気に日々の生活に復帰した方もいれば、心や、あるいは身体に一生の傷を負った方いました。事件で亡くなった方もいます。彼らが元凶であるオウムについて抱く感情はさまざまです。フィクションではない、実際の経験が村上でなく当事者の言葉で語られる本書は、テロという直接暴力の被害者の言葉を聞くことに大変な意義があるものと思います
 また村上があとがきに寄せている、誰かの、恣意的で利己的な物語の恐ろしさについての考察と、またそれに対抗するための小説という発想は文学の存在意義の根底にある一つの希望にも思えます。

 

 
 【面白さ・】 村上春樹の長編小説。父親から離れ「家を出ていく」ことを決意した十五歳の少年の物語村上春樹特有の「不思議な感じ」が全開になった一冊。家出少年のカフカくん猫と話せる放浪老人のナカタさんの二人の物語が交互の章立てでつづられていきます。村上春樹の小説は読みやすい文章なんだか分からない物語の二つの特徴があり、本作はそれが顕著に出ています。
 カフカくんの本筋の物語は複雑でメタフォリカルに進んでいきますが、一方ナカタさんの物語は、比較的わかりやすく、また素直な物語の面白さがふんだんに込められています。私は村上春樹の小説では、これが一番好きです。
海辺のカフカ 全2巻 完結セット (新潮文庫)

海辺のカフカ 全2巻 完結セット (新潮文庫)

 

 

 
24.『暗闇のスキャナー』P.K.ディック,山形浩生
 【面白さ・D】 三度目の正直で読んだディック。やはり長く、大変読みずらいですヤク中の振りをしながらヤク中グループに潜入する捜査員の主人公が、次第に捜査員としての自分か、ヤク中としての自分かが分からなくなるという物語。結末まで追えばそれなりには面白いですが、読むには根性が要りました。
暗闇のスキャナー (創元SF文庫)
 

 

 
 【面白さ・C】 ”1984”と同じくらい有名な政治小説、「動物農場」が収録された短編集です。農場の動物たちが、賢い豚たちを筆頭に乱暴な農場主を追い出すことに成功しますが、彼らのリーダーとなった豚たちが人間にとって代わって圧政を強いるようになるという物語
 明らかに全体主義を風刺した構成になっていて、wikiによると旧ソ連の政治家たちがモデルになっているそうです。初めは気高い思想のもと為された革命が、腐敗した指導者によって書き換えられていく様が不安を掻き立てます。収録されている他の短編の「象を撃つ」という白人警官が暴れ象をライフルで撃ち殺すというごく短い物語があるのですが、そちらの方が僕は好きでした。

 *リンクの角川版には「象を撃つ」は収録されていないようです。ご注意ください。私が読んだものは「角川文庫クラシックス」というレーベルから1998年に出たものでした。

 
 
26.大江健三郎自選短篇』大江健三郎
 【面白さ・】 日本人二人目のノーベル文学賞作家・大江健三郎の短編集。コロコロコミックくらいの分厚さ岩波文庫に入っています。大江の短編のいくつかを初期・中期・後期の三期間に分類して大江の自選から収録しています。一つ一つが短いのであっさりと読めます。私のおすすめは「人間の羊」「空の怪物アグイー」です。
 大江健三郎は、どちらかというと生々しく残酷で、嫌な話を書くのが上手い気がしますが、「中期」以降の、大江自身の息子「イーヨー」(本名大江光。ピアニスト。知的障碍者。)をテーマとした「静かな生活」などの一群の短編は、危うさの中にも穏やかな、大江の望む平和の世界観が伺えます。鞄に入れると重いですが、読んで損なし。買いましょう。
大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)

大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)

 

 

 
27.『銃』中村文則
 【面白さ・B】 最近映画化作品が連発しているイケイケ芥川賞作家・中村文則のデビュー作にして芥川賞候補作品。死体の傍に落ちていた拳銃に惚れこんでしまった男がそれを密かに携帯し続けることの異様な興奮に溺れていくという物語。
 冒頭の数行の文章が神がったレベルで美しいのですが、物語が進むにつれてダレ始め、途中からは「これは期待外れかもしれない」とほとんど絶望で読み続けていました。それでもクライマックスの切迫はさすがの人気作家という感じで面白く読むことが出来ました。
銃

 

 

 
28.『騎士団長殺し  第1部顕れるイデア村上春樹
29.『騎士団長殺し  第2部遷ろうメタファー編村上春樹
 【面白さ・D】 村上春樹の最新の長編小説。奥さんに不明の理由で捨てられた中年画家が、「騎士団長殺し」というタイトルの日本画と出会うことで奇妙な世界にいざなわれていくという内容
 全作を網羅したわけではありませんが、村上春樹の中でも突出して難解かつ奇妙な物語であると感じました。また例の如く読みやすさは大変いいのですが、過去作に比して物語的な面白さに弱いところがあります。正直イマイチ。余談ですが今年七月号の文芸誌「文学界」に村上春樹の新作短編が載るのでみんな文学界買いましょう。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

 

30.『雪国』川端康成
 【面白さ・】 おなじみノーベル賞川端康成の代表作。たいへん読みにくく、またこの時代の風土や文化を解さない無知であるところの私には、川端の良さを理解する能力に欠け、日本文学の最高峰の一個を肯定的に捉えることが全く出来ませんでした。おれにはないんだよ!教養が!(逆ギレ)
雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))

 

 

 

  【面白さ・】 こちらもノーベル文学賞受賞者。コロンビアの小説家、G.ガルシア・マルケスの代表作です。コロンビアの田舎町・マコンドにやって来たブエンディア一家の盛衰を描いた幻想小説
 ラテンアメリカ文学とかマジックレアリズムとか難しい言葉で評する人が多いですが、そんなことは一ミリも知らずとも十分に面白い私も知りません)ので絶対読みましょう。マコンドの人々の泥臭い人間劇と、町が滅ぶその瞬間まで描き切った壮大な運命の物語は絶品です。ちなみに私が一番好きな登場人物は、引きこもり・陰キャロリコン・ヤリチン・老け顔・革命家・高級士官といった七色の顔をもつアウレリャノ・ブエンディアくんです。
百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

 

 

 【面白さ・C】 三島由紀夫の長編小説。同性愛の傾向をもつ少年が、青年期に終戦を経験し、そしてそれからの青春をつづった小説。常に自己を省みるような主人公の心の在り方にどきりとさせられるような手ごたえがあります。正直もっと生臭いホモ描写を期待していた手前、肩透かしを食らった感がありましたが、脇毛のシーンとかは結構キツイので読者は覚悟せよ。
仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

 

 
33.『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』川島博之
 【面白さ・C】 現在の中華人民共和国が「農村民」と「都市民」を分離し、戸籍隔離政策を、事実上の差別政策を行っていることを主題にして、中国政治の歪みをわかりやすい文体で解説した一冊。内容は良いのだが、ところどころに「過剰な私見」というか、若干保守的で偏った価値判断が見られるところがネック。オススメはできるが、書物に書かれてあることが、全て無条件に信ずるべきものというわけではないという前提を忘れずに読んでいただきたい(というか、この「この講談社+α文庫」というレーベル自体が、割と”右より”のようです)
戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊 (講談社+α新書)

戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊 (講談社+α新書)

 

 

 
34.『みずから我が涙をぬぐいたまう日』大江健三郎
 【面白さ・D】 三島由紀夫の自殺を受けて書いた(らしい)二つの短編小説が収録されたもの。どちらも結構イカれた感じの物語で一言で説明するのは不可能。それでもするとなると、表題作「みずから我が涙をぬぐいたまう日病気で瀕死の男が自分の少年期の思い出を「看護婦」に記録させんと内容をつづるもので、もう一方の「月の男」主人公が、旧友が交際する神経衰弱の米国人について、その思い出を語るというもの。やはりどこかイヤらしく、不気味な雰囲気があります。難解。
みずから我が涙をぬぐいたまう日 (講談社文芸文庫)

みずから我が涙をぬぐいたまう日 (講談社文芸文庫)

 

 

 
35.『哲学がわかる本』竹田青嗣 監修
 【面白さ・C】 いわゆるコンビニ本。高名な哲学者を一人数ページで概説したもの。わかりやすいが、その分あっさりしていて結局なんのことだったのかは分からないという読後感。哲学に初めて触れる、のならこういうものもいいんじゃないでしょうか(実際私がそうです)。過去の哲学者の思想のみならず、その生活や人生・逸話についても軽く触れていてそういうところは非常に良いと思いました。
図解 哲学がわかる本

図解 哲学がわかる本

 

 

 

 【面白さ・C】 ガルシア・マルケスの短編集。このひとは基本的にファンタジーを書くのでやはり収録作は全てファンタジーなのですが、どこか政治的な雰囲気がこもった作品もあります。
 オススメは表題作の「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」と、《選挙のために田舎町に訪れた政治家が、ほれ込んだ女の子がいたけどその子のお父さんの賄賂を受け取らないと貞操帯がはずしてもらえないのでエッチなことができず、しょうがないので抱きしめてもらう》という強烈な短編です(タイトルは忘れました)。面白いです。
エレンディラ (ちくま文庫)

エレンディラ (ちくま文庫)

 

 

 
37.「陋劣夜曲」西村賢太
 【面白さ・C】 日本を代表する純文学作家西村賢太先生の短編。文芸誌「群像」の2018年1月号に収録されています。読み方は「ろうれつやきょく」のようです。先生知性溢れる語彙が光ります。日雇い労働に従事する陰鬱な青年の日々を描いた作品。自らの怠惰や堕落を認識しながらも、どうにか生きていくしかない人間のもの悲しさをコミカルに描くことに見事に成功した逸品です(コメディではありませんが)。オススメです。
群像 2018年 01 月号 [雑誌]

群像 2018年 01 月号 [雑誌]

 

 

 
 
38.夢十夜 他二篇』夏目漱石
 【面白さ・B】 2017年最後を飾るのは、文豪・夏目漱石の短編集です。表題作「夢十夜は「こんな夢を見た。」で始まる十個の掌編で構成されています。中でも第一夜は、しょっぱなから大変な情景を描いていて、「さっぱり意味わからんけれど、確かにこの文章はとても美しい」と高校生であったころの私にも思わせる傑作です。おそらく日本で純文学とか呼ばれるものというのは、このようなものを指しているのだろうと思ったほどでした。
 他に収録されているものとして、漱石がロンドンに留学したときにお世話になっていたシェイクスピア研究家のお爺さんの話が好きです。当たり前ですが漱石著作権が切れていて、全作(たぶん)が青空文庫でタダ読み放題です。ヒマな方は読んでみてください。
夢十夜 他二篇 (岩波文庫)

夢十夜 他二篇 (岩波文庫)

 

 

 

総評

 以上が2017年に私が読んだ作品の全てです。いかがでしたでしょうか? 読んだ本をメモったりその感想を書いたりするのは、今回が初めてのことでした。

 やはり海辺のカフカ百年の孤独に当たれたのは大変ラッキーだったと思います。この年は他にも、カラマーゾフの兄弟』『地下室の手記ドストエフスキー)や『夜間飛行』サン・テグジュペリ)、善の研究西田幾多郎)などにも挑みましたが、途中でギブアップしました。もう読書を趣味と騙るのはやめておこうかなと考えております。

 また、「一週間かけて読んだ本の内容を完全に忘れていることがある」という事実を本稿の執筆にあたって突き付けられたのは、個人的にクる事実でした。でもしょうがないですよね。簡単に忘れられる内容の本を書いたという意味では、責任は作家さんサイドにあるのではないでしょうか(不遜)。

 

 ここまで読んでいただけたことにお礼申し上げます。もし記述に何か間違いがあれば指摘していただければ幸いです。それでは。

「輪るピングドラム」考察補論―未だ語り得ぬ物語について

*本文にはアニメーション作品「輪るピングドラム」のネタバレや個人的解釈が含まれます。

また私の「輪るピングドラム」解釈についてその本筋は、過去の記事↓

pyhosceliss.hatenablog.com

に詳しくありますので、ぜひそちらを読んでいただきたく思います。上の議論を前提にこちらでも考察を展開させていただきます。

 

 

未だ語り得ぬ物語

 「輪るピングドラム」についての私の考えは以前のものに完了したわけではなく、未だ触れていないが、触れるべきセリフ・演出が数多く存在します。故に、散乱した形ではありますが、ここに解釈の種とでも呼ぶべきようなものを、随時更新していこうと考えております。

 

一、渡瀬眞悧という「人間」

 本編後半から現れた二人の重要人物、渡瀬眞悧(サネトシ)と荻野目桃果(モモカ)ですが私の以前の考察では、対立するタナトス(死・破壊)」「エロス(愛・保護・創造)」のメタファとして紹介していました。

 「精神分析学」において、これら二つの属性は人間心理の根源にあると考えられ〔この点については諸説があります〕、つまりは我々人間において、誰もが持っている属性であるということが、肝要となります。我々はエロスのみでなく、タナトスもまた抱えて生きていることになります。逆に考えれば、私たちが社会を構成して、数々の瑕疵がありながらも、ごく一部分的に平和を作りあげているのは、エロス起因であり、そして、世界の悲しみや悲惨を生み出すものは、一方のタナトス起因であると言えるでしょう。我々はこの二元的な要素の両方を心に宿しており、どちらかが優位になればそれに付随した行動をするわけです。

 テロリズムとそれに対する不服従の対抗のように、エロスとタナトスは現実世界に発現したとき対立する関係になります。しかし、実際の人間の中では渾然一体としたかたちで深く混ざり合っています。

 理論はこの程度に、「輪るピングドラム」に話を戻しましょう。我々が注目すべきは、やはり物語の鍵を握るあの男、渡瀬眞悧です。

 前回の「輪るピングドラム」考察では、モモカもサネトシも共に人間ではなく、これらはそれぞれエロスとタナトスの化身であり、「人間と呼ぶのは適切ではない」と述べましたが、れを撤回せざるを得ない考えが浮かびあがりました。特にサネトシについて、彼の振る舞いはタナトスの化身」と称するにはあまりに人間的であり過ぎます。

