趣味としての評論

趣味で評論・批評のマネゴトをします。題材はそのときの興味しだいです。

「輪るピングドラム」-運命の果実を一緒に食べるということ-

 

 

⋆この文章は、テレビアニメ「輪るピングドラム」を観終わった方に向けたものです。そして未だこれを観たことのない人に対して「輪るピングドラム」をおすすめする内容ではありませんネタバレや個人的見解を大いに含んだ内容になっています。ご注意ください。

 

 

はじめに

 「輪るピングドラム」は2011年7月-12月間において放送されたテレビアニメーションです。全二十四話。監督は幾原邦彦(「少女革命ウテナ」ほか)、製作スタジオはブレインズ・ベース(「デュラララ!!」ほか)。

 本作は象徴的な演出とストーリーが特徴の作品です。物語内における具体的な説明が作中にほとんど存在せず、特に終盤において、視聴者は自分で物語の意味を考えなければならないつくりになっています。最終話では、ほとんどのセリフが抽象的な言葉で構成されていることもあり、そのあいまいさに辟易とした視聴者もいたことでしょうが、本作のテーマは一貫として「愛」であり、そこに注目すれば、物語の意味・メッセージはおおむね解することができます。

 

 

 並行して進む「世界の運命」と「個人の運命」

 本作では、主題である「愛」を描くことについて、その背景には二つの運命、即ち「世界の運命」と「個人の運命」が存在します。具体的には、〈世界の運命=モモカとサネトシの対立・その結末〉、そして〈個人の運命=個々のキャラクターの目的・願い〉がそれぞれ該当することになります。

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*「輪るピングドラム」の登場人物たちの名前は本来、漢字表記の和名ですが、若干難読気味であるので本文では便宜上カタカナ表記で進行させていただきます。

 このように物語後半においては、「世界の破壊」をもくろむサネトシと、「世界の保護」を目的としサネトシを止めようとするモモカの二つの大きな流れ〈世界の運命〉に翻弄されながらも、それぞれの登場人物たちは〈個人の運命〉の成就にむけて行動します。

 しかし上の図を見て、とある疑問を持たれる方がいるかもしれません。それは 

「サネトシとモモカから伸びる矢印のみ、〈世界の運命〉として扱われているが、彼らもまた個人(人格をもつもの)であり、それを〈世界の運命〉と呼ぶのは、間違いではないだろうか」

という疑問です。確かに彼らにはキャラクター性があり、サネトシに至っては直接に現代の登場人物に対し深い干渉を行うわけですが、この物語においてサネトシとモモカを人間と呼ぶのは適切ではありません。これは彼らのキャラクター的属性(幽霊など)といったことではなく、彼らは世界の原理として存在するエロスとタナトスの象徴なのです。

 

 

「エロス」と「タナトス

 近代を代表する思想の巨頭としてフロイトの名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。オーストリア出身の心理学者、ジグムント・フロイト(1856-1939)の研究の有名なものに「エロス」と「タナトス」があります。

 フロイトは人間の心のエネルギー「欲動」には二つの種類があると考えました。それが「エロス」タナトスです。この二つには以下のような特徴があるとされます。

 

「エロス」……性愛を司るエネルギー。生命を維持させることや間の愛情、何かを作ったり守ったりする欲求の源泉となる。「生の欲動」。

タナトス……破壊や消滅を司るエネルギー。自身や近しい人の死、また何かを破壊したり、殺害したりしたいという欲求の源泉となる。「死の欲動

 

 これら二つの感情は、我々人間に常に存在するものとして考えられています。私たちは、いつも誰かを愛し、愛されたいと思いながら同時に、小さな不幸せと大きな苦痛の耐えない人生の終了(=死)を求め、また嫌いな物・人の破壊や殺害を望んでいます。フロイトは、戦争やテロなどの人間の残虐な行為は、このタナトスが強く発揮された人間が起こすものだと考えました。

 

