趣味としての評論

趣味で評論・批評のマネゴトをします。題材はそのときの興味しだいです。

「輪るピングドラム」考察補論―未だ語り得ぬ物語について

*本文にはアニメーション作品「輪るピングドラム」のネタバレや個人的解釈が含まれます。

また私の「輪るピングドラム」解釈についてその本筋は、過去の記事↓

pyhosceliss.hatenablog.com

に詳しくありますので、ぜひそちらを読んでいただきたく思います。上の議論を前提にこちらでも考察を展開させていただきます。

 

 

未だ語り得ぬ物語

 「輪るピングドラム」についての私の考えは以前のものに完了したわけではなく、未だ触れていないが、触れるべきセリフ・演出が数多く存在します。故に、散乱した形ではありますが、ここに解釈の種とでも呼ぶべきようなものを、随時更新していこうと考えております。

 

一、渡瀬眞悧という「人間」

 本編後半から現れた二人の重要人物、渡瀬眞悧(サネトシ)と荻野目桃果(モモカ)ですが私の以前の考察では、対立するタナトス(死・破壊)」「エロス(愛・保護・創造)」のメタファとして紹介していました。

 「精神分析学」において、これら二つの属性は人間心理の根源にあると考えられ〔この点については諸説があります〕、つまりは我々人間において、誰もが持っている属性であるということが、肝要となります。我々はエロスのみでなく、タナトスもまた抱えて生きていることになります。逆に考えれば、私たちが社会を構成して、数々の瑕疵がありながらも、ごく一部分的に平和を作りあげているのは、エロス起因であり、そして、世界の悲しみや悲惨を生み出すものは、一方のタナトス起因であると言えるでしょう。我々はこの二元的な要素の両方を心に宿しており、どちらかが優位になればそれに付随した行動をするわけです。

 テロリズムとそれに対する不服従の対抗のように、エロスとタナトスは現実世界に発現したとき対立する関係になります。しかし、実際の人間の中では渾然一体としたかたちで深く混ざり合っています。

 理論はこの程度に、「輪るピングドラム」に話を戻しましょう。我々が注目すべきは、やはり物語の鍵を握るあの男、渡瀬眞悧です。

 前回の「輪るピングドラム」考察では、モモカもサネトシも共に人間ではなく、これらはそれぞれエロスとタナトスの化身であり、「人間と呼ぶのは適切ではない」と述べましたが、れを撤回せざるを得ない考えが浮かびあがりました。特にサネトシについて、彼の振る舞いはタナトスの化身」と称するにはあまりに人間的であり過ぎます。

 それはサネトシと、彼の傍にいる二匹の黒兎・シラセとソウヤのいくつかのセリフから読み取れます〔シラセとソウヤは、サネトシの眷属のような、下位の存在のようにも見えますが、十六年前のテロ決行日におけるサネトシとモモカの対決とその結果から考えて、サネトシとイコールの存在と考えていいでしょう〕

「ぼくは何者にもなれなかった。」

「いや、ぼくはついに力を手に入れたんだ。」

「ぼくを必要としなかった世界に復讐するんだ。」

「やっとぼくは透明じゃなくなるんだ。」

*「輪るピングドラム」第二十三話より、シラセとソウヤのセリフ

出口なんてどこにもないんだ……誰も救えやしない。

だからさ、壊すしかないんだ……箱を。人を。世界を。

*「輪るピングドラム」第二十三話より、サネトシのセリフ

  これらのセリフを参照することで、サネトシの過去のようなものが垣間見ることが出来ます。

 サネトシは、「世界に必要とされなかった」→「必要とされたかった」。

 サネトシは、「『透明な存在』でなくなる」→「『透明な存在』だった」。

 ゆえに彼は、復讐としてのタナトスの発動を、世界の破壊をもくろんだわけです。

 

*「透明な存在」とは、このアニメ作品において、「与えられるべき愛を喪失した人間」が陥る絶望状態のようなものだと、前回の考察で解釈しています。またこの「透明な存在」というキーワードは、神戸連続児童殺傷事件=通称「酒鬼薔薇事件」の犯人(当時中学生)が自身を指してそう呼んだともされています。

 

 ここで判明する事実として、サネトシは、純粋な破壊の精神(=タナトスの化身)としての特徴を持ちながらも、一方、彼は「傷ついた一個の人間」であり、また「世界に絶望したひと」であったということが分かります。彼もまた、〈物語=運命〉の波に翻弄されたキャラクターの一人なのです。

 そしてさらに、渡瀬眞悧という「人間」のその性質が見られる興味深いセリフが存在します。

以下、長い引用。

その女の子はね、突然僕の前に現れたんだ。

驚いたことに彼女はね、僕と同じ種類の人間だったよ。僕とおなじ瞳。

出会った瞬間、僕はこの世界で独りぼっちじゃなかったことを知ったよ。

そうなんだよ。彼女に出会うまで、僕はこの世界に独りだったからね。

僕に見える風景は僕以外の誰にも見えない。

僕が聞こえる音は僕以外の誰にも聞こえない。

でも、世界中のひとの声が聞こえていたんだ。

世界中の”助けて”って声が聞こえたんだ。

だから世界の進むべき方向も、僕には見えていたんだ。

でも、だから悲しかったよ。

だって彼女と出会った瞬間、

僕たちは絶対に交わらないって分かったから。

彼女は僕の味方になってくれなかった。彼女は僕を否定したんだ。

同じ風景が見える唯一の存在である僕を否定した。

*「輪るピングドラム」第十三話より、サネトシのセリフ

  サネトシが「十六年前に出会った女の子」となると、それはほかでもなく、もう一方の欲動・エロスを司る存在、モモカのことを指しているのが分かります。

 この世に人間として生まれてきたサネトシは、しかしやはりタナトスとして、「世界の行き詰まり」を破壊することを目的に生きてきたのでしょう。その人生の中で彼は、「透明な存在」になってしまったのかもしれません。彼がタナトスの化身と化したのは「透明な存在」になってしまったが故なのか、それとも生来のもの、まさに〈運命〉として彼は世界の破壊を選択したのか、私はこれは後者が当たると考えます。というよりは、〈運命〉的に世界の破壊属性を代表して現れたサネトシだからこそ、世界のひずみを受け取り、また「透明な存在」となったと考えることが自然でしょう。