 それはサネトシと、彼の傍にいる二匹の黒兎・シラセとソウヤのいくつかのセリフから読み取れます〔シラセとソウヤは、サネトシの眷属のような、下位の存在のようにも見えますが、十六年前のテロ決行日におけるサネトシとモモカの対決とその結果から考えて、サネトシとイコールの存在と考えていいでしょう〕

「ぼくは何者にもなれなかった。」

「いや、ぼくはついに力を手に入れたんだ。」

「ぼくを必要としなかった世界に復讐するんだ。」

「やっとぼくは透明じゃなくなるんだ。」

*「輪るピングドラム」第二十三話より、シラセとソウヤのセリフ

出口なんてどこにもないんだ……誰も救えやしない。

だからさ、壊すしかないんだ……箱を。人を。世界を。

*「輪るピングドラム」第二十三話より、サネトシのセリフ

  これらのセリフを参照することで、サネトシの過去のようなものが垣間見ることが出来ます。

 サネトシは、「世界に必要とされなかった」→「必要とされたかった」。

 サネトシは、「『透明な存在』でなくなる」→「『透明な存在』だった」。

 ゆえに彼は、復讐としてのタナトスの発動を、世界の破壊をもくろんだわけです。

 

*「透明な存在」とは、このアニメ作品において、「与えられるべき愛を喪失した人間」が陥る絶望状態のようなものだと、前回の考察で解釈しています。またこの「透明な存在」というキーワードは、神戸連続児童殺傷事件=通称「酒鬼薔薇事件」の犯人(当時中学生)が自身を指してそう呼んだともされています。

 

 ここで判明する事実として、サネトシは、純粋な破壊の精神(=タナトスの化身)としての特徴を持ちながらも、一方、彼は「傷ついた一個の人間」であり、また「世界に絶望したひと」であったということが分かります。彼もまた、〈物語=運命〉の波に翻弄されたキャラクターの一人なのです。

 そしてさらに、渡瀬眞悧という「人間」のその性質が見られる興味深いセリフが存在します。

以下、長い引用。

その女の子はね、突然僕の前に現れたんだ。

驚いたことに彼女はね、僕と同じ種類の人間だったよ。僕とおなじ瞳。

出会った瞬間、僕はこの世界で独りぼっちじゃなかったことを知ったよ。

そうなんだよ。彼女に出会うまで、僕はこの世界に独りだったからね。

僕に見える風景は僕以外の誰にも見えない。

僕が聞こえる音は僕以外の誰にも聞こえない。

でも、世界中のひとの声が聞こえていたんだ。

世界中の”助けて”って声が聞こえたんだ。

だから世界の進むべき方向も、僕には見えていたんだ。

でも、だから悲しかったよ。

だって彼女と出会った瞬間、

僕たちは絶対に交わらないって分かったから。

彼女は僕の味方になってくれなかった。彼女は僕を否定したんだ。

同じ風景が見える唯一の存在である僕を否定した。

*「輪るピングドラム」第十三話より、サネトシのセリフ

  サネトシが「十六年前に出会った女の子」となると、それはほかでもなく、もう一方の欲動・エロスを司る存在、モモカのことを指しているのが分かります。

 この世に人間として生まれてきたサネトシは、しかしやはりタナトスとして、「世界の行き詰まり」を破壊することを目的に生きてきたのでしょう。その人生の中で彼は、「透明な存在」になってしまったのかもしれません。彼がタナトスの化身と化したのは「透明な存在」になってしまったが故なのか、それとも生来のもの、まさに〈運命〉として彼は世界の破壊を選択したのか、私はこれは後者が当たると考えます。というよりは、〈運命〉的に世界の破壊属性を代表して現れたサネトシだからこそ、世界のひずみを受け取り、また「透明な存在」となったと考えることが自然でしょう。

 そんなサネトシが出会ったのが、同じ様に世界を見ていた「同じ種類の人間」である少女、モモカでした。彼は独りぼっちだと自分でもそう思っていたところに、またそうして自分を独りぼっちにした世界への復讐としての破壊をもたらそうとする直前(十六年前のテロ)に同族であるモモカと出会います。

 このシーンは本編23話冒頭において明らかになっています。二人は初対面であるはずながら、さながら平家武士のように迷いなく互いに名乗りをあげ、そして自分たちが絶対の敵対にあることを理解しています。モモカは、強大なサネトシという悪に向かって毅然とした顔つきをしていますが、一方サネトシはどこか弛緩した、何か嬉しそうな表情さえ浮かべています。それも上の引用から分かるように、彼はその時初めて、自分を理解してくれる可能性のある、愛すべき人間に出会ったわけです。

 しかしまた、同時に彼はその恋(サネトシは、モモカに対して恋心を抱いています。「恋人」「花嫁」といった単語を、彼は何度か使用していますが、それは全て、明らかにモモカに向けてのものでした)は瞬時に破綻してしまいます。モモカはサネトシを否定しました。おそらく、モモカにとっても「同種の人間」に出会ったのは初めてであったと思われます。二人は、出会って、互いに同じ類の人間であることを知って、そしてまた、それゆえに反目せざるを得なかった。それはサネトシは世界を破壊するために生きており、またモモカは世界を保護するために生きているからです。

*また、ことあるごとにサネトシは自身の野望、すなわち世界の破壊をモモカに見せつけることに言及しています。非常に歪んだ形ではありますが、「自分を決して受け入れない想い人に対して、かえってその人が望まないようなことであっても、自分の欲望を満たそうとする」という恋愛のかたちに、私たちは非常に人間的なものを感じるのではないでしょうか。

 そして「十六年前」の決着ののち、物語舞台の現代時間において、もう一度二人の対決が始まります。次は彼ら自身ではなく、高倉兄弟という二人の少年が役割を代理してそれを実行することになりました。

  さて、サネトシの人間的な側面について触れたわけですが、ここでまた、彼のセリフの中に注目すべきものが残っていたことに気付きます。以下引用です。

君たちは決して「呪い」から出ることはできない。

〔中略〕

「列車」はまた来るさ。

*「輪るピングドラム」第二十四話より、サネトシのセリフ

 上のセリフは、高倉冠葉に向けたものでしたが、これを世界全体に向けた言葉として読み直すことが可能です。この場合、「呪い」とはサネトシ自身、つまりタナトスの意志であることが伺えます。一度、エロスとタナトスの大きな闘いにエロスが勝利したからといって、それで人間の破壊欲動・攻撃欲動が消えてなくなることはないということの暗示であると言えます。彼ら(高倉家の人々や荻野目萃果)はタナトスの発動を防ぐことに成功しましたが、それによって彼らは自分たちの幸福を獲得したに過ぎず、世界ではいつでも破壊や攻撃がどこかで行われ続けているのでしょう(これは我々の生きる世界にも同じことですが)。

