趣味としての評論

趣味で評論・批評のマネゴトをします。題材はそのときの興味しだいです。

『ハチワンダイバー』の哲学 ―将棋と泪と男と女―

 *『ハチワンダイバー』についての若干のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

はじめに

最近、アレが流行っております。ブームが発生しております。

アレとはなにか。勿論「将棋」です。

 

今、将棋がブームなんて言うとどこからか「500年前からずっとブームだよ‼」という叱責が聞こえてきそうですが、それでもやはり、脂が乗ってるという意味でも、ここ最近の藤井聡太六段ブーム」は将棋史的に見ても、かなりキているのではないでしょうか。

また藤井聡太六段が現役中学生にして最年少プロ入り(四段昇段)を果たすその前から、じわじわと棋界のキャラクターがTVにも取り上げられてきました。「ひふみん」加藤一二三九段)や「ハッシー」橋本崇載八段)などを筆頭に、将棋棋士たちの愉快なパーソナリティがメディアに取り上げられ始めるようになっています。

今将棋界は波に乗っていると言えるでしょう。

 

そしてまた、この空前の将棋ブームによって、以前にもましてスポットライトが当てられるようになった界隈が存在します。

それはどこか。将棋漫画界です。

 

「将棋漫画か……オジサン月下の棋士しか知らないや」

3月のライオンめっちゃ面白いよ?」

『5五の龍』をすこれ」

 

様々な声が聞こえてきます。古今東西に無数の将棋漫画が存在し、それらが名局・名シーンを生み出していることは言うまでもないことですが、ここに一つ、将棋の枠を超越し、漫画の歴史に刻み込むべき特異な漫画が存在します。

皆さまもうお気づきでしょう。ハチワンダイバーです。

 

 

ハチワンダイバー』とは

 『ハチワンダイバーとは、稀代の天才漫画家・柴田ヨクサルによって集英社週刊ヤングジャンプに2006-2014年の間において連載された将棋漫画です。ヤングジャンプという青年漫画の一流誌に文句なしの連載を続け、また、2008年にはテレビドラマシリーズにもなっています。

改めて唱えなおす必要もないほどの、大人気漫画です。全35巻。

ちなみに筆者のオールタイムベストマンガであり、人生のバイブルにもなっています。

 

 

いったい何がスゴイのか?

それでは『ハチワンダイバー』の世界に踏み込んでいきましょう。将棋に興味がなくてもまったく問題ありません。描かれているものは「人生」そのものです。あらすじをここで述べる必要さえありません。全ては将棋によって進行していきます。

 

ここに『ハチワンダイバー』が一目でわかる一つのページを紹介します。

 

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*ちなみにこのシーンですが、「小指切断を賭けて将棋を指す」という賭博黙示録のような闘いに勝利した主人公でしたが、直後に発狂した敗北者とリアルファイトせざるを得なくなるという状況。テーマであるはずの将棋を無視した、最高にクレイジーな展開となっております。説教してる人は味方ですが彼は漢気MAXの気狂いなので助けてくれません。この後、二十年間将棋しかしてこなかった無職の男(主人公)vs.チンピラ将棋指しガチファイト繰り広げられます。そして主人公が到達した新たな境地がこちらです。

 

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写真の見栄えはともかく、この漫画の特徴がお分かりになると思われます。そう、この漫画は、見開きを駆使しコマ割りのほとんど存在しない一面において、超ドデカ文字による魂の哲学が語られる漫画なのです。

 

「ああ……そういうやつ。いわゆる一種のシュール系ね」

そう思った方もいるのかもしれません。違います。ハチワンダイバー』の素晴らしい点はこの魂の哲学だけではありません。

 

実は、作者・柴田ヨクサル自身が将棋の手練れなのです。またそれに加え、将棋の二大戦法の内の一つ、「振り飛車」の使い手にして今も将棋界の重鎮として存在感を放つ鈴木大介九段」(連載当時は八段)の棋譜監修という要素。

この制作陣から放たれる本作の将棋パートの完成度は他のどの将棋漫画に比べて傑出しています。

将棋がわからなくとも盤面で起きていることがなんとなく理解できるというまるで魔法のような体験を我々は得られるのです。

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戦法の探り合いから……

 

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とっておきの一手まで!

*ちなみにここでは、主人公は秘密将棋結社に誘拐され、「将棋独立国家」なる将棋を指すことだけが人生の目的みたいなオッサンばかりが詰め込まれた地獄(あるいは天国)にぶち込まれるというエキセントリックな展開が広がります。タイガーマスクみたいですね。

 

さっきから鼻血を出して将棋を指している青年が主人公・スガタくんです。なぜスガタくんはこれほどまでにボロボロになっても戦うのか? スバリです。彼は、ぽっちゃりとデブの中間地点にいるような女の子「受け師さん」にベタ惚れで、彼女の復讐物語を遂げる手伝いのために命を懸けて戦います。

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*「受け師さん」こと中静そよ。巨乳メイドという男の欲望を具現化したような存在。カワイイ。ヒロインでありかつ、作中最強クラスの将棋指しでもあります。「受け」というのは将棋用語で相手の攻めを防御することです。

 

「受け師さん」の存在からも明らかになるように、この『ハチワンダイバー』は壮大な男女の愛の物語でもあります。物語終盤ではついに主人公スガタくんとヒロインの受け師さんの決戦が始まり、この勝負を『ハチワンダイバー』におけるベストバウトとする意見が識者の間では有力です。この勝負を的確に表現した漫画史に残る名言がこちらです。

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 *地球上から集められた最強の将棋指したちが集まる最大の将棋トーナメントの決勝戦で対決する二人と、それを見守る師匠たち。ちなみに三コマ目の人は棋譜監修の鈴木大介九段をモデルにした登場人物「鈴木大介八段」です。

 

さらに『ハチワンダイバー』の魅力について語るなら欠かせないものが数々の破壊的なキャラクターたちでしょう。

戦闘能力が異常に高いヤンホモ

将棋の妖精(妄想)とおはなしができる漫画家

RCサクセションを聴きながら違法手術を行う医師

男性器が苦手な男の娘忍者

喧嘩が強いので終始イキるが将棋はそこそこの拳法家など、とんでもなく個性的な人物たちが多数登場します。

 

 

最後に

ここまで語ってきた内容では、ただ単純に面白い漫画でしかないわけですが、この作品だけが持つ唯一の特性のようなものが、実は存在しています。

 

それは「将棋主義」とでも呼ぶような徹底した将棋至上の思想です。将棋のもつ面白さに憑りつかれた人間しか登場しないので、とんど全ての人間が将棋の勝敗に絶対の価値を置いています。

 

また漫画作品ということである程度、人間本性を劇化したドラマティックな展開も見られるわけですが、この作品においては前述の「魂の哲学」が登場するものの、それは決して物語の終着点ではありません。

 

主人公がなにか平安の境地に達してお終いというわけではなく、ここには、おそらく柴田ヨクサル氏が抱いており、またこの『ハチワンダイバー』に、密か(しかし明らかでもある)に込めた一つの野望が読み取れます。筆者もまた、その野望に中てられた読者の一人です。その野望とはなにか?