  それでは、話を「輪るピングドラム」に戻しましょう。もう、お分かりかと思いますが、愛するものの為の自己犠牲をいとわない少女・モモカこそ、エロスの化身であり、対照的に、全ての破壊をもくろみ、世界を憎んでいるサネトシがタナトスの化身なのです。彼らは「十六年前」までは生命ある人間として存在していましたが、その時期からすでに、人間を超越した特徴を示しています。小学生の少女に過ぎないモモカは、「運命の乗り換え」という世界改変の超能力と、それに伴う犠牲を恐れない聖人的な精神を持ち、一方サネトシもまた若くしてテロ組織を指揮し、世界の破壊を現実に実行しようとしました。そして死後もまた、彼らは「二つのペンギン帽子」「幽霊・呪いのメタファ(隠喩。抽象的なものを具体的なもので代わりに表すこと。たとえ)として世界に存在し続け、作中舞台の現代では生存戦略として自分の意志=世界の運命を引き継ぐ役目を、登場人物に課そうとします。

 こういった背景や舞台装置の中で、本作のメッセージは隠されてしまい、一見奇妙な作品というところで評価を終えてしまうひとも少なからずいることでしょうが、ここでもう一度思い出してほしいのが本作の主題は、やはり「愛」であるということです。

 

 

脱線、しかし大切なこと

 本論からは離れますが、ここで述べておかねばならないことがあります。まず、エロスタナトスの対立は、決して善悪の対立ではないということです。それぞれの欲動はその性質上、善悪の属性を与えやすいものでありますが、善悪は我々人間の様々な価値観や損得勘定に左右されやすいものであります。エロス・タナトスの関係をそのまま善悪と当てはめ合うのは適切な考え方ではありません。

 例えば、「輪るピングドラム」作中には、「こどもブロイラー」と呼ばれる奇妙な施設が登場します(もちろんこれもメタファです。これについては後述します)。多くの方が印象とされるシーンだと思いますが、「企鵝の会」と改めた名でテロ活動をしていた高倉ケンザン(三兄妹の父)が息子のショウマに「こどもブロイラー」を否定する発言をしています。

 子供が「透明な存在」にされるというこの恐ろしい場所は確かに私たちの感覚からして「悪」ですが、タナトスに支配され世界の破壊・大量殺害を計画するケンザンもまた我々の感覚がそれを「悪」と呼ぶでしょう。一見「悪」的であるタナトスの虜となったケンザンもまた、世界の他の「悪」についてそれを許せないというような意識を持っているのです。つまりタナトスとは〈人間の行動を破壊・消滅の方向へと促す力〉のことであり、これ自体については善悪の評価をうけるものではないのです。善悪とは、人間の行いとして我々がそれを見る時に現れる指標であるといえます。ケンザンは「世界の浄化」を目的に、いわば強力かつ暴力的な正義感を抱いていました。彼の正義感・「悪」的な世界の間違いを正したいという欲求が、「エロス的」ではなくタナトス的」に発揮されたことが、彼がテロリズムに走った原因であったと言えます。

 

 

ピングドラム」とはなんだったのか

 作中でカンバとショウマ(とマサコ)が探し求めていたピングドラムですが、これは「愛」のメタファです。エロスの化身であるモモカの超能力「乗り換え」の鍵であり、「運命の果実」のことでもあるこれは、誰かから誰かへと与えられる愛情のことを意味しています。

 「ピングドラム=運命日記」のイメージを植え付けられた視聴者がもっとも混乱したシーンはおそらく、最終話のクライマックスでヒマリが手にした真っ赤な球体を「ピングドラム」と呼ぶ場面ではないでしょうか。「ピングドラムとは『乗り換え』を行うための装置である」という一元的なミスリードが本作を難解にしているわけですが、ピングドラムとは誰かを愛する感情そのものである」と考えることで我々はスムーズな理解を得られます。

 

 

 最も重要なキーワード

 物語が佳境に入るにつれて抽象的な言葉が飛び交うようになる本作でありますが、その中で最も重要なキーワードとして私が挙げたいのは、「選ばれること」です。「選ばれる」とはもちろん、愛の対象に選ばれることです。物語の中では、多くの人物が「選ばれなかったこと」による悲愴を経験しています。ここで一つの〈装置〉が私たちの記憶から蘇ります。そう、それは「選ばれなかった子供たち」が向かう終点、「こどもブロイラー」です。