 そして下のセリフ、こちらはモモカとサネトシの会話の中での発言ですが、やはりここでも、「列車」つまり、呪い・幽霊と化したサネトシが、再び発現して世界に干渉する機会があるということを示しています。エロスが不滅であるように、またタナトスも不滅であるわけです。

*余談ですが、ここでモモカは列車のレールが敷かれた舞台から去っていきます。サネトシとモモカはここで自分が乗るべき「列車」を待っていたようでしたが、モモカのほうはそれを放棄して、どこか闇の中、緞帳の奥に消えていきます。このとき、サネトシは残り続けるわけですが、彼の振る舞いがどこか悲し気である点が、物語に非常な美しさを生み出しています。

サネトシは、いつも我々を見ているのだということが、物語でははっきりと示されています。

 

 

二、「エロスの継承」という世界の生存戦略

 本編最終話のクライマックス「運命の乗り換え」直後では、二つの人間原理の化身であり、また確かな人格を持った二人の人間・サネトシとモモカの最後の会話があります。サネトシの敗北という形で決着した物語でしたが、ここで世界から去ってゆくのはなぜか世界を守ったはずのモモカの方でした。

 なぜ彼女は世界の舞台から去っていったのか? そしてエロス(世界の保護を司る巨大な精神)の化身である彼女がいなくなったとき、誰がその代わりを務めるのか? 二つの疑問が我々の前に突き出されます。この謎を解き明かす鍵となるのは作中に何度も登場したあの場所、「運命の至る場所」です。

 「運命の至る場所」、この言葉を作中で初めて口にしたのはあの人物でした。一連の内容を以下に引きます。

わらわはお前たちの運命の至る場所からきた。

喜べ。わらわはこの娘の余命をいささか延ばしてやることにした。

もしこのままこの娘を生かしておきたくば……

輪るピングドラム」第一話より

 病弱の少女・高倉陽毬がペンギン帽子を被ったときまるで二重人格のように現れるあの人物、プリンセス・オブ・ザ・クリスタル(以下プリクリ)のセリフが上のものです。彼女は何者なのでしょうか。ここでは、プリクリが荻野目桃果の分身であると考えることにします。十六年前の対決で、モモカは二つのペンギン帽子に分離して世界に残ったわけですが、その片方を夏芽マリオが、そしてもう片方をヒマリが、まるでそれらに選ばれたかのように被ることになりました。プリクリはことあるごとにピングドラムの回収を高倉兄弟に命じるところ、プリクリはやはり、サネトシに対抗して世界を救おうとするモモカの分身であるといっていいでしょう。

 それでは「運命の至る場所」とはいったいどこなのか。本編第二十三話のサブタイトルがそのまま「運命の至る場所」であることからその冒頭、サネトシとモモカの対決のシーン、あの空間こそが「運命の至る場所」と言えます。しかし、「つまり十六年前の、サネトシが爆破テロを発動する直前のあの列車の中」が「運命の至る場所」なのではありません。「運命」「至る」「場所」。これはつまり、「世界が運命的にその場所に必ず収束して、そこに至る」ということでもあります。十六年前のあの場所で起きたのは、ただの不完全なテロ事件ではありませんでした。あの場所で起きたこと本質的に捉え直せば、あそこで起きたことというのは、界の巨大な二つの精神の対決と一時的な決着でした。つまり、愛と憎悪の、創造と破壊の、エロスとタナトスの、モモカとサネトシの対決です。

 世界は常に、エロスとタナトスの対立によって構成されていて、「輪るピングドラム」世界におけるこの対立の歴史的なワンシーンが、渡瀬眞悧と荻野目桃果の対決であり、またその十六年後の、高倉兄妹の和解でもあるのです。そして象徴的にも、その両方は、「列車」の中で行われています。

 これによってプリクリが「運命の至る場所」から来た、ということにも説明がつくようになります。サネトシとモモカ(≒プリクリ)は十六年前の対決以来、両者ともの現実世界から排除されていました。サネトシは「運命の乗り換え」で、モモカは「呪い」で、お互いに刺し違える形で、互いを現実には干渉できない(しにくい)ところに排したわけです。では彼らは、十六年後の物語世界に登場し始めるまでどこにいたのか。それが「運命の至る場所」です。彼らは、二人ともモモカによる「運命の乗り換え」の不完全な乗り換えの前の列車(世界)に閉じ込められました。そして二人は、自分たちの後継となりうる、それぞれの精神の継承者がそれを発動する機会を待っていたのです。 サネトシは高倉冠葉を選びました。そしてモモカが選んだのは高倉晶馬と、そしてまた高倉冠葉の二人、高倉兄弟の両方でした。

  そして物語において、サネトシは再び敗北し、世界は救われました。それではモモカの精神、エロス(保護と創造)の精神を継承した高倉兄弟はどうなったのか。彼らはそれぞれ罰を受けました。冠葉は、サネトシにかどわかされていた間の犠牲を生み出していた罪について。〔→最終話クライマックスで、冠葉の身体から噴き出す赤い欠片と苦しむ彼、そして最後には砕け散っていく彼の肉体を、私は彼自身が押し込めていた後悔や罪に対する苦悩の結果であると解釈しています〕そして晶馬は、萃果による「運命の乗り換え」の代償を肩代わりすることによってです。二人はそのあとの、「乗り換え後」の世界には存在していません。彼らの存在は世界から消されてしまいました(それでも、一部の人達は決してそれを忘れません。その点については前回の考察が関連しています)。しかし彼らは、最後により幼い少年の姿になって並んで歩いている姿が確認されます。

「ねぇ、ぼくたち、どこ行く?」

「どこへ行きたい?」

「そうだな……じゃあ……」

輪るピングドラム」最終話より 晶馬と冠葉のセリフ

  二人はどこへ行ったのでしょうか。直後のシーンでは陽毬の天蓋ベッドが夜空に浮かびあがることからも、彼らは自分たちが存在しない世界でも妹を見守り続けることを選んだともとれるでしょう。それも辻褄のあう解釈ですが、私はとくに支持したいのが、彼らはエロスの後継者として、モカの跡を継いだのではないか。というものです。

 二十三話では、モモカがペンギン帽子を通して晶馬に「あなたたちのピングドラムを見つけるのだと言っています。これはつまり、世界を保護する、破壊から守る「ピングドラム=愛」→参照とは「運命日記」だけではなく、それぞれの人間が「自分自身のピングドラム」を持ちうることのだと示唆しています。運命日記ではない、自身の「ピングドラム=愛」(高倉兄弟の場合、分け合ったリンゴがそれに相応しいでしょう)を獲得した彼らは、自ら世界から去っていったあの少女の役目・使命を受け継いで、世界の守護者としてのステージに登壇したのではないか、と私は考えています。

 そこから導かれる推論としてあるのが以下のものです。プリクリが高倉陽毬の病弱を利用して、高倉兄弟にピングドラムを探させたことや、タナトスであるサネトシと対決させたことというのは、モモカによる世界そのものの生存戦略なのではないでしょうか。サネトシというどこまでも破壊と死を追求する怪物に、戦略的に立ち向かう術として彼女が選択したものがピングドラムであり、また高倉兄弟への命令であったわけです。そうすると、プリクリが現れるイリュージョンの中で、彼女が最後に必ず言い放っていた提案の本当の意味も、少し見えてくるような気がします。