 

 

 

それはここでは伏せておきます。なぜなら今回の記事は、考察ではなく、いちファンによるダイレクトマーケティングだからです。ぜひ読んでみてください。

ハチワンダイバー』の物語があなたの感性に合致するならば、自ずから物語が発するメッセージを受け取ることになるでしょう。

 

ここまであえて言及しなかった、作中もっとも強い感情で将棋を愛した彼の言葉を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「輪るピングドラム」-運命の果実を一緒に食べるということ-

 

 

⋆この文章は、テレビアニメ「輪るピングドラム」を観終わった方に向けたものです。そして未だこれを観たことのない人に対して「輪るピングドラム」をおすすめする内容ではありません。ネタバレや個人的見解を大いに含んだ内容になっています。ご注意ください。

 

 

はじめに

 「輪るピングドラム」は2011年7月-12月間において放送されたテレビアニメーションです。全二十四話。監督は幾原邦彦(「少女革命ウテナ」ほか)、製作スタジオはブレインズ・ベース(「デュラララ!!」ほか)。

 本作は象徴的な演出とストーリーが特徴の作品です。物語内における具体的な説明が作中にほとんど存在せず、特に終盤において、視聴者は自分で物語の意味を考えなければならないつくりになっています。最終話では、ほとんどのセリフが抽象的な言葉で構成されていることもあり、そのあいまいさに辟易とした視聴者もいたことでしょうが、本作のテーマは一貫として「愛」であり、そこに注目すれば、物語の意味・メッセージはおおむね解することができます。

 

 

 並行して進む「世界の運命」と「個人の運命」

 本作では、主題である「愛」を描くことについて、その背景には二つの運命、即ち「世界の運命」と「個人の運命」が存在します。具体的には、〈世界の運命=モモカとサネトシの対立・その結末〉、そして〈個人の運命=個々のキャラクターの目的・願い〉がそれぞれ該当することになります。

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*「輪るピングドラム」の登場人物たちの名前は本来、漢字表記の和名ですが、若干難読気味であるので本文では便宜上カタカナ表記で進行させていただきます。

 このように物語後半においては、「世界の破壊」をもくろむサネトシと、「世界の保護」を目的としサネトシを止めようとするモモカの二つの大きな流れ〈世界の運命〉に翻弄されながらも、それぞれの登場人物たちは〈個人の運命〉の成就にむけて行動します。

 しかし上の図を見て、とある疑問を持たれる方がいるかもしれません。それは 

「サネトシとモモカから伸びる矢印のみ、〈世界の運命〉として扱われているが、彼らもまた個人(人格をもつもの)であり、それを〈世界の運命〉と呼ぶのは、間違いではないだろうか」

という疑問です。確かに彼らにはキャラクター性があり、サネトシに至っては直接に現代の登場人物に対し深い干渉を行うわけですが、この物語においてサネトシとモモカを人間と呼ぶのは適切ではありません。これは彼らのキャラクター的属性(幽霊など)といったことではなく、彼らは世界の原理として存在するエロスとタナトスの象徴なのです。

 

 

「エロス」と「タナトス

 近代を代表する思想の巨頭としてフロイトの名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。オーストリア出身の心理学者、ジグムント・フロイト(1856-1939)の研究の有名なものに「エロス」と「タナトス」があります。

 フロイトは人間の心のエネルギー「欲動」には二つの種類があると考えました。それが「エロス」タナトスです。この二つには以下のような特徴があるとされます。

 

「エロス」……性愛を司るエネルギー。生命を維持させることや間の愛情、何かを作ったり守ったりする欲求の源泉となる。「生の欲動」とも呼ばれる。

タナトス……破壊や消滅を司るエネルギー。自身や近しい人の死、また何かを破壊したり、殺害したりしたいという欲求の源泉となる。「死の欲動とも呼ばれる。

 

 これら二つの感情は、我々人間に常に存在するものとして考えられています。私たちは、いつも誰かを愛し、愛されたいと思いながら同時に、小さな不幸せと大きな苦痛の耐えない人生の終了(=死)を求め、また嫌いな物・人の破壊や殺害を望んでいます。フロイトは、戦争やテロなどの人間の残虐な行為は、このタナトスが強く発揮された人間が起こすものだと考えました。

 

  それでは、話を「輪るピングドラム」に戻しましょう。もう、お分かりかと思いますが、愛するものの為の自己犠牲をいとわない少女・モモカこそ、エロスの化身であり、対照的に、全ての破壊をもくろみ、世界を憎んでいるサネトシがタナトスの化身なのです。彼らは「十六年前」までは生命ある人間として存在していましたが、その時期からすでに、人間を超越した特徴を示しています。小学生の少女に過ぎないモモカは、「運命の乗り換え」という世界改変の超能力と、それに伴う犠牲を恐れない聖人的な精神を持ち、一方サネトシもまた若くしてテロ組織を指揮し、世界の破壊を現実に実行しようとしました。そして死後もまた、彼らは「二つのペンギン帽子」「幽霊・呪いのメタファ(隠喩。抽象的なものを具体的なもので代わりに表すこと。たとえ)として世界に存在し続け、作中舞台の現代では生存戦略として自分の意志=世界の運命を引き継ぐ役目を、登場人物に課そうとします。

 こういった背景や舞台装置の中で、本作のメッセージは隠されてしまい、一見奇妙な作品というところで評価を終えてしまうひとも少なからずいることでしょうが、ここでもう一度思い出してほしいのが本作の主題は、やはり「愛」であるということです。

 

 

脱線、しかし大切なこと

 本論からは離れますが、ここで述べておかねばならないことがあります。まず、エロスタナトスの対立は、決して善悪の対立ではないということです。それぞれの欲動はその性質上、善悪の属性を与えやすいものでありますが、善悪は我々人間の様々な価値観や損得勘定に左右されやすいものであります。エロス・タナトスの関係をそのまま善悪と当てはめ合うのは適切な考え方ではありません。

 例えば、「輪るピングドラム」作中には、「こどもブロイラー」と呼ばれる奇妙な施設が登場します(もちろんこれもメタファです。これについては後述します)。多くの方が印象とされるシーンだと思いますが、「企鵝の会」と改めた名でテロ活動をしていた高倉ケンザン(三兄妹の父)が息子のショウマに「こどもブロイラー」を否定する発言をしています。

 子供が「透明な存在」にされるというこの恐ろしい場所は確かに私たちの感覚からして「悪」ですが、タナトスに支配され世界の破壊・大量殺害を計画するケンザンもまた我々の感覚がそれを「悪」と呼ぶでしょう。一見「悪」的であるタナトスの虜となったケンザンもまた、世界の他の「悪」についてそれを許せないというような意識を持っているのです。つまりタナトスとは〈人間の行動を破壊・消滅の方向へと促す力〉のことであり、これ自体については善悪の評価をうけるものではないのです。善悪とは、人間の行いとして我々がそれを見る時に現れる指標であるといえます。ケンザンは「世界の浄化」を目的に、いわば強力かつ暴力的な正義感を抱いていました。彼の正義感・「悪」的な世界の間違いを正したいという欲求が、「エロス的」ではなくタナトス的」に発揮されたことが、彼がテロリズムに走った原因であったと言えます。

 

 

ピングドラム」とはなんだったのか

 作中でカンバとショウマ(とマサコ)が探し求めていたピングドラムですが、これは「愛」のメタファです。エロスの化身であるモモカの超能力「乗り換え」の鍵であり、「運命の果実」のことでもあるこれは、誰かから誰かへと与えられる愛情のことを意味しています。

 「ピングドラム=運命日記」のイメージを植え付けられた視聴者がもっとも混乱したシーンはおそらく、最終話のクライマックスでヒマリが手にした真っ赤な球体を「ピングドラム」と呼ぶ場面ではないでしょうか。「ピングドラムとは『乗り換え』を行うための装置である」という一元的なミスリードが本作を難解にしているわけですが、ピングドラムとは誰かを愛する感情そのものである」と考えることで我々はスムーズな理解を得られます。

 

 