 そんなサネトシが出会ったのが、同じ様に世界を見ていた「同じ種類の人間」である少女、モモカでした。彼は独りぼっちだと自分でもそう思っていたところに、またそうして自分を独りぼっちにした世界への復讐としての破壊をもたらそうとする直前(十六年前のテロ)に同族であるモモカと出会います。

 このシーンは本編23話冒頭において明らかになっています。二人は初対面であるはずながら、さながら平家武士のように迷いなく互いに名乗りをあげ、そして自分たちが絶対の敵対にあることを理解しています。モモカは、強大なサネトシという悪に向かって毅然とした顔つきをしていますが、一方サネトシはどこか弛緩した、何か嬉しそうな表情さえ浮かべています。それも上の引用から分かるように、彼はその時初めて、自分を理解してくれる可能性のある、愛すべき人間に出会ったわけです。

 しかしまた、同時に彼はその恋(サネトシは、モモカに対して恋心を抱いています。「恋人」「花嫁」といった単語を、彼は何度か使用していますが、それは全て、明らかにモモカに向けてのものでした)は瞬時に破綻してしまいます。モモカはサネトシを否定しました。おそらく、モモカにとっても「同種の人間」に出会ったのは初めてであったと思われます。二人は、出会って、互いに同じ類の人間であることを知って、そしてまた、それゆえに反目せざるを得なかった。それはサネトシは世界を破壊するために生きており、またモモカは世界を保護するために生きているからです。

*また、ことあるごとにサネトシは自身の野望、すなわち世界の破壊をモモカに見せつけることに言及しています。非常に歪んだ形ではありますが、「自分を決して受け入れない想い人に対して、かえってその人が望まないようなことであっても、自分の欲望を満たそうとする」という恋愛のかたちに、私たちは非常に人間的なものを感じるのではないでしょうか。

 そして「十六年前」の決着ののち、物語舞台の現代時間において、もう一度二人の対決が始まります。次は彼ら自身ではなく、高倉兄弟という二人の少年が役割を代理してそれを実行することになりました。

  さて、サネトシの人間的な側面について触れたわけですが、ここでまた、彼のセリフの中に注目すべきものが残っていたことに気付きます。以下引用です。

君たちは決して「呪い」から出ることはできない。

〔中略〕

「列車」はまた来るさ。

*「輪るピングドラム」第二十四話より、サネトシのセリフ

 上のセリフは、高倉冠葉に向けたものでしたが、これを世界全体に向けた言葉として読み直すことが可能です。この場合、「呪い」とはサネトシ自身、つまりタナトスの意志であることが伺えます。一度、エロスとタナトスの大きな闘いにエロスが勝利したからといって、それで人間の破壊欲動・攻撃欲動が消えてなくなることはないということの暗示であると言えます。彼ら(高倉家の人々や荻野目萃果)はタナトスの発動を防ぐことに成功しましたが、それによって彼らは自分たちの幸福を獲得したに過ぎず、世界ではいつでも破壊や攻撃がどこかで行われ続けているのでしょう(これは我々の生きる世界にも同じことですが)。

 そして下のセリフ、こちらはモモカとサネトシの会話の中での発言ですが、やはりここでも、「列車」つまり、呪い・幽霊と化したサネトシが、再び発現して世界に干渉する機会があるということを示しています。エロスが不滅であるように、またタナトスも不滅であるわけです。

*余談ですが、ここでモモカは列車のレールが敷かれた舞台から去っていきます。サネトシとモモカはここで自分が乗るべき「列車」を待っていたようでしたが、モモカのほうはそれを放棄して、どこか闇の中、緞帳の奥に消えていきます。このとき、サネトシは残り続けるわけですが、彼の振る舞いがどこか悲し気である点が、物語に非常な美しさを生み出しています。

サネトシは、いつも我々を見ているのだということが、物語でははっきりと示されています。

 

 

二、「エロスの継承」という世界の生存戦略

 本編最終話のクライマックス「運命の乗り換え」直後では、二つの人間原理の化身であり、また確かな人格を持った二人の人間・サネトシとモモカの最後の会話があります。サネトシの敗北という形で決着した物語でしたが、ここで世界から去ってゆくのはなぜか世界を守ったはずのモモカの方でした。

 なぜ彼女は世界の舞台から去っていったのか? そしてエロス(世界の保護を司る巨大な精神)の化身である彼女がいなくなったとき、誰がその代わりを務めるのか? 二つの疑問が我々の前に突き出されます。この謎を解き明かす鍵となるのは作中に何度も登場したあの場所、「運命の至る場所」です。