 

 

三、罪のひと・運命の奴隷・半分のりんご―高倉晶馬

  本作は第一話より、常に冠葉と晶馬の対比が描かれています。プレイボーイでガサツ、またある種のマキャベリズム〔目的のためには手段を選ばないとする思想〕さえ持ちうる冠葉と、真面目で誠実、違反や逸脱に厳しい晶馬という対照です。とくに晶馬のその倫理意識の高さや規範への忠誠はことあるごとに示されます。

 晶馬は、物語前半部分では、愛のため違法行為さえ憚らないクレイジーな少女、荻野目萃果に付き添って彼女の暴走をちくいち咎めます。自他を問わず厳しい監視の態度で生きる彼には、つよい良心の枷があるように思えます。コメディ・パートでは「ツッコミ役」であった彼の振る舞いも全ては彼の過剰な罪の意識から来ているのかもしれません。

 彼の罪の意識とはなんなのか? それが顕著に示されるのは本編第十二話、「メリーさん」の挿話です。あまりにも意味ありげなこの挿話ですが、この短い物語に「輪るピングドラム」全体としての意味を見出すのはナンセンスであると言えるでしょう。むしろここでは、この悲しいおとぎ話が、晶馬の言葉として語られたことに我々は注目すべきです。

 晶馬の罪責感の発露は萃果への高倉家の秘密の告白から始まります(第十二話)。そして、ついにプリクリのイリュージョンが終わり、陽毬の延命が同時に終わるとき彼は「メリーさん」を唱えながら、絶望に打ちひしがれました。ここから分かる(というか自明ですが)つまり、高倉家における罰は「理不尽な陽毬の死」であるわけです。では罪とはなんでしょうか。これも明らかに示されていますが、つまりは「高倉夫妻(=ピングフォース・企鵝の会)によるテロ」ということになります。晶馬は彼自身による行為ではない責任について、それを背負って(というよりも当然の帰結だと思い込んで)います。

 彼の苦悩は陽毬の(なんども繰り返される)「理不尽な死」にあるわけですが、つまりこれは晶馬自身が、「陽毬が罪を負って罰を受けるのは筋が通っていない」と思っているということです。同じことを、晶馬は冠葉に対しても思っています。

 なぜなら直截に高倉夫妻の罪を継承すべきなのは晶馬のみである、すなわち罪の血統を引くのは実子である高倉晶馬だけであるからです。この血統の事実が晶馬の強い罪の意識を由来しているのは作中でも言及されており、明らかな情報であると言えます。また、「透明な存在」になりつつあった陽毬を救いだして家族に迎え入れたのも晶馬でした。高倉家の罪を条理に適った形で背負うのは彼であるはずが、それは理不尽にも陽毬に課せられます。

  晶馬の罪責意識と共に我々が分析しうるものは、彼の世界観です。世界観とはつまり、その個人が、世界の解釈をどのように行っているかという目線のことです。

あるひとは「この世の中は才能とお金がすべてだ」というかもしれませんし、またあるひとは「世界は愛情によって動かされている」と考えるかもしれません。あるいは宗教家であれば、「世界は神さまがつくったものなので、全てには意味があるのだ」(目的論的世界観)とするかもしれせんし、一方で我々の時代を生きる人々なら、「世界は物理法則で成り立っているのであって、人間でさえも、生物として動くだけの一つのシステムに過ぎないんだ」(機械論的世界観)とする方が多いのではないでしょうか。ここではこういった考え方、世界の捉え方を、世界観とみなします。

 では、晶馬の世界観とはなんなのでしょうか。それは以下ようなものだと推測できます。

 

「世界は運命によって既に定めらていて、人間の罪と罰でさえも理不尽に決定されている。それを人間が覆すことはできない」

 

 私がしばしば理論を引くフロイトは、運命の力のことをギリシャ神話の運命の女神、「アナンケー」の名を借りて表現します。アナンケーの力は人間には対抗の方法がありません。わたしたちは、例えばとてつもない不幸や理不尽に直面したとき、あるいは誰かに責任を投げかけたり、自分の行動を改めたりするわけですが、もしそれが、全く予想のしようのない、回避も防衛も不可能なものであった場合、しばしば運命の残酷さ、アナンケーの御業を実感することになります。しかしここで、あるいはこういった反論があるかもしれません。

 

「確かに運命は作中で頻出するキーワードではあるけれど、第一話から晶馬は『運命って言葉が嫌いだ』と否定しているじゃないか。そんな彼が、《運命絶対世界観》を抱えるわけがないのではないだろうか」

 

 それでは、第一話の晶馬のモノローグをここに引いてみましょう。

僕は、運命って言葉が嫌いだ。

生まれ、出会い、分かれ、成功と失敗、人生の幸不幸。

それらがあらかじめ運命によって決めらているのなら、

僕たちはなんのために生まれてくるのだろう。

裕福な家庭に生まれるひと、美しい母親から生まれるひと、

飢餓や戦争のまっただなかに生まれるひと。

それらがすべて運命だとすれば、

神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。

あの時から僕たちには未来なんてなく、

ただきっと何者にもなれないことがはっきりしてたんだから。

 「輪るピングドラム」第一話より

 

 確かに彼は、物語の最も初めの部分で「運命の強制力」を否定しています。しかしここでは、彼のセリフをそのまま額面通り受けとることが解釈として適していません。ここでは、彼が「運命論」を嫌って、否定していることに注目します。ぜ彼はここまではっきりと、運命を否定するのでしょうか。その妥当な理由として私たちが挙げられるのは「彼自身が、運命の女神・アナンケーの力に大きく左右された人間であるから」です。

 “子は親を選べない”とはよく言われますが、まさに晶馬の人生はその一言から始めると言えるでしょう。彼が生まれたのは、テロリズム集団の指導的幹部である夫妻の下でした。そして「愛」によって陽毬を救済したわけですが、その大切な妹さえもやはり致命的難病という枷を受けることになります。このどちらもが、理不尽な運命、晶馬の行動や性格によらないものを要因とした不幸であるという共通点があります。

 こういった絶大な不幸を享受せざるを得ない晶馬は、どう考えるのか。自分の責任ではなく、まったくの無理由と理不尽によって人生をめちゃくちゃにされた彼はどう思うのか。その帰結は人間的にもごく自然なものです。

 理由がないもの・わからないものに対して人間は、そこに多少強引であってもなにかの理由を求めます自然法則に対し、科学的理解が及ばなかったことや、ある種の理不尽に対し、古代の人々は「神」の観念を生み出しました。では晶馬は理不尽に対して、どういった回答を行ったのでしょうか。晶馬は、そこに罪と罰を見出しました。