 最も重要なキーワード

 物語が佳境に入るにつれて抽象的な言葉が飛び交うようになる本作でありますが、その中で最も重要なキーワードとして私が挙げたいのは、「選ばれること」です。「選ばれる」とはもちろん、愛の対象に選ばれることです。物語の中では、多くの人物が「選ばれなかったこと」による悲愴を経験しています。ここで一つの〈装置〉が私たちの記憶から蘇ります。そう、それは「選ばれなかった子供たち」が向かう終点、「こどもブロイラー」です。

 「こどもブロイラー」は「選ばれなかったこと(愛されなかったこと)」によって精神的にスポイルされてしまった子供のたちの運命、そのメタファであると言えます。「『かわいい』を消費されたヒマリ」、「父親に『選ぶ家族を間違えた』と言われたカンバ」、「両親が死んだ姉に囚われ続けているリンゴ」、「芸術品としてしか自分を見てもらえなかったユリ」、「才能の欠如により親からの愛を得られなかったタブキ」は「選ばれなかった」わけです。

 それでは「選ばれなかった子供」は「透明な存在」になるしかないのだろうか、という疑問が浮かび上がります。「選ばれない」限り、そうなるほかありません。だからこそこの物語では「選ぶこと」の重要性が非常に丁寧に描かれています。ユリとタブキはモモカに、カンバはヒマリに、ヒマリはショウマに、それぞれ「選ばれた」ので、現代においても、傷を残しながらも幸せを享受するために生きることができます。

*ここに挙げたカンバ・リンゴ・ユリは「こどもブロイラー」には行っていませんが、カンバとユリは「こどもブロイラー」に行く前に「選ばれて」います(ユリの場合、肉体的な危険があったため、モモカの「乗り換え」による救済を受けます)。そしてリンゴですが、彼女は少し特殊で、「選ばれなかった」運命を「タブキとの恋の成就=モモカへの同一化=家族の絆の再生」という歪んだロジックで克服しようとしています。そしてそれが否定される前から、ショウマへの恋心を抱き始め、「選ばれなかったこと」による破滅的な傷害を上手く受け流し、それを自分の愛に没頭することで無視するという方法で、「こどもブロイラー」を回避します。彼女は「選ばれること(愛されること)」ではなく「愛すること」に人生を奉げられる特殊な能力を持っています。ここを鑑みるに、モモカの妹であるという血縁的特殊性と、最後の「呪文」を唱えるのが彼女であることに納得がいきます。

  

 

 運命の果実を一緒に食べるということ

 モモカの「乗り換え」の呪文は「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉でした。 作中に多用される「りんご」のイメージから考えれば、これは「旧約聖書」においてアダムとイヴが〈知恵の樹〉である「りんご」の実(聖書の解釈については諸説あり)を食べ、神に罰せられたという神話が思い浮かべられることでしょう。知識を得、新たなステージ立つと同時に人間はその罰を受けなければならないという構造は恣意的な「運命の乗り換え」によって世界(あるいは個人)の運命を左右するという行為には、犠牲が伴うという「乗り換え」の構造にも合致します。

 しかしここには、新たな別の解釈の糸口が存在しています。物語内において、ピングドラム」は「乗り換え」の装置のようなものでした。そして同時に「ピングドラム(=運命の果実)」には前述のように「誰かを愛する感情そのものである」という側面も存在します。「呪文」はそもそも「モモカの遺した一番大切な言葉」であったわけですから、ここには彼女の意志が現れます。「愛」である「運命の果実」を分け合い食べるということは、即ち、「互いに愛し合おう」というメッセージでもあるのです。

 そしてこの言葉を自ずから口にした人物が一人存在します。「箱」の中、自分のりんごをショウマに分け与えたカンバもまた、「運命の果実を一緒に食べよう」と言っています。

 

 

「箱の中」で起きたこと。運命の兄弟

 本編第23話(第24話が最終話)の最後に登場した「箱の中」。小さな牢獄のような形をしたつくりの二つの箱の中には、それぞれ幼少期のカンバとショウマが入れられています。二人とも衰弱した様子で、二人はここで初対面であることが判明しています。ここに至る経緯は、本編おいてほとんど語られることはありません。突然現れたこの「回想」には果たしてどうような意味があったのでしょうか。

 もちろんこのシーンで最も重要な箇所は、カンバが自分の箱にしかなかった「りんご」をショウマに無条件で分け与えるシーンです。このシーンでカンバは件のセリフ、「運命の果実を一緒に食べよう」を口にします。

「箱の中」のシーンでは幼きカンバとショウマの両方はひどく弱っていて、絶望的な心境にあったといえます。これは前述の「選ばれていない(愛されていない)」状態と近いものと考えられます

*物語内でのつじつまを考えれば、ともに実の親が「企鵝の会」としてテロ活動に勤しむ結果、十分な愛を得られなかったカンバとショウマは、この幼少期にともに「選ばれない状態」=〈「透明な存在」になる危機〉にあったと説明できるでしょう。あるいは、メタファとしての「箱」つまり、社会や文化が生み出す閉塞感・束縛・苦痛・不条理(サネトシが世界ごと破壊しようとしていたものはまさにこれでした)に、この兄弟もまた閉じ込められていたのかもしれません。

 重要なのは、カンバが見返りや損得といった合理性を放棄した形で「りんご」をショウマに分け与え、そして「一緒に食べた」ことです。「運命の果実」を二人で分け合うことは、前述の通り「互いに愛し合うこと」と同義です。二人は、互いに欠乏していた「愛=運命の果実=ピングドラム」を、互いを愛することで補いあうという生存戦略をとったのだと言えます。カンバがショウマを「選んでいた」わけです。

 

 

輪るピングドラム

 「輪る」とはいったい何をしめすのか。これは循環を意味します。回転する物体に伴い、「ピングドラム=愛」は人々の間を巡り続けます。カンバからショウマへ。ショウマからヒマリへ。ヒマリからカンバへ。そして物語のクライマックスでは、ショウマから、タナトス(死・破壊)の衝動に駆られ愛を忘れていた(=「迷子になっていた」)カンバへ。輪るピングドラム」とは「循環し人々を繋ぐ愛」のことなのです。

 そしてまた、ここにも重要なメッセージが隠されています。サネトシに惑わされタナトスの使者として活動していたカンバは、ショウマから分け与えられた「愛=ピングドラム」によって「本当の光」を見つけます。これが示すものはとは、タナトス(死・破壊)に支配された人間の心を救うのは愛(エロス)である》ということです破滅的観念希死念慮・破壊欲動など)に囚われた者の心を救い、世界や個人の破滅を防ぐ方法は「選んで、愛する」ことであるというのがこのアニメの最終的なメッセージであると言えるでしょう。

 

れを的確に示したセリフが本編最終話にあり、ここでそれを引用します。

「君と僕はあらかじめ失われたこどもだった。

でも世界中のほとんどのこどもたちは僕らといっしょだよ。

だからたった一度でもいい。

誰かの『愛してる』って言葉が必要だった。」〔タブキ〕

 

「たとえ運命がすべてを奪ったとしても、

愛されたこどもはきっと幸せを見つけられる。」〔ユリ〕

 

               「輪るピングドラム」第24話より タブキとユリのセリフ

 

 「乗り換え」が完了したあとの世界で、最愛の二人の兄を失った妹と、想い人を失った少女が、「選ばれない」に苦しむことはないでしょう。なぜなら、二人はすでに愛を受け取っているからです。

 

 