 「運命の至る場所」、この言葉を作中で初めて口にしたのはあの人物でした。一連の内容を以下に引きます。

わらわはお前たちの運命の至る場所からきた。

喜べ。わらわはこの娘の余命をいささか延ばしてやることにした。

もしこのままこの娘を生かしておきたくば……

輪るピングドラム」第一話より

 病弱の少女・高倉陽毬がペンギン帽子を被ったときまるで二重人格のように現れるあの人物、プリンセス・オブ・ザ・クリスタル(以下プリクリ)のセリフが上のものです。彼女は何者なのでしょうか。ここでは、プリクリが荻野目桃果の分身であると考えることにします。十六年前の対決で、モモカは二つのペンギン帽子に分離して世界に残ったわけですが、その片方を夏芽マリオが、そしてもう片方をヒマリが、まるでそれらに選ばれたかのように被ることになりました。プリクリはことあるごとにピングドラムの回収を高倉兄弟に命じるところ、プリクリはやはり、サネトシに対抗して世界を救おうとするモモカの分身であるといっていいでしょう。

 それでは「運命の至る場所」とはいったいどこなのか。本編第二十三話のサブタイトルがそのまま「運命の至る場所」であることからその冒頭、サネトシとモモカの対決のシーン、あの空間こそが「運命の至る場所」と言えます。しかし、「つまり十六年前の、サネトシが爆破テロを発動する直前のあの列車の中」が「運命の至る場所」なのではありません。「運命」「至る」「場所」。これはつまり、「世界が運命的にその場所に必ず収束して、そこに至る」ということでもあります。十六年前のあの場所で起きたのは、ただの不完全なテロ事件ではありませんでした。あの場所で起きたこと本質的に捉え直せば、あそこで起きたことというのは、界の巨大な二つの精神の対決と一時的な決着でした。つまり、愛と憎悪の、創造と破壊の、エロスとタナトスの、モモカとサネトシの対決です。

 世界は常に、エロスとタナトスの対立によって構成されていて、「輪るピングドラム」世界におけるこの対立の歴史的なワンシーンが、渡瀬眞悧と荻野目桃果の対決であり、またその十六年後の、高倉兄妹の和解でもあるのです。そして象徴的にも、その両方は、「列車」の中で行われています。

 これによってプリクリが「運命の至る場所」から来た、ということにも説明がつくようになります。サネトシとモモカ(≒プリクリ)は十六年前の対決以来、両者ともの現実世界から排除されていました。サネトシは「運命の乗り換え」で、モモカは「呪い」で、お互いに刺し違える形で、互いを現実には干渉できない(しにくい)ところに排したわけです。では彼らは、十六年後の物語世界に登場し始めるまでどこにいたのか。それが「運命の至る場所」です。彼らは、二人ともモモカによる「運命の乗り換え」の不完全な乗り換えの前の列車(世界)に閉じ込められました。そして二人は、自分たちの後継となりうる、それぞれの精神の継承者がそれを発動する機会を待っていたのです。 サネトシは高倉冠葉を選びました。そしてモモカが選んだのは高倉晶馬と、そしてまた高倉冠葉の二人、高倉兄弟の両方でした。

  そして物語において、サネトシは再び敗北し、世界は救われました。それではモモカの精神、エロス(保護と創造)の精神を継承した高倉兄弟はどうなったのか。彼らはそれぞれ罰を受けました。冠葉は、サネトシにかどわかされていた間の犠牲を生み出していた罪について。〔→最終話クライマックスで、冠葉の身体から噴き出す赤い欠片と苦しむ彼、そして最後には砕け散っていく彼の肉体を、私は彼自身が押し込めていた後悔や罪に対する苦悩の結果であると解釈しています〕そして晶馬は、萃果による「運命の乗り換え」の代償を肩代わりすることによってです。二人はそのあとの、「乗り換え後」の世界には存在していません。彼らの存在は世界から消されてしまいました(それでも、一部の人達は決してそれを忘れません。その点については前回の考察が関連しています)。しかし彼らは、最後により幼い少年の姿になって並んで歩いている姿が確認されます。

「ねぇ、ぼくたち、どこ行く?」

「どこへ行きたい?」

「そうだな……じゃあ……」

輪るピングドラム」最終話より 晶馬と冠葉のセリフ

  二人はどこへ行ったのでしょうか。直後のシーンでは陽毬の天蓋ベッドが夜空に浮かびあがることからも、彼らは自分たちが存在しない世界でも妹を見守り続けることを選んだともとれるでしょう。それも辻褄のあう解釈ですが、私はとくに支持したいのが、彼らはエロスの後継者として、モカの跡を継いだのではないか。というものです。

 二十三話では、モモカがペンギン帽子を通して晶馬に「あなたたちのピングドラムを見つけるのだと言っています。これはつまり、世界を保護する、破壊から守る「ピングドラム=愛」→参照とは「運命日記」だけではなく、それぞれの人間が「自分自身のピングドラム」を持ちうることのだと示唆しています。運命日記ではない、自身の「ピングドラム=愛」(高倉兄弟の場合、分け合ったリンゴがそれに相応しいでしょう)を獲得した彼らは、自ら世界から去っていったあの少女の役目・使命を受け継いで、世界の守護者としてのステージに登壇したのではないか、と私は考えています。

 そこから導かれる推論としてあるのが以下のものです。プリクリが高倉陽毬の病弱を利用して、高倉兄弟にピングドラムを探させたことや、タナトスであるサネトシと対決させたことというのは、モモカによる世界そのものの生存戦略なのではないでしょうか。サネトシというどこまでも破壊と死を追求する怪物に、戦略的に立ち向かう術として彼女が選択したものがピングドラムであり、また高倉兄弟への命令であったわけです。そうすると、プリクリが現れるイリュージョンの中で、彼女が最後に必ず言い放っていた提案の本当の意味も、少し見えてくるような気がします。

 

 