 罪と罰が自分の人生の根底にあると考えることで、彼は理不尽な不幸に対して、その理由を見つけるわけです。「僕が不幸なのは、僕が悪いからだ」と考えることで、たとえ今が不幸(罰)であっても、それは過去の罪(実の両親の罪の継承)に由来するものであって、今からの人生をよりよくしていけば、罰⇔罪のシステムにおいて、罪を回避できるわけです。

 それゆえに、彼は作中においてもとても倫理的な振る舞いを続けます。それは、彼が性格的に真面目であるという理由もあるかもしれませんが、それ以上に彼は、不幸を回避するため、あるいは今受けている罪を取り払うために、赦されるために正しくあろうとしているのだと言えます。

 自身の運命的不幸を、回復可能なもの、幸せになれるものだと認め直すためのロジックが晶馬の「罪と罰」の意識でした。しかしこれでは、彼が運命肯定の世界観を持っているというよりは、世界を「罪と罰」の原理で捉えているとするまた別の世界観が生まれるようであります。

 彼が本当に見ていた世界とはいったい何だったのでしょうか。―ここでやっと戻ってきますが―「メリーさんの羊」では、明らかに罪と罰」の原理を実行する女神(くしくも「女神」です。もしかすれば、彼女は運命の女神・アナンケーであるのかもしれません)が登場します。そして彼女は以下のようなことも言います。

 

―だって罰は、いちばん理不尽じゃないとね。

輪るピングドラム」第十二話より

 

 ここで、晶馬の語り=「メリーさんの羊」によって明かされるものがあります。「罰は理不尽に与えられる」ということです。晶馬は罪と罰によって理不尽に理由を与えますが、その一方で、罰もまた理不尽の性質が備わっているという無限の連鎖を、一種のトートロジー(一つの言葉を同じ言葉で説明すること。例:ピングドラムとは、ピングドラムのことである)を生み出します。

 つまり、彼は、世界を「運命が絶対」と、捉えながらも一方で、その理由のなさ、回避しようのない運命的不幸から脱却するために「罪と罰」を生み出し、さらにその「罰」には理不尽性があるとして、そこに無力感を覚え続けているわけです。

 そんな彼は、物語においてどういった心理的決着を導くのでしょうか。最終話のセリフをここに引いてみましょう。

 

僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんな分け合うんだ。

これが僕たちの始まり……運命だったんだ。

輪るピングドラム」第二十四話より

 

 愛も罰も分け合う。それが彼らの始まりであり、運命であった。それはつまり、高倉の三兄妹が家族を始めたことに通じます。彼らは自身らに降りかかった理不尽な苦しみを分かち合うことで、家族になりました。そのことだって、運命であったのだと彼は見なしたわけです。

 ここで彼は運命を受け入れています。運命を否定することを止め、また理不尽の理由づけを止めた彼は、運命という大きな流れの中で、苦痛の回避や悔悟ではなく、自分はなにをすべきかという世界に到達します。そしてその問いの答えに彼が選んだものが、「愛も罰も分け合うのだ」という結論です。これは「人生の幸福も、理不尽な苦しみも、人と分けかちあうことに意味がある」と読み替えてもいいでしょう。

 すなわち晶馬は、理不尽の苦しみ(罰)を、理由づけによる納得ではなく、愛するひとたちと一緒に共有すること(これは、自分の苦しみだけを誰かに押し付けることと同義ではありません。分かち合うことはすなわち、相手の苦しみもこちらに受けとることになります。)によって心を安めることを見つけたわけです。

 そして前回の考察のもっとも重要な箇所「互いに愛し合う=運命の果実を一緒に食べる」の観念参照に接続するわけですが、ここに現れたメタファとしてのりんご、半分のりんごについて少し言葉を割きたいと思います。

 なぜりんごは半分なのか。一つのまるごとのりんごを与えることは本作のテーマには合致しません。「りんご=愛・生命のメタファ」は、一人の人間から、分割されたものが他者に分け与えられる。それが愛です。もう少しこの箇所を読み解くために、もう一度フロイトの理論に立ち返る必要があります。

 フロイトは、人間の心のエネルギーを「リビドー(欲動)」と呼びました。しばしば彼の理論では、「人間の心はすべて性欲によって説明される」と総括されることが多いですが、「リビドー」はたんなる性欲ではなく、「性的な欲求が基盤としてあり、一方で総量に限界がある通貨のようなエネルギー」のように扱われます。

 リビドーは固定の量が人間ひとりに所与として存在すると考えられており、普段は自分に向けて「備給」(与え補給すること)されています。量に限界があるリビドーは以下の図のような扱い方がされます(これは一例です)。

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*『エロス論集』の出版は1994年ではなく、1997年です。画像のものはまちがいです。

 

 上の図はリビドーが健全に人に向かって与えられるものを描いたものです。もし片方からしかリビドーが与えられなければ(いわゆる片思いの状態)、その人は「こちらからはリビドーを与えているのに、向こうからのお返し」がないことに陥り、そこにはある種の苦痛が生まれます。

 私がここで示したいのは、「半分与えて、半分残す」という総量の計算のことではありません。ここで示しているのは、とは即ち、「自己に向けていたはずのものを、その一部を他者に分け与えること」であるというものです。自分を生かすためのエネルギーでもあるリビドーを、誰かのために分け与えることが愛であり、それはいわゆる性愛が伴わないものでもおなじこと(つまり家族愛・友愛・人類愛でもおなじ)です。

 物語に話を戻します。りんごを半分だけ分け与えるという行為、このメタファの意味は、自分が持っているものを、分け与えるという意味です。自分のものを無条件にまず相手に分け与えることが愛の始まりであり本質なのだということが、作中に現れる半分のりんごが示すものだと言えます。

 そしてまた、前掲の晶馬のセリフ「僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんな分け合うんだ」というものも、このことを示しています。愛とは一方的なものではなく(たとえ始まりは一方的なものでも、本統にある愛は分かち合うことにあります)、一つものを分け合い、互いに与え合うものであるということです。

 全てを分かち合うことが、運命を受け入れ、またその不条理を克服することの正解であると気づいた晶馬は、象徴的に現れるピングドラム=愛を陽毬へ渡し、そしてそれは冠葉に与えられます。晶馬と陽毬から愛を受けとった冠葉は「ほんとうの光」を見つけることで、最期の時間を愛のために使うことができます。

 晶馬は、絶望的な運命の呪いを愛によって克服し、「愛による犠牲」を選択するという一つの人間の発展過程を描いた存在であると考えることができます(この解釈は、個人的好みとしていささか人間性に欠けるよう思われますが)。

 「輪るピングドラム」がある種の群像劇の体裁で進行しているのは、このように様々なタイプの人間を描くことで、広汎にタイプが分かれる人々に対し、自己投影のスクリーンを幅広く提供していくためなのかもしれません。

 

 