りんごはあなたの手の中に

 このアニメは最後、どこからかやってきた半分のりんごを誰かの両手が受け止めるシーンで締めくくられます。分けられた「運命の果実」を受け取ることは、「愛」を享受することに同義です。この先は様々な解釈が可能であると思われますが、私はやはり、の手はアニメを見ている我々の手であると考えたいのです。とはいえ、「アニメが我々を愛してくれている」というのはすこしズレているでしょう。この場合我々が受け取ったものは「愛することの価値」です。メッセージとして、「誰かを愛しなさい」といういわば訓示を受け取るわけです。その「愛」はきっと受け取る側の人を救うものになるでしょう。「選ばれる」ことで我々は生きていけるのです。そして「選んで、分け与えた愛」は「輪る」ことによって、我々に返ってくることになります。これこそが「愛の循環=輪るピングドラムであったのだと、ここで述べさせていただきます。

 

 

続き

pyhosceliss.hatenablog.com

 

 ぜひご一読ください。

「UNDERTALE」が破壊する境界、そして現実化する結末

  

 

⋆この文章は、ビデオゲーム「UNDERTALE」のプレイ経験者に向けたものです。そして未だこれを触ったことのない人に対して「UNDERTALE」をおすすめする内容ではありません。ネタバレや個人的見解を大いに含んだ内容になっています。また、ゲームの隠し要素や、裏設定についての考察はしていません。ご注意ください。

 

 

はじめに

 私は数週間前に、Toby Fox氏開発のビデオゲーム「UNDERTALE」(2015年発売)の公式日本語・PC版をプレイし始めました。音楽のすばらしさや、魅力的なキャラクター、斬新なシステムなど、語るにきりのない価値がこのゲームにはありますが、私がここで語るのは「物語」と「このゲームに付随しているメタ要素(ゲームの中から、プレイしている人に対して様々な呼びかけをすること)」についてです。

 フィクションとそれが内包するメタ要素の関係について、古今東西にその研究(とくに学術的なもの)があり、また、メタを主題においたビデオゲームは「UNDERTALE」以前にもたくさんあって、それらについて言及することなく「UNDERTALE」を論ずることは、既存の議論の焼き直しにもならない幼稚な考察となるのやもしれませんが、ここには(あらゆる意味での)素人ではあるが、一個のファンとしての、このゲームへの愛があるものとして、ご容赦していただければ嬉しく思います。

 

 

1.「UNDERTALE」の構造、三つのエンディング

  既プレイの方や、少し調べたことある方ならご存知と思われますが、「UNDERTALE」は「マルチエンディング」が手法として採用されたゲームです。つまり、ゲーム中のプレイヤーの選択によって、ゲームストーリーの結末が分岐します。「UNDERTALE」では大きく分けて三つのエンディングが用意されており、この分岐が、「UNDERTALE」というゲームがもたらす「境界の破壊」の根底に敷かれいるのです。三つのエンディングについて詳しく言及する前に、まずは「UNDERTALE」のあらすじをここに示します。

 

 

《あらすじ》

 遠く昔、人間とモンスターが共存して支配していた世界で、人間による裏切りからモンスターたちは地下の世界(UNDERGROUND)に封じ込められてしまいました。それから長い時間が経ったある日、一人の子供(プレイヤーが操作する主人公、”フリスク-Frisk)が地下の世界、モンスターだけが住まうその世界に迷い込んでしまいます。フリスクはモンスターたちの地下世界から、もと居た「人間の世界」に戻るために、冒険を始めます。

 

 それでは三つのエンディングについて述べていきます。

 

《三つのエンディング》

① フリスクのみが地下世界を脱出するルート。(通称・Neutralルート。以下Nルートとします)

② フリスクが地下世界の封印を解き、モンスターを解放するルート。ここでは、一切の殺害が行われないことと、全てのボスモンスターと友達になることがルート達成の条件になります。(通称・True Pacifistルート。以下Pルートとします)

③ フリスクが全てのモンスターを殺害し、地下世界を滅亡させるルート。ここでは遭遇するモンスター全ての殺害(厳密には、モンスターとの遭遇がなくなる一定数まで、モンスターを攻撃によって殺害し続けること。そして全てのボスモンスターの殺害)がルート達成の条件になります。(通称・Genocideルート。以下Gルートとします)

 

  特定の偏った目的のない限り、プレイヤーはまずNルートをクリアし、次にはPルート、そして最後に、Gルートに向かうものになります。ゲーム中、そういう誘導が施されてあります(N・PルートからGルートへの誘導ついては、いまだ確認できていません)。

 この三つのエンディングの上をなぞる過程で、「UNDERTALE」はプレイヤーが認識する「ゲームと現実との境界」を破壊し、「ルートのエンディング」であると同時に「UNDERTALEという世界に、プレイヤー自身が導いた結末」を現実化させることになります。

 

 

2.「破壊」の二人と「現実化」の一人

 前述した「境界の破壊」「現実化」を主としてもたらすのは、プレイ中に登場する三人のキャラクターです。うち二人は「破壊」を担い、残る一人は「現実化」を行います。

 

《「破壊」をもたらす二人》

フラウィ(Flowey)

 フリスクが地下で最初に出会うキャラクター。黄色い花の姿をした生物で、人間でもモンスターでもないとされ、N・Pルートでは、フリスクに敵対する存在として振舞い、Gルートでは破壊を志す同志としてプレイヤーに友好的に語り掛けてきます。この正体は地上から来た植物であるただの黄色い花に「意思を完遂させる力」であるケツイ」(determination)が注入されたもので、地下世界の王子・アズリエル(Asriel)の魂が宿っています。このキャラクターは「セーブ・ロード機能」をプレイヤー(フリスク)以外にも使える存在で、システム面から、「ゲームと現実との境界」を破壊することになります

・サンズ(Sans) 

 N・Pルートでは味方としてプレイヤー(フリスク)の旅をフォローしてくれる「スケルトン(がいこつお化け)」のキャラクター。フラウィChara(後述)といった特殊なキャラクターを除いて唯一、主人公の「セーブ・ロード機能」の使用を認識する存在です。コミカルなキャラクターとして描かれる場面が多いですが、フリスクの旅を常に監視し続けており、N・Pルートの終盤では主人公の行い(どれだけモンスターを殺害してきたのか)をジャッジするシーンがあります。このジャッジでは殺害キャラ、殺害数に応じて、彼がフリスクに評価を与えます。NルートではPルートの可能性の示唆をしたり、場合によっては罵倒を加えるなど、感情的な面から強くプレイヤーの行いを批判します。またGルートではラスボスとして登場する彼ですが、ここでは何度もプレイヤーをGAMEOVERに陥れ、その度にプレイヤーへ投げかけるセリフを変化させます。この過程を経ることで、プレイヤーはGルートを実行すること意味、その「罪」を改めて認識し直すことになります。このようにサンズは、感情面からのアプローチでプレイヤーを揺さぶることで、「ゲームと現実との境界」を破壊します

 

《「現実化」をもたらす一人》

・初めに地下に落ちてきた人間(通称・Chara

 このゲームのストーリーにおいて、地上から地下の世界に来た人間は分かっているだけで全部で八人いるとされます。その八人目がプレイヤー、即ちフリスクであるわけですが、プレイヤーがゲームの開始直後に、まず名前の入力を行います。ここで名付けられるのが、「初めに地下に落ちてきた人間」(以下Charaとします)です(自分が操作しているキャラクターが”フリスク”であるとプレイヤーが知るのは、Pルートのラスボスを倒したあとです。それまでは、操作しているキャラクターが”フリスク”と呼ばれることは一度もありません)。※ちなみに、主人公・フリスクとこのCharaは作中を通して性別不明となっています。ふたりとも小柄の子どもという共通点がありますが、フリスク仏頂面、Charaは明るい笑顔というそれぞれの特徴がビジュアルとしてゲーム中に現れます。

