趣味としての評論

趣味で評論・批評のマネゴトをします。題材はそのときの興味しだいです。

「天気の子」は結局なんだったのか。という話

 

*映画「天気の子」のネタバレに注意してください。

 

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 「天気の子」って結局なんなの?

 

新海誠の最新作「天気の子」。けっこう賛否両論というか、もやっとした雰囲気で終わってしまっていて、「君の名は。」に比べたら微妙……みたいな評価が多めな気がします。

 

確かに物語のドラマ性においては、「君の名は。」の方が複雑で、凝った作りをしているかもしれませんが、テーマそのものについては、「天気の子」の方がはるかに深いものかもしれません。そのテーマがなんだったのか。というのが今回の記事のお話です。

 

 

「大人になれ」と言ってくる世界を「ぶっ潰す」こと

 

「天気の子」のテーマは次の叫びにまとめられます。作中のキャラクターも、あるいは新海誠でさえもこんなことは一言も言ってませんが、次のものが作品には込められています。

 

"大人になれ"って言ってくる奴らマジ嫌いだし、だけど結局大人になんなきゃいけないのが僕たちなんだけど、それでも我慢できないくらい嫌いだ。そのくらい気持ち悪いのが現実の世界なんだ!

 

いったいどういうことなのか。「天気の子」の物語を追いながら考えていきましょう。

 

 

「現実」と「幻想」

 

主人公・森嶋帆高は田舎での生活に嫌気がさし、単身で東京に飛び出してきます。彼はいじめられたのでもなく、破滅的な家庭環境にあるわけでもない。ただ嫌に思ったから、故郷から逃げ出して、家出をします。

 

そして初めての都会で散々な目に遭います。自分は一人では全然生きていけず、惨めな思いをたくさんすることになります。ここで帆高は「現実」に圧迫されていきます。

 

しかし彼は三流ライターの須賀に拾ってもらい、家出少年ながらも東京で細々と暮らしていくことに成功していきます。

 

裏社会の食い物にされたりすることもなく、彼なりの充実感と幸福感のなかで帆高は、わたしたちの現実感覚からして「非現実的な」世界で生きていくことになります。

 

この「非現実的な」もの、そうした生活こそが帆高が東京に求めてきたものであり、そして彼が獲得したものになります。ここでは、この「非現実的な」もののことを「幻想」と呼ぶことにします。

 

もちろん、上で述べた「大人になること」とはつまり、「幻想」を諦めて「現実」を受け入れることです。

 

 

 陽菜と帆高

 

東京でうまくやり始める帆高ですが、なにかと縁のある女の子・天野陽菜と仲良くなって、彼女の秘密である「100%の晴れ女」を知ることになります。

 

物語序盤、彼女との二度目の出会いにおいて、援助交際をしようとしていた陽菜を「助け出した」帆高ですが、ここにも「現実」と「幻想」の対立があります。

 

帆高は、陽菜が何か良くないことに巻き込まれようとしていると勘違いして彼女を助け出します。しかしこれは勘違いでした。陽菜は同意のうえで援助交際に臨もとしていて、それを反故にさせたのが彼だったのです。

 

これは帆高がただ恥ずかしいだけの話では決してありません。

 

陽菜は、母親が死んで弟との生活のために金が必要になり、それを工面するために自分の身体を売ることを選択しています。

 

これは陽菜が、児童相談所には頼らず弟と生きていこうとする「幻想」を維持するために、半ば「現実」(それも厳しい現実)に身を落とそうとしている状況でもあります。

 

歪んだかたちではあるものの、「現実」に足を踏み入れつつある彼女を「幻想」の中に引き戻したのが帆高だったのです。

 

 

「幻想」、サイコー! でも……

 

陽菜の「晴れ女」=「天気の巫女」の能力をビジネスに利用することで、帆高・陽菜・凪(陽菜の弟)の三人は「現実的にはあり得ない」方法で彼らの生活を成立させていきます。

 

もちろんこれは「幻想」の世界です。子供的な願望がまんま成立した世界を生きることを続けられてしまっています。

 

 「幸せな日々が続くわけもない」というような言説はよく聞かれると思います。まさにこれこそが、いつまでも「幻想」は続かない、ということを示しています。

 

「幻想」の奥に押しやられていた「現実」ですが、ここから「現実」のあまりにも強い力が徐々に現れるようになってきます。

 

 

「現実」、クソ!

 

いくら「天気の巫女」の力がすごいからといって、それでお金を稼げるくらいでは、「現実」の力には勝てません。相変わらず帆高は家出少年だし(しかも拳銃を持っている)、陽菜・凪の姉弟は児童だけの不安定な生活を送っています。

 

そうした状況を「現実」と「大人たち」が見逃すわけもなく、子供たちは東京の街を放浪するものの、やがて捕らえられてしまいます。やっぱり「現実」はクソだな!