四、利他的な愛・犠牲になること・与えられるもの―荻野目萃果

 「輪るピングドラム」は、第十四話からの、病院での眞悧の登場(つまり、タナトスの精神による高倉兄妹への干渉の本格化)から明らかに物語のメイン軸とでも呼ぶべきものが切り替わっています。ここでは、この第一話-第十三話までを「第一部」第十四話-第二十四話までを「第二部」と呼ぶことにすると、「第一部」では、不気味な謎が仄めかされつつもキャラクターたちは日常の中で、自分の生活に明け暮れています。そして「第二部」は、眞悧と桃果という超自然的・超人間的な存在が現れ始め、また徐々にメインキャラクターたちに過去が明らかになっていくという構成になっており、眞悧vs.桃果(=タナトスvs.エロス)の大きな世界の流れに翻弄されながらも、キャラクターたちは、自分なりの答えを見つけていくことになります。この構造は、幾原邦彦の代表作「少女革命ウテナ」にも見られる物語の語りの手法であると、私は考えています。

*ちなみに、ウテナの場合は、ウテナ・アンシー・暁生の三人の主軸の物語に付随する形で、生徒会メンバーや関係者たちの物語が各々のかたちで進行していくことになります。

 

 ここまでの文章(前回の考察と、今回の一章-三章)では、上に記した、「第二部」についての記述がほとんどでしたが、本章では、「第一部」についてその物語的意味を読んでいきたいと思います。

 

 「第一部」は「第二部」に比べコメディ要素が多く、また多く時間を割かれている「萃果の暴走」部分については、「第二部」からその結末にかけて描かれる大きな物語の流れの中には、あまり関連してきません。となると、「第一部」は「第二部」という大きな主題が描かれるステージの土台としての意味や、テレビアニメシリーズとして体裁を整えるためのワンクール分、あるいは幾原邦彦の文法を視聴者に馴染ませるための助走距離でしかなかったのか? というような疑問が浮かび上がります。しかし、それは「第一部」の流れを丁寧に追うことで払拭することができる疑問です。ここで解釈の筋道をうまく立てるために、私は一つの補助線を引きます。それは、荻野目萃果を「輪るピングドラム」の主人公としてみなすことです

 

 主人公という言葉は、本来この作品には相応しくないものであると私は思います。なぜなら、作中では、メインキャラ全員の物語を調和に導くために、群像劇のかたちを以て物語が進行していくからです。物語中に現れるすべての出来事や人々の心中を、把握できるのは受け取り手である私たちのみであって、たとえ神のような立場で、現実世界の生者たちを操作していた眞悧も桃果も、「家族の命」という大きな価値を使って、冠葉・晶馬・真砂子他を翻弄していたにすぎません。つまりは、ラクターたちそれぞれの独立した物語が存在しているわけです。それぞれが、壁にぶつかり、それを乗り越え、そして新しい答えを見つけていくという、作話の基本構造をなぞっているものが、複数のあるというのが、「輪るピングドラム」の物語構造のベースであるといえます。

 

 では、「荻野目萃果を主人公とする」ということに、どういう意味があるのか。それは、彼女が作中において、もっとも劇的な進化を遂げている点にあります。もう少しほぐして言えば、彼女がもっとも大きな振れ幅において、「利己性(=自分勝手)を脱却して利他性(=誰かのために)を獲得した」ということが重要なのです。利己者から利他者へと変化することは、つまり自己愛という<愛を自我に差し向けている状態>を、他者愛、<愛を他者に向けて差し向ける状態>に移り変わることと同じです。

 

 萃果は「第一部」において、多蕗との恋愛成就を目指すクレイジーな女の子として描かれています。しかしこの裏側には、姉であり、また故人である桃果の遺した運命日記を代行することで桃果に成り代わり、そして死んだ桃果に囚われ続ける両親の間を歪んだ形で結びつけ直し、家族の形を再び取り戻すという目的がありました。ここでの愛は、やはり自己愛的です。彼女は、「多蕗のため」に行動するのではなく、「多蕗を自分に惚れさせるため」に行動します。「第一部」において過激なコメディ演出が為されているのは、ある意味、萃果の未熟さ、幼稚性を表現する意図があったのかもしれません。第一部で描かれているのは、利己的な愛を絶対視している、愛の発展程度として未熟な少女としての萃果なのです。

 

 そして第二部の冒頭では、晶馬と萃果の行き違いが発生します。萃果は、ゆりの助言から、自分が、「家族の再形成」とは全く無関係な形で現れた高倉晶馬という少年に対して恋心を抱いているのだということに気付かされます。そして彼女は、晶馬に対して「かわいい女の子」演じて気を惹こうしますが、晶馬の暗い経験と、過去の因縁によってあしらわれてしまいます。ここで彼女は、今まで自分がやってきた恋愛の手段(つまり利己性に由来する愛)の限界に衝突します。「かわいい、外面の良い私」を見せて相手に惚れさせようとする恋愛手段から脱却した彼女は、そののち、多蕗の謀略によって傷ついた高倉兄妹により沿ったときには、「だから私のためにいてほしい」という自分の本心を打ち明けています。そしてこれ以降は、しばしば晶馬に寄り添い、彼が過去の因縁から苦悩するときには彼を支えようとする、利他性を発揮し始めます

 

 さらに最終話近くでは、燃える日記を守るために自らの身で抱え込んだり、また運命の乗り換えの呪文を唱えることで生まれる犠牲・代償を甘受してもなお、陽毬を守ろうとします。ここではついに、萃果が利他的な愛を獲得したことが描かれます。彼女は利他愛の最終的な境地である自己犠牲にまで至っています。自己犠牲とは即ち、そこで命を投げ捨ててでも、誰かのために尽くすことです。自分が犠牲になってでも、そのひとのことを守りたいという心の在り方は、まさに究極の利他性・自己犠牲の精神であると言えるでしょう。

 

<補考-自己犠牲に意味はあるのか?>

 自己犠牲にはどのような意味、あるいは価値があるのでしょうか。たとえば愛するひとのために命を奉げたとして、その愛するひとは、自分が命を賭してまで守ったとしても、いつかは自分のことを忘れて、その人生を勝手に生きることになるかもしれません。自己犠牲の瞬間は、甘美な自己満足の時間を過ごすことになるでしょうが、それでも、死んでしまえば自我は失われ、私たちは存在をなくしてしまいます。そのあとには、愛するひとを見守るというようなことは、現実にはできないでしょう。

 

 それでは、この作品で自己犠牲を描いたことに、肯定的に描いたことにはどんな意味があったのでしょうか。本作でモチーフとしてよく使われる「銀河鉄道の夜」(宮沢賢治,1934)でも、愛のために死ぬひと、自己犠牲の美しさが描かれます。列車の中で「萃果」をうけとるひとたちはみな、実は自己犠牲の中で命を失ったひとたちでした。「輪るピングドラム」の冒頭そのことが語られています。

 

 うがった見方をすれば、どちらの作品も「自己犠牲を過剰に美化しているだけの、欺瞞の物語だ」という批判を浴びせられるかもしれません。物語の特権によって、本当はすばらしくともなんともないもの(一つの価値観からみたときの判断に過ぎませんが)を感動的に描いたり、意味あるもの、重大なものとして表現することは昔から行われてきたことでした。特定の為政者を評価するための文学作品や、戦争肯定を目的に作られた映画などがこれにあてはまります。果たして「輪るピングドラム」もそうした歪んだ物語と同列に語っていいものなのでしょうか。