三、罪のひと・運命の奴隷・半分のりんご―高倉晶馬

  本作は第一話より、常に冠葉と晶馬の対比が描かれています。プレイボーイでガサツ、またある種のマキャベリズム〔目的のためには手段を選ばないとする思想〕さえ持ちうる冠葉と、真面目で誠実、違反や逸脱に厳しい晶馬という対照です。とくに晶馬のその倫理意識の高さや規範への忠誠はことあるごとに示されます。

 晶馬は、物語前半部分では、愛のため違法行為さえ憚らないクレイジーな少女、荻野目萃果に付き添って彼女の暴走をちくいち咎めます。自他を問わず厳しい監視の態度で生きる彼には、つよい良心の枷があるように思えます。コメディ・パートでは「ツッコミ役」であった彼の振る舞いも全ては彼の過剰な罪の意識から来ているのかもしれません。

 彼の罪の意識とはなんなのか? それが顕著に示されるのは本編第十二話、「メリーさん」の挿話です。あまりにも意味ありげなこの挿話ですが、この短い物語に「輪るピングドラム」全体としての意味を見出すのはナンセンスであると言えるでしょう。むしろここでは、この悲しいおとぎ話が、晶馬の言葉として語られたことに我々は注目すべきです。

 晶馬の罪責感の発露は萃果への高倉家の秘密の告白から始まります(第十二話)。そして、ついにプリクリのイリュージョンが終わり、陽毬の延命が同時に終わるとき彼は「メリーさん」を唱えながら、絶望に打ちひしがれました。ここから分かる(というか自明ですが)つまり、高倉家における罰は「理不尽な陽毬の死」であるわけです。では罪とはなんでしょうか。これも明らかに示されていますが、つまりは「高倉夫妻(=ピングフォース・企鵝の会)によるテロ」ということになります。晶馬は彼自身による行為ではない責任について、それを背負って(というよりも当然の帰結だと思い込んで)います。

 彼の苦悩は陽毬の(なんども繰り返される)「理不尽な死」にあるわけですが、つまりこれは晶馬自身が、「陽毬が罪を負って罰を受けるのは筋が通っていない」と思っているということです。同じことを、晶馬は冠葉に対しても思っています。

 なぜなら直截に高倉夫妻の罪を継承すべきなのは晶馬のみである、すなわち罪の血統を引くのは実子である高倉晶馬だけであるからです。この血統の事実が晶馬の強い罪の意識を由来しているのは作中でも言及されており、明らかな情報であると言えます。また、「透明な存在」になりつつあった陽毬を救いだして家族に迎え入れたのも晶馬でした。高倉家の罪を条理に適った形で背負うのは彼であるはずが、それは理不尽にも陽毬に課せられます。

  晶馬の罪責意識と共に我々が分析しうるものは、彼の世界観です。世界観とはつまり、その個人が、世界の解釈をどのように行っているかという目線のことです。

あるひとは「この世の中は才能とお金がすべてだ」というかもしれませんし、またあるひとは「世界は愛情によって動かされている」と考えるかもしれません。あるいは宗教家であれば、「世界は神さまがつくったものなので、全てには意味があるのだ」(目的論的世界観)とするかもしれせんし、一方で我々の時代を生きる人々なら、「世界は物理法則で成り立っているのであって、人間でさえも、生物として動くだけの一つのシステムに過ぎないんだ」(機械論的世界観)とする方が多いのではないでしょうか。ここではこういった考え方、世界の捉え方を、世界観とみなします。

 では、晶馬の世界観とはなんなのでしょうか。それは以下ようなものだと推測できます。

 

「世界は運命によって既に定めらていて、人間の罪と罰でさえも理不尽に決定されている。それを人間が覆すことはできない」

 

 私がしばしば理論を引くフロイトは、運命の力のことをギリシャ神話の運命の女神、「アナンケー」の名を借りて表現します。アナンケーの力は人間には対抗の方法がありません。わたしたちは、例えばとてつもない不幸や理不尽に直面したとき、あるいは誰かに責任を投げかけたり、自分の行動を改めたりするわけですが、もしそれが、全く予想のしようのない、回避も防衛も不可能なものであった場合、しばしば運命の残酷さ、アナンケーの御業を実感することになります。しかしここで、あるいはこういった反論があるかもしれません。

 

「確かに運命は作中で頻出するキーワードではあるけれど、第一話から晶馬は『運命って言葉が嫌いだ』と否定しているじゃないか。そんな彼が、《運命絶対世界観》を抱えるわけがないのではないだろうか」

 

 それでは、第一話の晶馬のモノローグをここに引いてみましょう。

僕は、運命って言葉が嫌いだ。

生まれ、出会い、分かれ、成功と失敗、人生の幸不幸。

それらがあらかじめ運命によって決めらているのなら、

僕たちはなんのために生まれてくるのだろう。

裕福な家庭に生まれるひと、美しい母親から生まれるひと、

飢餓や戦争のまっただなかに生まれるひと。

それらがすべて運命だとすれば、

神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。

あの時から僕たちには未来なんてなく、

ただきっと何者にもなれないことがはっきりしてたんだから。

 「輪るピングドラム」第一話より

 

 確かに彼は、物語の最も初めの部分で「運命の強制力」を否定しています。しかしここでは、彼のセリフをそのまま額面通り受けとることが解釈として適していません。ここでは、彼が「運命論」を嫌って、否定していることに注目します。ぜ彼はここまではっきりと、運命を否定するのでしょうか。その妥当な理由として私たちが挙げられるのは「彼自身が、運命の女神・アナンケーの力に大きく左右された人間であるから」です。