 

ここで言っておかなければならないのが、いくらクソだとしても私たちは「現実」に生きている人間なので、「現実」からは決して逃れられないという点です

 

私たちは、誰もが(できるならば)「幻想」の世界で生きていたいと願いながら、それは不可能であることを知っています。「現実」の世界で生きていくしかないことを知っています。

 

そうしたやるせなさをこの物語はわたしたちに突き付けてきます。「僕たちをこのままにしておいて」という子供たちの願い=「幻想」は、強く否定されます。

 

 

「超現実」

 

「現実」と「幻想」の間でゆれる少年少女という構図は、青春物語においてそれほど珍しいものではないでしょう。しかし「天気の子」にはここでとてつもない要素が飛び込んでくることになります。

 

それは「天気の巫女」の物語です。つまり、異常気象とそれを治める人柱の物語のことです。ここではこのファンタジーの物語のことを、「現実をとび超えているけども、現実に作用するもの」という意味を込めて「超現実」と呼ぶことにします。

 

「天気の巫女」の物語に従い、陽菜は自分を人柱(生け贄)に捧げることで東京に続く異常な雨を終わらせます。

 

帆高は「幻想」の中で生きていきたいと願う少年でしたが、それが「現実」によって阻まれ、ついには警察に保護されます。しかしそこで、「超現実」の物語が彼に示されました。つまり、陽菜がみんなのために自己を犠牲にして消えてしまったのだ。というものです。

 

 

「幻想」・「現実」・「超現実」

 

「超現実」の物語に引っ張られて、帆高は東京を走り回ります。その彼を助けてくれた人々は、子供だったり、子供から大人になろうとしていたり、大人だけど子供のころのことを忘れられずにいたりした人々で、どこか心に子供を、「幻想」に憧れる気持ちをもった人々でした。そんな人々に共感をよせた視聴者も多いのではないでしょうか。

 

自分を受け入れず、社会の決まったかたちに押し込んで抑えつけようとする「現実」。これが嫌で逃げ出してきた帆高は、「幻想」を一時的に獲得しますが、それも失います。そして「超現実」によって、陽菜さえも奪われた彼は、それだけは許せずに駆け出しました。

 

「超現実」の物語に突き動かされる帆高は、「現実」を無視します。何を聞かれても、陽菜のことしか話しません。「天気の巫女」として消えていった女の子の物語が、何も知らない大人たちに通じるわけもないのに、そればかりを口にします。刑事と帆高が交わしたいくつかの会話では、そうした「現実」と「超現実」のちぐはぐが表れています。

 

「現実」を無視して、帆高はスクーターで疾走したり、線路の上を走ったり、警察と敵対したりします。彼にとって重要なのは「超現実」の物語から陽菜を救うことであって、すでに「幻想」や「現実」はもうどうでもいいものになっているからです。

 

そして帆高は陽菜を救い出します。「現実」になにが起ころうが知ったこっちゃなく、彼は好きな女の子が戻ってくることを願います。雨が降り続けて、いつか戻ってこなきゃいけないとわかっているあの「現実」が破壊されたっていいのです。

 

 

沈められた「現実」の街

 

騒動が終わると、帆高は保護観察のもと故郷に帰ります。明言はされませんでしたが、陽菜と凪の姉弟もおそらく公的な機関の保護のもと生活を送ることになったのでしょう。

 

三人の子供たちも、やはり「幻想」を諦めて「現実」に戻っていくことになりました。事件の三年後、帆高はそのまま故郷で高校を卒業し、今度は大学生になって東京に戻ってきます。

 

ちゃんと親の支援を受けて、しかるべき身分を手に入れて東京にやってきた彼は、もう立派な「大人」になっています。

 

東京での友人たちはみな日常に戻っているようですが、「超現実」は大きな爪痕を東京に残していきました。雨は結局やまないまま、街は水の底に沈んでいます。帆高の選択によって、「現実」は確かに破壊されてしまったのです。そして「大人たち」はその「超現実」を「現実」として受けいれて、自分たちの生活をはじめています。

 

帆高と陽菜の二人は、自分たちが「現実」を否定してそれを破壊したことを認めています。帆高はいつまでも自分の選択について懊悩し、陽菜は沈んだ街の前で祈りを捧げています。

 

二人は再会します。彼らは「幻想」を失ってしまったけど、それでもあの短い「幻想」の間で手に入れたお互いという大事なものと、「現実」の中で一緒に生きていくことができるようになります。それが物語を渡り歩いた彼らへの報酬ということになります。ハッピーエンド。

 

 

 じゃあ結局なんだったの?

 

街が一個沈んでいるのにハッピーエンドなわけがないんですが、それでもハッピーエンドです。「大丈夫」なんです。

 

「現実」が否定されて、破壊されて、沈められていることを意に介さずハッピーエンド的に物語を終わらせること。それ自体がこの「天気の子」のもっとも重要な部分です。

 

リアルに描かれた東京の街という「現実」そのものを、ファンタジーである「天気の巫女」の物語=「超現実」によってあっさり沈めてしまうこと。これが意味するのは、「現実」なんてものはただそうあるだけで、そもそもまったく尊重されるようなものではない。というメッセージです。

 

わたしたちに「仕方ないじゃないか」と、「大人になれ」と言ってくる「現実」をぶっ潰して、そしてこれをぶっ潰さないと生まれない物語を描くことで、「現実」を否定すること。これこそが本作のテーマであったのだと考えることができます。

 

倫理的なよさとか、成熟した人間になることとか、そういう「現実的な」価値を無視して帆高と陽菜に幸福を与えながら、「現実」がただ「現実」であることを理由に否定される物語。そうしたものが示されたとき、仕方なく「現実」に生きている私たちは何を考えるのでしょうか?

 

おしまい。