 このキャラクターはNルートでは存在が仄めかされる程度で、Pルートではわずかな痕跡が発見されるに限られます。また、フリスクが地下世界にやってくるまでに、その人物は死亡しているということはN・Pルートで示されます。しかしGルートでは、このCharaは旅の道中、登場はしないもののメッセージウィンドウに表示される文章として(ゲーム中は唯一、赤字で表示されます)、プレイヤーのGルートからの脱線を防ごうとして「フォロー」し続けます。そして終盤に登場し、フリスクでなく、プレイヤー本人との交渉によってとある契約を結びつけようとします。そしてそのあと、セーブデータがリセットされた「UNDERTALE」をプレイし、プレイヤーが再びPルートをクリアしたとき、衝撃的な結末と共に、「不可逆の到来としての現実化」をもたらすことになります。

 

 

3.「破壊」と「現実化」のプロセス

 Nルート→Pルート→Gルート→Pルート(Gルート経験以降)という順序でゲームをプレイすることで、プレイヤーは「破壊」「現実化」をもっとも効果的に受け止めることになります。ここでは、N・P・Gルートを一通り経験することを「一周目」。「一周目」を体験した以降を「二周目」と呼ばせていただけば、「一周目」は「破壊の過程」であり、「二周目」における「Pルートの再クリア」は「現実化」に相当します。

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 図説すると上のようにになります。Gルートのエンディングを経験することで周回は完全に「二周目」に移行し、そして「Pルートの再クリア」(=Gルートクリアを条件に発生するPルートエンディングのエピローグ)を経験することがこの特殊エピローグ(=「UNDERTALEの結末」であり、前述の「プレイヤー自身が導いた結末」)の現実化」となります。

 

 

4.「破壊過程」の六つの要素、そして訪れる「現実化」

 前章の内容を受けて、「ゲームと現実との境界」「破壊過程」は大別して六つに分けられます。そして、初めの三つはN・Pルートに属します。次の三つはGルートに登場し、「破壊過程」の六要素を受けたプレイヤーは最後に「Pルートの再クリア」によって「結末の現実化」に打ちのめされることになります。ここからは「破壊過程」を時系列順に、六要素の登場順に考察していきます。

 

Ⅰ.《N・Pルートに属する過程。破壊要素①~③

 

①N・Pルートによってプレーヤーに馴染ませられる「選択」

 一見地味ではありますが、破壊過程においてその基礎を形作り、もっとも欠かすことのできない要素がこの①です。ゲーム中、プレイヤーは様々な「選択」を迫られます。それはメッセージウィンドウに表示される「Yes/No」であるときもあれば、具体的なフリスクの操作によるものでもあります。ストーリーに全く作用しない、ジョークとしての会話にも「選択」は存在するし、エンディング分岐に大いに関わる選択も幾度ともなく登場します(本論との密接な関係はありませんが、Nルートにもまた、複数の分岐エンディングが存在します)。数々の選択は、「選べば選んだきり」つまり、「選択のやり直し」が効かないようになっています。NPCのちょっとした冗談でも、一度選択をして、その会話済ませてしまえば、リセットをしないかぎり、同じ会話を彼らが提示し直すことはありません。会話として不自然のない程度に汎用性のある返事の繰り返しになります。

 こういった選択を何度も迎えることで、プレイヤーはこの「UNDERTALE」というゲームが、こちらへの「選択権」を譲渡していることを感じさせます。このゲームでは、自分の選択ははっきりとして意味を持っていて、「現実世界と同じように」一度選んでしまえば、どういう結果が招かれようと取り返しはつかない。という認識をプレイヤーは獲得させられるのです。

 

②フラウィが奪う「セーブ・ロード機能」と「ゲームの終了権」

 Nルートのラスボスはフラウィです。彼は、フリスクと和解を果たした(もしくは、フリスクに瀕死に追いやられた)地下世界の王・アズゴア(Asgore)を殺害し、王が保存していた七人の人間の魂(これにCharaの魂は含まれません)を強奪し、ついにラスボスとして覚醒します。その能力によって、フリスクのセーブデータは破壊され、また、バトルにおいても彼の都合のいいタイミングでセーブ・ロードが行われます。そして、このラストバトルの最中に、フリスクがHPを失ってGAMEOVERを経験したとしても、そこではコンティニューは行われず、フラウィの高笑いと共にゲームが強制終了されます。こういった演出は、ゲーム内キャラクターからゲームプレイヤーへの攻撃となり、プレイヤーに衝撃と困惑を与えます。ラストバトル中では、タイトル画面や、セーブデータ管理の画面が一切表示されず、ゲームアプリケーションを起動するたびに、いきなりフラウィとの戦闘が始まるなど、Nルート終盤で、フラウィはプレイヤーのみの特権であった「セーブ・ロード機能」そして「ゲームの終了権」を強奪しそれを彼の恣意により使用することで今まで自分がプレイしてきた「UNDERTALE」の「ゲームとしてのお約束」を破壊されます。

 

③フラウィと「プレイヤー」の邂逅

  Nルートをクリアしたプレイヤーは、ルート終盤においてはサンズ、そしてもしくは、エンディング後のエピローグにおいてフラウィの助言によってPルートへの誘導を受けます。これにより、特別の目的がない素直なプレイヤーは次のクリアルートにPルートを選択することになります(厳密には、サンズもしくはフラウィのアドバイスによって「だれも傷つけない」「だれも殺さずに、みんなと友達になる」ことを目指し行動します)。※ちなみに、Nルートでも不殺によってルートを達成することは可能で、その場合はクリア後に、フラウィから、データをロードし直してアルフィー(Alphys)というキャラクターとの和解を促され、初めからゲームを攻略せずに、ロードし直したデータでNルートの途中からPルートに転換することができます。

 サンズの場合、彼は終盤に現れるフリスクの監視者・審判者としての立場から、「フリスク」にむけてのメッセージを投げかけますが、フラウィの場合、それはプレイヤーに対するものになります。「セーブ・ロード機能」の所有者でもあるフラウィ(彼がNルートでプレイヤーからそれらの権限を奪う前から、彼自身の人生において「セーブ・ロード機能」を多用し、様々な未来の分岐を経験してきたということが、Gルート終盤で明かされます)は、プレイヤーがクリアの度に一新されたデータによって新しいルートを歩むことを理解していて、それを踏まえた上で「フリスク」でなく「プレイヤー」に対し、Pルートの道筋を示します。

 また、Pルートをクリアすると、ゲームアプリケーションの再起動時に一度だけ、タイトル画面も表示される前から突然、登場します。フラウィは、「フリスク」がモンスター世界を解き放ち、人間とモンスターの共存世界が再び訪れた平和な世界を肯定しますが、唯一残った懸念を不安げに示します。フラウィの示す懸念とは「プレイヤー」本人のことです。ゲーム世界の運命を「セーブデータ管理」の手法において外部から支配する「プレイヤー」を認識しているフラウィは、Pルート達成によって留保ない平和を獲得したはずのゲーム世界を、唯一破壊し得る存在こそ「プレイヤー」であるとし、その破壊をしないでくれ、と懇願します。その時、彼はキャラクターとして初めて、「プレイヤー」が入力した名前であり、同時に、「最初に落ちてきた人間」であるCharaの名を呼びます。ここではっきりと「プレイヤー」はこのゲーム「UNDERTALE」には「フリスク」のみならず、「プレイヤー自身」に対して直截の呼びかけを持つゲームであることを明確に認識し、「ゲームと現実との境界」一時的ではあるものの、完全に破壊されます。

 

Ⅱ.《破壊過程の完了を担うGルート。破壊要素④~⑥》

 