 

 ここで私たちには、「自分の愛するひとのために死ぬことは善いことか?」という問いに直面することになります。哲学、とくに倫理学の文献を紐解けばこの問いに対する「答えのようなもの」は現れますが、理性、論理的に導かれた答えにそのまま従うことが、私たちの人生にとって絶対の答えにはなりえないこともまた事実です(倫理学を否定する意図はありません。人間の善を論理的に追及する試みは、人間の生活において失われてはならない態度でもあります)。

 

 上記の問いについてここで答えを示すことは当然できません。しかしここでは、「輪るピングドラム」が私たちに与えるものについて語ることはできます。一つは上の問いです。本作を読み解くことで、多くの人が自己犠牲の是非について疑問を持つことができます。詭弁のようでもありますが、「問いを持つ」ということそのものには、大きな価値があります。そして第二にあるのが、「自己犠牲の選択肢を見つける」ことです。是非はさておき、私たちは、「自己犠牲」を自分の選択肢の一つとして捉えることができるようになります。本当に、自分が愛していて、命を懸けたってまったく惜しくもないようなもの、生命以上の価値を世界に認めるという考えを、「輪るピングドラム」は与えることになります。もちろんここには、その犠牲が確実な自己決定によるものであることが前提とされます。自己犠牲の言葉は、その性質上長らく悪用されてきたものでもあるからです。

 

 本編に話を戻しましょう。自己犠牲を選んだ(選ぶことができた)萃果は、最終的には乗り換え後の世界で生きることを、未来を獲得することができました。作中では自己犠牲の末にはこのような報酬があるという描かれ方がされています。愛の中でも最大のものである自己犠牲を選んだ彼女には、乗り換えの犠牲になる運命が待っていたはずが、晶馬によって、それは回避させられることになり、そして彼女は陽毬とともに乗り換え後の世界に移行します

 

 ここにはどういった意味が読み取れるのか。第一部からの萃果の変化に注目してみましょう。彼女ははじめ利己的で、盲目的な愛に生きていました。しかし、多蕗への愛が幻想であり、自分が本当に恋心を抱いているのは晶馬であることに気付いた彼女は、彼の運命や過去の因縁と衝突しながらも、利他的な愛に目覚め、そして自己犠牲を選択するに至りました。その果てに彼女は、ひとつの調和した幸せを手に入れることになります。これは確かに、「報酬」として読むことも可能のようです。自らを犠牲にしてでも何かを成し遂げようとする行為に対して、素晴らしい褒美が与えられるという物語の構造は古くからよく使われるものです。「輪るピングドラム」が一つの大きなテーマとして掲げているものが、「他者愛の推奨」というメッセージであるとするならば、その極地である「自己犠牲とその先の報酬」の意味も肯定的なものである必要があります。やはり本編でも、乗り換え後の萃果に後悔や不幸せが待ち受けているようではありません。

 

 ここで見るべきなのは、萃果の自己犠牲は(言葉の原義的には)失敗に終わっているという点です。順当な自己犠牲であれば、本人は愛する人を守るために命を投げ出して、それゆえに死に、そして愛する人は守られる。ということが為されるはずですが、萃果は、その犠牲を晶馬が肩代わりすることで生き延びてしまっています。姉の桃果は自己犠牲を完了していますが、妹はそうはならなかったわけです。自己犠牲の究極である「運命の乗り換え」をやることはイコールで死を受け入れることになるはずです。自己犠牲を描くのならば、萃果は、「銀河鉄道の夜」のカムパネルラと同じように死ぬべきであったはずです。しかし萃果は死ななかった。いいかえれば、幾原邦彦は、荻野目萃果を殺すことができなかったわけです。そこに萃果の物語の意味があります。

 

 「輪るピングドラム」は愛についての物語でした。誰かを愛することで、愛されたひとはこの世界に生きていくことができるということ、そして愛の喪失が生み出す破壊の感情と対決していくことが本作の大きな主題であったといえるでしょう。そしてその愛の、究極的な献身性の発揮が「自己犠牲」であったわけです。幾原邦彦は、明らかにこの「自己犠牲」を肯定的に捉えようとしています。しかし「自己犠牲」の物語には悲劇的属性がついて回ります。もしもあのとき、犠牲になったのが、冠葉と萃果で、救われた世界に残るのが晶馬と陽毬であれば、確かに物語は悲劇となっていたでしょう。そして悲劇であれば、悲しい余韻だけを心にもたらす物語であれば、自己犠牲を善いものとして描くことができなかったし、「輪るピングドラム」は決してここまでの作品にはならなかった。たくさんのひとに受け入れられている、多くの物語の一つの特徴として、「未来への志向性が物語の終りに示される」という形式があります。それは、未来への希望が仄めかされた形の結末です。「輪るピングドラム」もその一種であると言えます。晶馬と冠葉という犠牲の上に、全てがなかった形で世界は救われましたが、彼らが妹と友人を愛し、彼女らのために世界を残したのだということは、確かに伝わっていて、忘れられることはないのだというエンディングが、本作のそれでした。

 

 物語におけるメッセージで、「何かを肯定する」ためには、それを選ぶことに意味がなければなりません。そして選んだことや、選んだものに意味がなければ、それは悲劇になってしまいます。幾原邦彦は、肯定の物語を描くために、自己犠牲に意味を与える必要があったのです。それを示すのがラストで陽毬が発見するメモであり、そして萃果の生存となります。

 

 晶馬と冠葉には、その存在を(たとえ運命の乗り換えによる、観念的な存在の削除を受けたとしても)、愛の受け取り手であった陽毬は忘れられることは決してないという救いが、そして他人に対しての自己犠牲を選ぶことのできた萃果には、(一時的にであれ)救われた世界と、そこで生きていくこと、陽毬との相互的な「愛」(もちろん「友愛」ですが、本作において情愛・恋愛・友愛を区別する必要はないと思われます)の世界を続けていくことが与えられます。これらを、自己犠牲の上の「報酬」であると表現するのは、ややひねくれた考えでしょう。こういった物語の結末が示しているものは、彼ら彼女らの自己犠牲に、「意味」が与えられたということなのです。この「意味」付与のために萃果は生き残ったのだと考えることができます。

 

 長くなりましたが、荻野目萃果の物語はこのように読むことができるのではないでしょうか。彼女は利己的な愛から利他的な愛を見つけるに至り、そして自己犠牲の末に、確かに、(意地悪な言い方をすれば物語上の真の神である幾原によって)その意味を与えられました。個人的には、彼女の物語について、これは作者の恣意が現れてしまった部分(しかしそこにこそ、物語の大きな意味が込められています)であるという感覚が否めませんでした。言葉を尽くそうとするほどに、ある種の強引な力が見えてくるような気がしますが、しかし裏を返せばそこにこそメッセージがあるわけです。「そう描かざるを得なかった」という視点を以て物語をみることによって、物語を飛び越えた、語り手の世界が見えてくるのかもしれません。

 

 

以下、予定中の考察。

五、損なわれた子どものかけら―ペンギンたち