 「こどもブロイラー」は「選ばれなかったこと(愛されなかったこと)」によって精神的にスポイルされてしまった子供のたちの運命、そのメタファであると言えます。「『かわいい』を消費されたヒマリ」「父親に『選ぶ家族を間違えた』と言われたカンバ」「両親が死んだ姉に囚われ続けているリンゴ」「芸術品としてしか自分を見てもらえなかったユリ」「才能の欠如により親からの愛を得られなかったタブキ」「選ばれなかった」わけです。

 それでは「選ばれなかった子供」は「透明な存在」になるしかないのだろうか、という疑問が浮かび上がります。「選ばれない」限り、そうなるほかありません。だからこそこの物語では「選ぶこと」の重要性が非常に丁寧に描かれています。ユリとタブキはモモカに、カンバはヒマリに、ヒマリはショウマに、それぞれ「選ばれた」ので、現代においても、傷を残しながらも幸せを享受するために生きることができます。

*ここに挙げたカンバ・リンゴ・ユリは「こどもブロイラー」には行っていませんが、カンバとユリは「こどもブロイラー」に行く前に「選ばれて」います(ユリの場合、肉体的な危険があったため、モモカの「乗り換え」による救済を受けます)。そしてリンゴですが、彼女は少し特殊で、「選ばれなかった」運命を「タブキとの恋の成就=モモカへの同一化=家族の絆の再生」という歪んだロジックで克服しようとしています。そしてそれが否定される前から、ショウマへの恋心を抱き始め、「選ばれなかったこと」による破滅的な傷害を上手く受け流し、それを自分の愛に没頭することで無視するという方法で、「こどもブロイラー」を回避します。彼女は「選ばれること(愛されること)」ではなく「愛すること」に人生を奉げられる特殊な能力を持っています。ここを鑑みるに、モモカの妹であるという血縁的特殊性と、最後の「呪文」を唱えるのが彼女であることに納得がいきます。

  

 

 運命の果実を一緒に食べるということ

 モモカの「乗り換え」の呪文は「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉でした。 作中に多用される「りんご」のイメージから考えれば、これは「旧約聖書」においてアダムとイヴが〈知恵の樹〉である「りんご」の実(聖書の解釈については諸説あり)を食べ、神に罰せられたという神話が思い浮かべられることでしょう。知識を得、新たなステージ立つと同時に人間はその罰を受けなければならないという構造は恣意的な「運命の乗り換え」によって世界(あるいは個人)の運命を左右するという行為には、犠牲が伴うという「乗り換え」の構造にも合致します。

 しかしここには、新たな別の解釈の糸口が存在しています。物語内において、ピングドラム」は「乗り換え」の装置のようなものでした。そして同時に「ピングドラム(=運命の果実)」には前述のように「誰かを愛する感情そのものである」という側面も存在します。「呪文」はそもそも「モモカの遺した一番大切な言葉」であったわけですから、ここには彼女の意志が現れます。「愛」である「運命の果実」を分け合い食べるということは、即ち、「互いに愛し合おう」というメッセージでもあるのです。

 そしてこの言葉を自ずから口にした人物が一人存在します。「箱」の中、自分のりんごをショウマに分け与えたカンバもまた、「運命の果実を一緒に食べよう」と言っています。

 

 

「箱の中」で起きたこと。運命の兄弟

 本編第23話(第24話が最終話)の最後に登場した「箱の中」。小さな牢獄のような形をしたつくりの二つの箱の中には、それぞれ幼少期のカンバとショウマが入れられています。二人とも衰弱した様子で、二人はここで初対面であることが判明しています。ここに至る経緯は、本編おいてほとんど語られることはありません。突然現れたこの「回想」には果たしてどうような意味があったのでしょうか。

 もちろんこのシーンで最も重要な箇所は、カンバが自分の箱にしかなかった「りんご」をショウマに無条件で分け与えるシーンです。このシーンでカンバは件のセリフ、「運命の果実を一緒に食べよう」を口にします。