 少し本論から脱線しますが、考えておきたいことでもあるので、ここに場所を割きます。

 虐殺(genocide)ルートと名付けられたこのゲーム世界に、果たしてプレイヤーはどのように辿り着いたのか。その疑問は、実は今となっては、少し難解なものになっています。というのも、すでに「UNDERTALE」というゲームは評判だけが独り歩きしてインターネットを渡り行く状況にあるからです。今から「UNDERTALE」をプレイする人間ならば、N・Pルートをクリアしたところでこう思うでしょう。「それでは、Gルートに挑戦してみようか」と。つまり、ネットの評判から、既にプレイヤーは若干のネタバレを受けている状態でプレイせざるを得ないのです。「UNDERTALE」がいくら世界的に支持されたゲームであろうと、それはアンテナを伸ばしている人間にしか触り得ないものです。新聞広告が打たれることもなければ、テレビCMに登場することもないでしょう〔「UNDERTALE」がPS4に登場し、またNintendo switchにも対応版が出ることから、この部分は撤回せざるを得ないかもしれません。 2018.3.14追記〕。今、「UNDERTALE」に触れようとする人間は、たいていの場合、「Gルートと呼ばれる、全てのキャラクターを殺害するというエンディング分岐が存在すること」を承知の上でプレイすることになると思われます(私もここに含まれます)。

 それでは、仮にそういった外部からの影響を受けなかった「純粋なプレイヤー」がいたとして、彼はどのようにして「Gルート」に至るのでしょうか。N・Pルートをクリアして、「UNDERTALE」の平和な世界を見てしまった彼は、前掲したフラウィによる懇願も相まって、およそ「すべてのモンスターを徹底的に殺害しつくす。虐殺をゲーム世界で行う」という判断には至らないのではないか?……残念ながら、この疑問には、私は答えをだすことはできません。事実としてGルートの存在が、概ねのファンに知られ、評判の中にもそういうものがあるわけですが、純粋なプレイヤーがGルートに到達するというのは、ゲーム上にてGルートに到達するためにプレイヤーに求められる条件の余りの困難さを思うと、不可能ではないかと思わざるを得ないのです。Gルートのじ条件は、「エンカウントが無くなるまで(一定数の通常モンスターを殺害すると、ステージごとにエンカウントが無くなり、メッセージボックスに「しかしだれもこなかった」と表示されます)、通常モンスターを倒し続け、なおかつ全てのボスモンスターを殺す」必要があります。全てのボスモンスターを殺すという発想は、他のRPGに慣れているプレイヤーや、「UNDERTALE」の異常なまでの網羅性を認識してるプレイヤーなら、容易に至る選択肢です。しかし、「エンカウントが無くなるまで」という通常モンスターを「狩る」行為には、至り得ないのではないかと思うのです。というのも、このゲームでは、いくつかあるステージそれぞれにおいて、モンスターを倒し続けると、それに比例して、エンカウント率が下がる傾向があります(プレイすれば明らかですが、実際の計測はしていません)。普通の「LV稼ぎ」では到達し得ないところに、Gルートはあるのです。チュートリアルステージである「いせき(Ruins)」で「虐殺(この場合は、エンカウントが無くなるまでの〈狩り〉)」を行い、「いせき」のボスモンスターである「トリエル(Triel)」を殺害するところまで行けば、前述の通り、CharaによるGルート誘導が始まるのですが、そこに至るまでには、「いせき」内で行われる徹底した「虐殺」が不可欠となります。そもそもLV上限が20までであり、Pルート。いわゆる「トゥルーエンド」を見るためには、レベル上げどころか、経験値の獲得さえも許されないこのゲームで、異常な執着を見せてモンスターを「虐殺」する行為に徹するプレイヤーは果たして存在したのでしょうか。Gルートという隠されたエンディングがあるという情報をもとにしかプレイヤーはこの世界にたどり着くことは不可能のように私には思えるのです。つまり、Gルートは存在の情報ありきのルートであり、そのエンディング(後述)を見るに、完全にプレイヤーの存在のみを意識した作りになっています。ウェブサイト「ニコニコ大百科」の「Undertale」の記事掲示板に興味深い書き込みがあり、それをここに引用させていただきます※赤字染めは筆者による。

1282 ななしのよっしん
2016/07/06(水) 02:10:33 ID: c79jFodBrz
何も知らないまま進めていったら、ほぼ間違いなくGより先にTPエンドを見ることになるようにできてるんだよ
初めの方でトリママカエルに「優しく停戦しておくれ」と言われること然り、TP分岐失敗するたびにおから「次はこうしろ」とTPへの誘導をされること然り

その一方で、Gルートの知識を持っちゃうとついつい忘れがちになるけど、Gルートはまず初見じゃそうならないというか「そういうルートとそのための手段がある」と知らないとたどり着けないというか…
(LV上げしてたら偶然発見した人も中にはいるんだろうけどね)

こんな惨いことになったのも、どういう結末になるか知っていてなお非な行いを続けたプレイヤー責任
…ということなのかもしれない

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwjqrZa02czZAhUFVLwKHb5oCAMQFgg3MAE&url=http%3A%2F%2Fdic.nicovideo.jp%2Ft%2Fb%2Fa%2Fundertale%2F1261-&usg=AOvVaw3-3UXltMLDrSDW6hHFS_sN

 私が赤字で染め直した部分「こんな惨いこと……」の文章には、本論で最終的に述べようとしているものがプレイヤーに与えた強い影響がみられます。この投稿をしたID: c79jFodBrzという一人のプレイヤーもまた、「UNDERTALE」のもたらす破壊と現実化に激しく揺さぶられた「理想的なプレイヤー」一人なのでしょう。

 

 それでは本論に戻ります。

 

④崩壊した境界の回復、そしてGルート遂行という「好奇心の罪」

 Gルートの存在という「前情報」を得ているプレイヤーはN・Pルートをクリアし、ついにGルートへの突入を試みます。N・Pルートでは、情緒豊かで、多様な人間性をもつキャラクターたちに触れ合い、彼らの苦悩を知り、また彼らと信頼関係を結ぶことで、「UNDERTALE」の世界に浸かりきるプレイヤーですが、破壊要素①~③までて破壊された「ゲームと現実の境界」はGルート遂行の決意とともには急速に、回復されます。なぜなら、Gルートの実行が意味するのは、N・Pルートで形成されたゲームキャラクターとの友情や愛情を、彼らの殺害という裏切りによって破滅させなければならないということだからです。もし境界の回復なしにGルートを開始すれば、プレイヤーは激しい良心の呵責にさいなまれることになるでしょう。それでも、私を含め一般的なプレイヤーは、Gルートの最中、自分の残酷な行為に顔をしかめることになるでしょう。そういう苦痛に耐えるためにも、プレイヤーは「これは所詮ゲームなのだから」と割り切る必要があります(=崩壊した境界の回復)。

 なぜプレイヤーはそこまでしてGルートの遂行を目指すのか。それは、ゲームプレイヤーが好奇心の囁きに屈服せざるを得ないからです。「UNDERTALE」というゲームが持つ「網羅性」、即ち「プレイヤーのあらゆる行動を推定して設計された、ゲームがプレイヤーの行動に対して行うレスポンスの多様性」のそのすさまじさを、N・Pルートで味わったプレイヤーは、この広大な世界において、ゲーム世界の一員であることを忘れ(つまり境界を回復させて)、無秩序の振る舞いを行うことに、ゲームが何を返してくれるのか。それを知ることへの欲望を抑えることができないのです。「UNDERTALE」がゲームである以上、「あいつは死ぬとき、なんと言うんだろう」という興味、好奇心を、克服することは私たちにはできません。そして、その行いは「現実化」のステップにおいて、糾弾されるべき罪であったのだと、あまりにも残酷な形で示されることになります。