 “子は親を選べない”とはよく言われますが、まさに晶馬の人生はその一言から始めると言えるでしょう。彼が生まれたのは、テロリズム集団の指導的幹部である夫妻の下でした。そして「愛」によって陽毬を救済したわけですが、その大切な妹さえもやはり致命的難病という枷を受けることになります。このどちらもが、理不尽な運命、晶馬の行動や性格によらないものを要因とした不幸であるという共通点があります。

 こういった絶大な不幸を享受せざるを得ない晶馬は、どう考えるのか。自分の責任ではなく、まったくの無理由と理不尽によって人生をめちゃくちゃにされた彼はどう思うのか。その帰結は人間的にもごく自然なものです。

 理由がないもの・わからないものに対して人間は、そこに多少強引であってもなにかの理由を求めます自然法則に対し、科学的理解が及ばなかったことや、ある種の理不尽に対し、古代の人々は「神」の観念を生み出しました。では晶馬は理不尽に対して、どういった回答を行ったのでしょうか。晶馬は、そこに罪と罰を見出しました。

 罪と罰が自分の人生の根底にあると考えることで、彼は理不尽な不幸に対して、その理由を見つけるわけです。「僕が不幸なのは、僕が悪いからだ」と考えることで、たとえ今が不幸(罰)であっても、それは過去の罪(実の両親の罪の継承)に由来するものであって、今からの人生をよりよくしていけば、罰⇔罪のシステムにおいて、罪を回避できるわけです。

 それゆえに、彼は作中においてもとても倫理的な振る舞いを続けます。それは、彼が性格的に真面目であるという理由もあるかもしれませんが、それ以上に彼は、不幸を回避するため、あるいは今受けている罪を取り払うために、赦されるために正しくあろうとしているのだと言えます。

 自身の運命的不幸を、回復可能なもの、幸せになれるものだと認め直すためのロジックが晶馬の「罪と罰」の意識でした。しかしこれでは、彼が運命肯定の世界観を持っているというよりは、世界を「罪と罰」の原理で捉えているとするまた別の世界観が生まれるようであります。

 彼が本当に見ていた世界とはいったい何だったのでしょうか。―ここでやっと戻ってきますが―「メリーさんの羊」では、明らかに罪と罰」の原理を実行する女神(くしくも「女神」です。もしかすれば、彼女は運命の女神・アナンケーであるのかもしれません)が登場します。そして彼女は以下のようなことも言います。

 

―だって罰は、いちばん理不尽じゃないとね。

輪るピングドラム」第十二話より

 

 ここで、晶馬の語り=「メリーさんの羊」によって明かされるものがあります。「罰は理不尽に与えられる」ということです。晶馬は罪と罰によって理不尽に理由を与えますが、その一方で、罰もまた理不尽の性質が備わっているという無限の連鎖を、一種のトートロジー(一つの言葉を同じ言葉で説明すること。例:ピングドラムとは、ピングドラムのことである)を生み出します。

 つまり、彼は、世界を「運命が絶対」と、捉えながらも一方で、その理由のなさ、回避しようのない運命的不幸から脱却するために「罪と罰」を生み出し、さらにその「罰」には理不尽性があるとして、そこに無力感を覚え続けているわけです。

 そんな彼は、物語においてどういった心理的決着を導くのでしょうか。最終話のセリフをここに引いてみましょう。

 

僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんな分け合うんだ。

これが僕たちの始まり……運命だったんだ。

輪るピングドラム」第二十四話より

 

 愛も罰も分け合う。それが彼らの始まりであり、運命であった。それはつまり、高倉の三兄妹が家族を始めたことに通じます。彼らは自身らに降りかかった理不尽な苦しみを分かち合うことで、家族になりました。そのことだって、運命であったのだと彼は見なしたわけです。

 ここで彼は運命を受け入れています。運命を否定することを止め、また理不尽の理由づけを止めた彼は、運命という大きな流れの中で、苦痛の回避や悔悟ではなく、自分はなにをすべきかという世界に到達します。そしてその問いの答えに彼が選んだものが、「愛も罰も分け合うのだ」という結論です。これは「人生の幸福も、理不尽な苦しみも、人と分けかちあうことに意味がある」と読み替えてもいいでしょう。

 すなわち晶馬は、理不尽の苦しみ(罰)を、理由づけによる納得ではなく、愛するひとたちと一緒に共有すること(これは、自分の苦しみだけを誰かに押し付けることと同義ではありません。分かち合うことはすなわち、相手の苦しみもこちらに受けとることになります。)によって心を安めることを見つけたわけです。

 そして前回の考察のもっとも重要な箇所「互いに愛し合う=運命の果実を一緒に食べる」の観念参照に接続するわけですが、ここに現れたメタファとしてのりんご、半分のりんごについて少し言葉を割きたいと思います。

 なぜりんごは半分なのか。一つのまるごとのりんごを与えることは本作のテーマには合致しません。「りんご=愛・生命のメタファ」は、一人の人間から、分割されたものが他者に分け与えられる。それが愛です。もう少しこの箇所を読み解くために、もう一度フロイトの理論に立ち返る必要があります。

 フロイトは、人間の心のエネルギーを「リビドー(欲動)」と呼びました。しばしば彼の理論では、「人間の心はすべて性欲によって説明される」と総括されることが多いですが、「リビドー」はたんなる性欲ではなく、「性的な欲求が基盤としてあり、一方で総量に限界がある通貨のようなエネルギー」のように扱われます。

 リビドーは固定の量が人間ひとりに所与として存在すると考えられており、普段は自分に向けて「備給」(与え補給すること)されています。量に限界があるリビドーは以下の図のような扱い方がされます(これは一例です)。