「箱の中」のシーンでは幼きカンバとショウマの両方はひどく弱っていて、絶望的な心境にあったといえます。これは前述の「選ばれていない(愛されていない)」状態と近いものと考えられます

*物語内でのつじつまを考えれば、ともに実の親が「企鵝の会」としてテロ活動に勤しむ結果、十分な愛を得られなかったカンバとショウマは、この幼少期にともに「選ばれない状態」=〈「透明な存在」になる危機〉にあったと説明できるでしょう。あるいは、メタファとしての「箱」つまり、社会や文化が生み出す閉塞感・束縛・苦痛・不条理(サネトシが世界ごと破壊しようとしていたものはまさにこれでした)に、この兄弟もまた閉じ込められていたのかもしれません。

 重要なのは、カンバが見返りや損得といった合理性を放棄した形で「りんご」をショウマに分け与え、そして「一緒に食べた」ことです。「運命の果実」を二人で分け合うことは、前述の通り「互いに愛し合うこと」と同義です。二人は、互いに欠乏していた「愛=運命の果実=ピングドラム」を、互いを愛することで補いあうという生存戦略をとったのだと言えます。カンバがショウマを「選んでいた」わけです。

 

 

輪るピングドラム

 「輪る」とはいったい何をしめすのか。これは循環を意味します。回転する物体に伴い、「ピングドラム=愛」は人々の間を巡り続けます。カンバからショウマへ。ショウマからヒマリへ。ヒマリからカンバへ。そして物語のクライマックスでは、ショウマから、タナトス(死・破壊)の衝動に駆られ愛を忘れていた(=「迷子になっていた」)カンバへ。輪るピングドラム」とは「循環し人々を繋ぐ愛」のことなのです。

 そしてまた、ここにも重要なメッセージが隠されています。サネトシに惑わされタナトスの使者として活動していたカンバは、ショウマから分け与えられた「愛=ピングドラム」によって「本当の光」を見つけます。これが示すものはとは、タナトス(死・破壊)に支配された人間の心を救うのは愛(エロス)である》ということです破滅的観念希死念慮・破壊欲動など)に囚われた者の心を救い、世界や個人の破滅を防ぐ方法は「選んで、愛する」ことであるというのがこのアニメの最終的なメッセージであると言えるでしょう。

 

れを的確に示したセリフが本編最終話にあり、ここでそれを引用します。

「君と僕はあらかじめ失われたこどもだった。

でも世界中のほとんどのこどもたちは僕らといっしょだよ。

だからたった一度でもいい。

誰かの『愛してる』って言葉が必要だった。」〔タブキ〕

 

「たとえ運命がすべてを奪ったとしても、

愛されたこどもはきっと幸せを見つけられる。」〔ユリ〕

 

               「輪るピングドラム」第24話より タブキとユリのセリフ

 

 「乗り換え」が完了したあとの世界で、最愛の二人の兄を失った妹と、想い人を失った少女が、「選ばれない」に苦しむことはないでしょう。なぜなら、二人はすでに愛を受け取っているからです。

 

 

りんごはあなたの手の中に

 このアニメは最後、どこからかやってきた半分のりんごを誰かの両手が受け止めるシーンで締めくくられます。分けられた「運命の果実」を受け取ることは、「愛」を享受することに同義です。この先は様々な解釈が可能であると思われますが、私はやはり、の手はアニメを見ている我々の手であると考えたいのです。とはいえ、「アニメが我々を愛してくれている」というのはすこしズレているでしょう。この場合我々が受け取ったものは「愛することの価値」です。メッセージとして、「誰かを愛しなさい」といういわば訓示を受け取るわけです。その「愛」はきっと受け取る側の人を救うものになるでしょう。「選ばれる」ことで我々は生きていけるのです。そして「選んで、分け与えた愛」は「輪る」ことによって、我々に返ってくることになります。これこそが「愛の循環=輪るピングドラムであったのだと、ここで述べさせていただきます。

 

 

続き

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 ぜひご一読ください。