 

⑤サンズによる「セーブ・ロード」の否定と罪の言語化

  Gルートで数々の登場人物たちを殺害し、そしてそれまで友好的な振る舞いを見せていたフラウィにまで恐れられる存在と化したプレイヤーは、最後の障壁として登場するサンズにその行く手を阻まれます。サンズとのバトルはゲーム中屈指の難易度になっており、プレイヤーは何度もコンティニューを繰り返して、彼と戦うことになるわけですが、サンズは、あくまで暴走するフリスクに語り掛けるようにして、その実、プレイヤーに対して停戦を呼びかけます。

 サンズとの戦いでは、戦いの直前に、サンズからフリスクへのちょっとした挨拶があります。そして、ゲーム上の難易度のため、プレイヤーは幾度となくコンティニューを強いられるわけですが、件の「ちょっとした挨拶」はプレイヤーがコンティニューを繰り返す度に変化します。そしてここでは、GAMEOVERは本来、前回のセーブ地点に戻されるものであるという認識が、ここで否定されます。サンズは、何度も失敗しながらも、無限にチャレンジし続け、少しずつ自分の命に近づきつつあるプレイヤーの存在に気付きながらもそれを阻止せんと戦い続けます。また、サンズは何らかの手段によって、プレイヤーの「セーブ・ロード」と「ゲームデータとしての世界支配」を認識しています。以下彼のセリフの引用です。※赤字染めは筆者による

じくうに だいきぼな ゆがみが はっせい しているらしい

じかんの ながれが メチャクチャに とんで… とまって… またうごいて…

そして とつぜん すべてが おわりを むかえるんだ

へへへ… それって おまえの しわざ なんだろ?

おまえには わからないんだろうな

あるひ とつぜん なんのまえぶれもなく… なにもかもがリセットされる…

それを しりながら いきていく きもちなんて

〔中略〕

だって もし もどれたって…

すぐに また ここへ もどされるんだろ? きおくを けされてさ

〔中略〕

どれだけハッキリ いってやっても やめようとしない

いいか わるいか なんて かんけい ないんだよな?

「できる」ってだけで やろうとするんだ そう…

「できる」って だけで… …やらずには いられないんだ

        「UNDERTALE」本編より Gルートにおける戦闘中のサンズの言葉

 これらの発言からもサンズがどういうふうにプレイヤーの存在を捉えているのかが伺えます。引用部分の赤字箇所からは、彼はプレイヤーの動機を見据えた言葉を続けています。ここで彼は、プレイヤーがゲーム世界を、二次元という低次元(=下位の世界であり、自分の現実の心には影響しない。自分とは無関係である世界)に無理やり圧し込め、ゲーム世界を破滅させようとしているその行為を非難しています。そしてプレイヤーは今までは、良心の呵責として曖昧な不快さとしか経験し得なかった「自身の行いの評価」をサンズという「ゲーム内ながらも、プレイヤーの外部にいる存在」から、言葉を通じて指摘され、自身の罪を言語化・そして明確に認識させられます。ここで回復していたはずの境界は再び破壊され、プレイヤーはほとんど全ての友人を殺戮し尽くした喪失感とともにGルートエンディングへと向かうことになります。

 

⑥裁定者Chara

 Charaとは本来、地下世界に初めて降り立った人間であり、その人物は地下世界の王子の介抱をうけ、心優しき国王・王妃の保護の下、王家の養子として王子ときょうだいの関係を結び、その後、病(作中にて明言はされませんが、Charaの意図的なもの、自殺と推測されるもの)によって死亡するという過去の人物でしかありません。さらにCharaという名称さえも作中には登場せず、作中ではChara=初めに地下に落ちてきた人間の名前は、プレイヤーが名付けることになっています。

 Charaがその姿を現すのはGルートをクリアした最後のシーンです。殺戮の限りを尽くしたプレイヤーの前に現れ、「プレイヤーの殺戮行為が自分を蘇らせた」とし、下のようにも述べます。※〔赤字染めは筆者による〕

私は 自分を蘇らせたものが 何なのか悟った。

それは…「力」だ。

私たちは ともに敵をせん滅し 力をつけた。

HP…ATK…DEF…ゴールド…EXP…LV…

数字が大きくなるたびに お前が感じたもの…

それが私… 「Chara」だ。

 

         〔”Chara”の部分にはプレイヤーが入力した名前が表示されます。〕

            「UNDERTALE」本編より  Gルート終盤 「Chara」のセリフ

  Charaの正体、即ちこれの役割とは、いったい何なのでしょうか。私はそのヒントに引用の赤字箇所が当てはまると考えます。「数字〔ステータス〕が大きくなるたびに お前〔プレイヤー〕が感じたもの」とは何か。これはプレイヤーの破壊欲動であると考えられます。誰もが心のどこかに、幾分か持ち合わせている破壊欲動・破滅欲動。例えば、「あれ」をぶち壊してしまいたいと思う衝動や、「あいつ」を殺してしまいたいと思う激情。それは憎しみの対象のみならず、自身がせっせと積み上げてきた価値あるものに対しても向かう奇妙な心のプロセスです。トランプタワーを作りあげた人が、それを頂上から、丁寧に一枚ずつ解体していくことがないように。プレイヤーが、そういったものを「UNDERTALE」の中で発散させてしまったこと。そして発散させたはずのその「歪み」が、形となって表されるものが、Charaであり、Gルートのエンディングそのものでもあると言えます。皮肉にもゲーム中では、プレイヤーの破壊欲動の表れであるこの奇妙なキャラクターはプレイヤーが入力した自身の名前を名乗ります。

 Gルートのエンディングは、あまりにも突然やってきます。このエンディングは唯一タイトルバックもなく、Charaとの会話の終了が、そのままルートの終りになります。Charaはプレイヤーを攻撃しゲームのアプリケーションウィンドウを破壊します。強制終了されたゲームを再び起動すると、寂しげな風の音のみが鳴り響く虚無の闇が表示され、プレイヤーはなにもできずに画面を放置するほかありません。しばらく待つと、やがてCharaからの呼びかけが表示され、プレイヤーは魂を引き換えにゲーム世界を復活させることをCharaと約束します。契約が成立するとゲームは再起動され、何事もなかったかのように新たなゲームデータが作成され、プレイヤーは再び、N・P・Gの三つのルートから好きなものを選んで攻略することが可能となります。ただし、Pルートについて、あの幸せいっぱいの、だれも傷つかなかった、皆が文句なしに「True(真実の、本当の)」の称号を与えようとした、あのエンディングだけは、二度と戻って来ないようになります。

 

 

5.不可逆の到来。現実と化して背負わされる罪と罰

 通常、Pルートをクリアすると、進行し地下世界は解き放たれ、モンスターと人間は再び共存を始めます。

 おちょうしもののパピルスPapyrus)となまけもののサンズのスケルトン兄弟は仲良くコンビを続けています。人気者のスターロボット・メタトン(Mettaton)は、友人たちとバンドを組んで活動を開始。ついに魚人のアンダイン(Undyne)に想いを打ち明けた恐竜のアルフィー博士はカップルとして結ばれ、海辺でデートをしていました。不仲気味だったアズゴアとトリエルの国王夫妻は、一緒に学校を開いています。二人の仲も再び結ばれたのかもしれません。主役級のモンスターのみならず、他のゲームなら「ザコ・モンスター」などと呼ばれたであろうキャラクターたちにもそれぞれ地上での(もしくは地下に残っての)生活があることが、スタッフロールでは明らかにされます。