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*『エロス論集』の出版は1994年ではなく、1997年です。画像のものはまちがいです。

 

 上の図はリビドーが健全に人に向かって与えられるものを描いたものです。もし片方からしかリビドーが与えられなければ(いわゆる片思いの状態)、その人は「こちらからはリビドーを与えているのに、向こうからのお返し」がないことに陥り、そこにはある種の苦痛が生まれます。

 私がここで示したいのは、「半分与えて、半分残す」という総量の計算のことではありません。ここで示しているのは、とは即ち、「自己に向けていたはずのものを、その一部を他者に分け与えること」であるというものです。自分を生かすためのエネルギーでもあるリビドーを、誰かのために分け与えることが愛であり、それはいわゆる性愛が伴わないものでもおなじこと(つまり家族愛・友愛・人類愛でもおなじ)です。

 物語に話を戻します。りんごを半分だけ分け与えるという行為、このメタファの意味は、自分が持っているものを、分け与えるという意味です。自分のものを無条件にまず相手に分け与えることが愛の始まりであり本質なのだということが、作中に現れる半分のりんごが示すものだと言えます。

 そしてまた、前掲の晶馬のセリフ「僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんな分け合うんだ」というものも、このことを示しています。愛とは一方的なものではなく(たとえ始まりは一方的なものでも、本統にある愛は分かち合うことにあります)、一つものを分け合い、互いに与え合うものであるということです。

 全てを分かち合うことが、運命を受け入れ、またその不条理を克服することの正解であると気づいた晶馬は、象徴的に現れるピングドラム=愛を陽毬へ渡し、そしてそれは冠葉に与えられます。晶馬と陽毬から愛を受けとった冠葉は「ほんとうの光」を見つけることで、最期の時間を愛のために使うことができます。

 晶馬は、絶望的な運命の呪いを愛によって克服し、「愛による犠牲」を選択するという一つの人間の発展過程を描いた存在であると考えることができます(この解釈は、個人的好みとしていささか人間性に欠けるよう思われますが)。

 「輪るピングドラム」がある種の群像劇の体裁で進行しているのは、このように様々なタイプの人間を描くことで、広汎にタイプが分かれる人々に対し、自己投影のスクリーンを幅広く提供していくためなのかもしれません。

 

 

四、利他的な愛・犠牲になること・与えられるもの―荻野目萃果

 「輪るピングドラム」は、第十四話からの、病院での眞悧の登場(つまり、タナトスの精神による高倉兄妹への干渉の本格化)から明らかに物語のメイン軸とでも呼ぶべきものが切り替わっています。ここでは、この第一話-第十三話までを「第一部」第十四話-第二十四話までを「第二部」と呼ぶことにすると、「第一部」では、不気味な謎が仄めかされつつもキャラクターたちは日常の中で、自分の生活に明け暮れています。そして「第二部」は、眞悧と桃果という超自然的・超人間的な存在が現れ始め、また徐々にメインキャラクターたちに過去が明らかになっていくという構成になっており、眞悧vs.桃果(=タナトスvs.エロス)の大きな世界の流れに翻弄されながらも、キャラクターたちは、自分なりの答えを見つけていくことになります。この構造は、幾原邦彦の代表作「少女革命ウテナ」にも見られる物語の語りの手法であると、私は考えています。

*ちなみに、ウテナの場合は、ウテナ・アンシー・暁生の三人の主軸の物語に付随する形で、生徒会メンバーや関係者たちの物語が各々のかたちで進行していくことになります。

 

 ここまでの文章(前回の考察と、今回の一章-三章)では、上に記した、「第二部」についての記述がほとんどでしたが、本章では、「第一部」についてその物語的意味を読んでいきたいと思います。

 

 「第一部」は「第二部」に比べコメディ要素が多く、また多く時間を割かれている「萃果の暴走」部分については、「第二部」からその結末にかけて描かれる大きな物語の流れの中には、あまり関連してきません。となると、「第一部」は「第二部」という大きな主題が描かれるステージの土台としての意味や、テレビアニメシリーズとして体裁を整えるためのワンクール分、あるいは幾原邦彦の文法を視聴者に馴染ませるための助走距離でしかなかったのか? というような疑問が浮かび上がります。しかし、それは「第一部」の流れを丁寧に追うことで払拭することができる疑問です。ここで解釈の筋道をうまく立てるために、私は一つの補助線を引きます。それは、荻野目萃果を「輪るピングドラム」の主人公としてみなすことです

 

 主人公という言葉は、本来この作品には相応しくないものであると私は思います。なぜなら、作中では、メインキャラ全員の物語を調和に導くために、群像劇のかたちを以て物語が進行していくからです。物語中に現れるすべての出来事や人々の心中を、把握できるのは受け取り手である私たちのみであって、たとえ神のような立場で、現実世界の生者たちを操作していた眞悧も桃果も、「家族の命」という大きな価値を使って、冠葉・晶馬・真砂子他を翻弄していたにすぎません。つまりは、ラクターたちそれぞれの独立した物語が存在しているわけです。それぞれが、壁にぶつかり、それを乗り越え、そして新しい答えを見つけていくという、作話の基本構造をなぞっているものが、複数のあるというのが、「輪るピングドラム」の物語構造のベースであるといえます。

 

 では、「荻野目萃果を主人公とする」ということに、どういう意味があるのか。それは、彼女が作中において、もっとも劇的な進化を遂げている点にあります。もう少しほぐして言えば、彼女がもっとも大きな振れ幅において、「利己性(=自分勝手)を脱却して利他性(=誰かのために)を獲得した」ということが重要なのです。利己者から利他者へと変化することは、つまり自己愛という<愛を自我に差し向けている状態>を、他者愛、<愛を他者に向けて差し向ける状態>に移り変わることと同じです。

 

 萃果は「第一部」において、多蕗との恋愛成就を目指すクレイジーな女の子として描かれています。しかしこの裏側には、姉であり、また故人である桃果の遺した運命日記を代行することで桃果に成り代わり、そして死んだ桃果に囚われ続ける両親の間を歪んだ形で結びつけ直し、家族の形を再び取り戻すという目的がありました。ここでの愛は、やはり自己愛的です。彼女は、「多蕗のため」に行動するのではなく、「多蕗を自分に惚れさせるため」に行動します。「第一部」において過激なコメディ演出が為されているのは、ある意味、萃果の未熟さ、幼稚性を表現する意図があったのかもしれません。第一部で描かれているのは、利己的な愛を絶対視している、愛の発展程度として未熟な少女としての萃果なのです。

 

 そして第二部の冒頭では、晶馬と萃果の行き違いが発生します。萃果は、ゆりの助言から、自分が、「家族の再形成」とは全く無関係な形で現れた高倉晶馬という少年に対して恋心を抱いているのだということに気付かされます。そして彼女は、晶馬に対して「かわいい女の子」演じて気を惹こうしますが、晶馬の暗い経験と、過去の因縁によってあしらわれてしまいます。ここで彼女は、今まで自分がやってきた恋愛の手段(つまり利己性に由来する愛)の限界に衝突します。「かわいい、外面の良い私」を見せて相手に惚れさせようとする恋愛手段から脱却した彼女は、そののち、多蕗の謀略によって傷ついた高倉兄妹により沿ったときには、「だから私のためにいてほしい」という自分の本心を打ち明けています。そしてこれ以降は、しばしば晶馬に寄り添い、彼が過去の因縁から苦悩するときには彼を支えようとする、利他性を発揮し始めます

 

 さらに最終話近くでは、燃える日記を守るために自らの身で抱え込んだり、また運命の乗り換えの呪文を唱えることで生まれる犠牲・代償を甘受してもなお、陽毬を守ろうとします。ここではついに、萃果が利他的な愛を獲得したことが描かれます。彼女は利他愛の最終的な境地である自己犠牲にまで至っています。自己犠牲とは即ち、そこで命を投げ捨ててでも、誰かのために尽くすことです。自分が犠牲になってでも、そのひとのことを守りたいという心の在り方は、まさに究極の利他性・自己犠牲の精神であると言えるでしょう。

 

<補考-自己犠牲に意味はあるのか?>

 自己犠牲にはどのような意味、あるいは価値があるのでしょうか。たとえば愛するひとのために命を奉げたとして、その愛するひとは、自分が命を賭してまで守ったとしても、いつかは自分のことを忘れて、その人生を勝手に生きることになるかもしれません。自己犠牲の瞬間は、甘美な自己満足の時間を過ごすことになるでしょうが、それでも、死んでしまえば自我は失われ、私たちは存在をなくしてしまいます。そのあとには、愛するひとを見守るというようなことは、現実にはできないでしょう。

 

 それでは、この作品で自己犠牲を描いたことに、肯定的に描いたことにはどんな意味があったのでしょうか。本作でモチーフとしてよく使われる「銀河鉄道の夜」(宮沢賢治,1934)でも、愛のために死ぬひと、自己犠牲の美しさが描かれます。列車の中で「萃果」をうけとるひとたちはみな、実は自己犠牲の中で命を失ったひとたちでした。「輪るピングドラム」の冒頭そのことが語られています。

 

 うがった見方をすれば、どちらの作品も「自己犠牲を過剰に美化しているだけの、欺瞞の物語だ」という批判を浴びせられるかもしれません。物語の特権によって、本当はすばらしくともなんともないもの(一つの価値観からみたときの判断に過ぎませんが)を感動的に描いたり、意味あるもの、重大なものとして表現することは昔から行われてきたことでした。特定の為政者を評価するための文学作品や、戦争肯定を目的に作られた映画などがこれにあてはまります。果たして「輪るピングドラム」もそうした歪んだ物語と同列に語っていいものなのでしょうか。

 

 ここで私たちには、「自分の愛するひとのために死ぬことは善いことか?」という問いに直面することになります。哲学、とくに倫理学の文献を紐解けばこの問いに対する「答えのようなもの」は現れますが、理性、論理的に導かれた答えにそのまま従うことが、私たちの人生にとって絶対の答えにはなりえないこともまた事実です(倫理学を否定する意図はありません。人間の善を論理的に追及する試みは、人間の生活において失われてはならない態度でもあります)。

 

 上記の問いについてここで答えを示すことは当然できません。しかしここでは、「輪るピングドラム」が私たちに与えるものについて語ることはできます。一つは上の問いです。本作を読み解くことで、多くの人が自己犠牲の是非について疑問を持つことができます。詭弁のようでもありますが、「問いを持つ」ということそのものには、大きな価値があります。そして第二にあるのが、「自己犠牲の選択肢を見つける」ことです。是非はさておき、私たちは、「自己犠牲」を自分の選択肢の一つとして捉えることができるようになります。本当に、自分が愛していて、命を懸けたってまったく惜しくもないようなもの、生命以上の価値を世界に認めるという考えを、「輪るピングドラム」は与えることになります。もちろんここには、その犠牲が確実な自己決定によるものであることが前提とされます。自己犠牲の言葉は、その性質上長らく悪用されてきたものでもあるからです。

 