 それではフリスクはどうなったのでしょうか。地下世界の救世主であるあの幼子はエンディングで、トリエルにこれからどうするのかと問われます。答えるのはもちろんプレイヤーです。トリエルとの生活を望めば、彼女がフリスクの眠る部屋に、バタースコッチシナモンパイが差し入れるほほえましいシーンで幕が閉じられ、帰るべき場所があると答えれば、友達全員で撮った記念写真を見ながら、物語は最高の結末で締めくくられます。

 

 

 といった、誰もが期待し、そして現れた物語的調和は、Gルート遂行によって完全に破壊されます。それは二度と戻ることなく、不可逆のものとして、プレイヤーを強く、強く、罰する現実と化し、我々は二度と手に入らない平和を思いながら自身の行為を激しく後悔することになります。

 Gルート遂行、即ちCharaとの取引をしたあと、再びPルートを攻略すると、エピローグ直前までは上記と同様の幸福なエンディングを見ることができます。そしてエピローグ、トリエルとの生活を望むと、彼女が眠るフリスクの部屋にお菓子を忍ばせて去っていきますが、その直後、フリスクの顔はCharaそっくりの満面の笑みに変化していて、その眼が赤く輝くと同時に、不気味な高笑いが響き渡るエンディングに。そして、トリエルと別れる決断をした場合、最後に現れる友達との記念写真の中央に映るのはフリスクではなくCharaとなり、それ以外の全ての友達の顔は赤く塗りつぶされたものとなります。そしてこの、全てを打ち壊す結末は、以降なにをしても元来のPルートのエンディングに復帰させることができず、一度Gルートをクリアしてしまえば、それはまるで現実世界での失敗と同様に、二度と取り返しのつかないものと化してしまうのです。

 この破壊されてしまったPルートエンディングの解釈、つまり、「Charaの復活はゲーム世界になにをもたらすのか?」という疑問はもはやナンセンスといえるでしょう。問題は、プレイヤーが自身の選択によって招いたこの取り返しのつかない破滅とどう向き合うのかという点です。章タイトルに「罪と罰」などと銘打ったところから、私の考えは明らかではありますが、あえてここでそれを詳しく述べようとは思いません。なぜなら、自分が招いた忌むべき結果は、あくまで個人の問題であり、それは個々のプレイヤーが自分を納得させるために導き出すべき答えであるからです。

 

 

結び

 「UNDERTALE」というゲームは徹底して細部にまで作り込みの手が行き届いていて、私が本文中に使用した「網羅性」という語もあながち間違いではないほどです。つまり作中の描写のその全てを拾うのは、不可能ではないものの非常に困難であり、本文のように分かったようなことを書いている私とて、作中のテキストの三分の一ほどは未確認の状態にあると告白しなければなりません(議論の中核となるP・Gルートのもの、引用に使用したものは確認しております)。またこの作品には隠し要素とされる裏の設定のようなものがいくつも存在しているらしく、そこには、あるいはこの悲劇を撤回するような展開が準備されており、以降のアップデートや、次回作でそれが為されるという可能性も大いにあります(その場合、本論は水泡に帰すことになります)。本論は一ファンの戯れとして、斬って捨てるのがもっとも利口な判断なのやもしれません。

 

 

おわりに、あるいは蛇足。

 私がこの文章を書くことになったのは、一個のプレイヤーとしてかのエンディングに激しく後悔をし、自分なりに、その意味を見出す必要を感じたからでした。この破滅的な悲劇をそのまま享受するには、あまりにも私は「UNDERTALE」のキャラクターたちを愛していました。感傷的な気分から脱却するために、「UNDERTALE」に囚われる自分を解放するためにこういったものを残したともいえます。また、「たいそうなことを言っているようだが、これは所詮、ゲームだ」と思われる方もいるでしょうが、それは違うと言わせていただきたく思います。たとえゲームであれ、「もうもとには戻らない」のは事実なのです。私の(もしくはあなたの)記憶には、失われてしまったままの平和な世界が残り続けることになります。

 もしプレイを済ませていて、なおかつここまで本文をで読んでいただいた、あなたは、果たしてどのような納得をえられましたか? もしこの物語を拒絶してしまったままなら、もう一度その苦しみに目を向けてみることをおすすめします。

 

 

追記(2019/02/10)

 「UNDERTALE」の枠組みを残した「姉妹作」とでも呼ぶべきゲーム・「DELTARUNE」が、Toby Foxによって2018年10月31日にフリーで公開されました。【Chapter1】という限定的な内容でしたが、ゲームとして楽しくUNDERTALEファンには嬉しい作りになっています。

www.deltarune.com

 UNDERTALEのフォロワーとして、DELTARUNEのストーリーや構造に前作とのつながりや主題への思索について多くの想像がかきたてられるのですが、第一章のみ現段階では、なにも特別なことは語れそうにありません。

 ではこの追記において何を語るのか、ということですが、ここで語るのはToby本人がDELTARUNEについて述べた文章において示されたものについてです。

www.twitlonger.com

 以下に、Tobyによるこのポストのもっとも重要な箇所を引きます。それは彼がDELTARUNEのプレイヤーに向けて予想したQ&Aとして現れました。

事前予測Q&A

1. これって、続編なんですか? え、どういうこと?? 怖いよう…

大丈夫、心配しないで。
あんまり「これって、なんなの?」と不安な気持ちでプレイすると、ちゃんと楽しんでもらえない気がするので、僕としてはそっちのほうが心配です…(笑)

僕から言えるのは、このゲームの世界は『UNDERTALE』の世界ではないということ。
『UNDERTALE』の世界とあなたが『UNDERTALE』をプレイしたときに導いたエンディングは、最後にプレイしたときのまま、変わることはありません。
みんなが幸せになるエンディングを迎えたなら、みんな幸せなままです。
あの世界とそこに住むキャラクターたちは、ちゃんとあのままですから、心配しなくていいですよ。

*2019/02/10に閲覧 文字の着色は引用者による。

TwitLongerにおける「DELTARUNE」についてTobyFoxの投稿

  この文章、とくに赤字染めを施した部分には、一部のプレイヤーは戦かざるをえません。作者の言葉が作品の解釈に介入することは決してありませんが(つまり物語をどう受け取るかは受け取り手次第の問題ということ)、それでも、この発言をTobyがしたことには、「UNDERTALE」を読み取るうえでの大きな意味があります。

 少なくともTobyは、Gルートと不可逆の汚染されたPルートを設計したことについて、どこまでも意図的に一つのメッセージを込めています。「たとえそれがゲームの中の出来事だとしても、それはあなたがやったことなんですよ」という糾弾。フィクションと呼ばれる架空の世界について、それと私たちが住まう現実の世界の境界を破壊する試み。これらは、たまたま導かれた一つのものなのではなく、Tobyによって計算された答えの一つであるということが、前述の引用から示されています。

 このことは本文を超える以上の意味を示すわけではありませんが、それらすべてを意図的に行ったTobyfoxというゲームメイカーの持つ視点の恐ろしさが、鮮明に描き出されています。ここまでのものを見せられると、Tobyがただ「面白い」だけのゲームとして「DELTARUNE」を製作するとはとても思えません。このゲームは「UNDERTALE」の関連を大いに示したかたちで公表されました。そのことが示すのは、「DELTARUNE」は、もう一度Tobyが我々の世界とゲームの世界の関係を問い直す場として打ち出したのものではないかというものです。

 ファンとして、あるいは「UNDERTALE」に世界の認識を変えられたものとしては、その点に心を揺さぶられないわけには、いかないのです。