 本編に話を戻しましょう。自己犠牲を選んだ(選ぶことができた)萃果は、最終的には乗り換え後の世界で生きることを、未来を獲得することができました。作中では自己犠牲の末にはこのような報酬があるという描かれ方がされています。愛の中でも最大のものである自己犠牲を選んだ彼女には、乗り換えの犠牲になる運命が待っていたはずが、晶馬によって、それは回避させられることになり、そして彼女は陽毬とともに乗り換え後の世界に移行します

 

 ここにはどういった意味が読み取れるのか。第一部からの萃果の変化に注目してみましょう。彼女ははじめ利己的で、盲目的な愛に生きていました。しかし、多蕗への愛が幻想であり、自分が本当に恋心を抱いているのは晶馬であることに気付いた彼女は、彼の運命や過去の因縁と衝突しながらも、利他的な愛に目覚め、そして自己犠牲を選択するに至りました。その果てに彼女は、ひとつの調和した幸せを手に入れることになります。これは確かに、「報酬」として読むことも可能のようです。自らを犠牲にしてでも何かを成し遂げようとする行為に対して、素晴らしい褒美が与えられるという物語の構造は古くからよく使われるものです。「輪るピングドラム」が一つの大きなテーマとして掲げているものが、「他者愛の推奨」というメッセージであるとするならば、その極地である「自己犠牲とその先の報酬」の意味も肯定的なものである必要があります。やはり本編でも、乗り換え後の萃果に後悔や不幸せが待ち受けているようではありません。

 

 ここで見るべきなのは、萃果の自己犠牲は(言葉の原義的には)失敗に終わっているという点です。順当な自己犠牲であれば、本人は愛する人を守るために命を投げ出して、それゆえに死に、そして愛する人は守られる。ということが為されるはずですが、萃果は、その犠牲を晶馬が肩代わりすることで生き延びてしまっています。姉の桃果は自己犠牲を完了していますが、妹はそうはならなかったわけです。自己犠牲の究極である「運命の乗り換え」をやることはイコールで死を受け入れることになるはずです。自己犠牲を描くのならば、萃果は、「銀河鉄道の夜」のカムパネルラと同じように死ぬべきであったはずです。しかし萃果は死ななかった。いいかえれば、幾原邦彦は、荻野目萃果を殺すことができなかったわけです。そこに萃果の物語の意味があります。

 

 「輪るピングドラム」は愛についての物語でした。誰かを愛することで、愛されたひとはこの世界に生きていくことができるということ、そして愛の喪失が生み出す破壊の感情と対決していくことが本作の大きな主題であったといえるでしょう。そしてその愛の、究極的な献身性の発揮が「自己犠牲」であったわけです。幾原邦彦は、明らかにこの「自己犠牲」を肯定的に捉えようとしています。しかし「自己犠牲」の物語には悲劇的属性がついて回ります。もしもあのとき、犠牲になったのが、冠葉と萃果で、救われた世界に残るのが晶馬と陽毬であれば、確かに物語は悲劇となっていたでしょう。そして悲劇であれば、悲しい余韻だけを心にもたらす物語であれば、自己犠牲を善いものとして描くことができなかったし、「輪るピングドラム」は決してここまでの作品にはならなかった。たくさんのひとに受け入れられている、多くの物語の一つの特徴として、「未来への志向性が物語の終りに示される」という形式があります。それは、未来への希望が仄めかされた形の結末です。「輪るピングドラム」もその一種であると言えます。晶馬と冠葉という犠牲の上に、全てがなかった形で世界は救われましたが、彼らが妹と友人を愛し、彼女らのために世界を残したのだということは、確かに伝わっていて、忘れられることはないのだというエンディングが、本作のそれでした。

 

 物語におけるメッセージで、「何かを肯定する」ためには、それを選ぶことに意味がなければなりません。そして選んだことや、選んだものに意味がなければ、それは悲劇になってしまいます。幾原邦彦は、肯定の物語を描くために、自己犠牲に意味を与える必要があったのです。それを示すのがラストで陽毬が発見するメモであり、そして萃果の生存となります。

 

 晶馬と冠葉には、その存在を(たとえ運命の乗り換えによる、観念的な存在の削除を受けたとしても)、愛の受け取り手であった陽毬は忘れられることは決してないという救いが、そして他人に対しての自己犠牲を選ぶことのできた萃果には、(一時的にであれ)救われた世界と、そこで生きていくこと、陽毬との相互的な「愛」(もちろん「友愛」ですが、本作において情愛・恋愛・友愛を区別する必要はないと思われます)の世界を続けていくことが与えられます。これらを、自己犠牲の上の「報酬」であると表現するのは、ややひねくれた考えでしょう。こういった物語の結末が示しているものは、彼ら彼女らの自己犠牲に、「意味」が与えられたということなのです。この「意味」付与のために萃果は生き残ったのだと考えることができます。

 

 長くなりましたが、荻野目萃果の物語はこのように読むことができるのではないでしょうか。彼女は利己的な愛から利他的な愛を見つけるに至り、そして自己犠牲の末に、確かに、(意地悪な言い方をすれば物語上の真の神である幾原によって)その意味を与えられました。個人的には、彼女の物語について、これは作者の恣意が現れてしまった部分(しかしそこにこそ、物語の大きな意味が込められています)であるという感覚が否めませんでした。言葉を尽くそうとするほどに、ある種の強引な力が見えてくるような気がしますが、しかし裏を返せばそこにこそメッセージがあるわけです。「そう描かざるを得なかった」という視点を以て物語をみることによって、物語を飛び越えた、語り手の世界が見えてくるのかもしれません。

 

 

以下、予定中の考察。

五、損なわれた子どものかけら―ペンギンたち